フランス革命は、国王の処刑で終わりじゃない。いつまで続いた?

フランス革命と言えば、フランス国民によって1789年に起き、当時の国王夫妻・ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されたもの、というイメージではありませんか?「ベルサイユのばら」で知った方も多いかもしれません。

確かにそのイメージも間違ってはいませんが、それに至るまでのプロセス、また、国王夫妻の死後も続いた革命の様子とその終わりについては、いかがでしょうか。王権を打倒して平和が訪れたかと言えば、そうでもなかったんですよ。その頃のフランスの混乱の様子を、今回は主な登場人物と共にご紹介しましょう。フランス革命の成果とその陰の悲劇を知っていただければと思います。

フランス革命以前の状況

フランス革命以前の状況

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フランスを支配していたのはブルボン朝という王家で、太陽王と呼ばれ、強大な王権の元に絶対王政という体制を敷いていたルイ14世の頃に全盛を迎えていました。
ルイ16世はルイ14世の曾孫・ルイ15世のさらに孫に当たります。

しかし、ルイ16世が即位した18世紀末になると、絶対王政の流れが少しずつ崩れていきます。

まず、1776年にアメリカが独立革命でイギリス支配から独立しました。
市民が自分たちの手で自由を勝ち取ったのです。

加えて、ルソーやヴォルテールといった思想家たちによる啓蒙思想が広まっていきました。

啓蒙思想とは、支配者(王)と被支配者(臣下、民衆など)の関係を否定し、人は平等であるという考えが根底にありました。
そして、人々が自分たちで社会を作ろうと目覚め始めていたのです。

当時のフランスの社会体制は、「アンシャン・レジーム」と呼ばれ、3つの身分に分かれていました。
第一身分が聖職者、第二身分が貴族、そして第三身分が市民や農民だったんです。
日本でも士農工商なんてありましたよね。
けれど、それよりももっと厳格なものだったんです。
そのため、第三身分の人々の不満は蓄積していったのでした。

そこへ、アメリカ市民が革命を起こして自由な国を造ったというのですから、影響されないわけがありません。

フランス革命の背景

フランス革命の背景

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ルイ16世の頃のフランスは、実は超赤字で国家がとても困窮していました。
というのも、ルイ14世やルイ15世が戦争をしまくったり贅沢をしすぎたりしたせいで、お金が無くなってしまったんです。

増税しようにも、もう民衆からは取りすぎていたほどだったので、さすがにそれは無理でした。

そこで、ルイ16世は、免税特権のあった第一・二身分にも税を課そうとしたんです。

ところが、それまでの特権を無くしたくない第一・二身分は猛反発。
このプランは頓挫していまいました。

加えて、この頃にアイスランドのラキ火山の大噴火がヨーロッパ中の天気に深刻な影響を与えていました。
噴煙で日照量が減り、農作物が不作となって飢饉が起きてしまったんです。

とにかく収入をどうにかしなくては…と考えたルイ16世は、すべての身分の代表からなる議会「三部会」を招集して課税の賛否を決めることにしました。

ところが、これが40日経っても結論が出ません。

特権階級と第三身分の議論は全然かみ合わなかったのです。

球戯場の誓い、新たな議会の発足

球戯場の誓い、新たな議会の発足

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そこで、第三身分の代表たちはヴェルサイユ宮殿内の球戯場に集まり、新たな議会「国民議会」の発足を宣言しました。
これが「球戯場の誓い」と呼ばれるものです。
ちなみに、テニスコートの誓いと呼ばれることもありましたが、これは誤訳だとも言われていますよ。

ルイ16世は混乱を収拾するため、やむなく国民議会の成立を認めます。

しかし黙っていないのが第一・二身分の人たち。
彼らは、第三身分に圧力をかけようと、王に軍隊の招集を求めました。

そして、パリに向かって2万もの兵が集まってきます。

危機感と不満が頂点に達した民衆たちは、ついに行動を起こしたのでした。

革命の始まり、バスティーユ牢獄襲撃

革命の始まり、バスティーユ牢獄襲撃

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国の財政改革のため、ルイ16世は財務長官に民衆からの人気が高いネッケルを任命していました。
しかし彼が罷免されたことで、民衆の怒りにさらに火がついたんですね。

そして、1789年7月14日、民衆はパリのバスティーユ牢獄を襲撃しました。
これがフランス革命の始まりです。

ちなみにこのバスティーユ牢獄、政治犯や精神病者を収容する施設でした。
あのサド侯爵も、革命の直前までここにいたそうです。

パリの人々が立ち上がったことで、地方にもこの動きが波及し、農民は領主を襲って財産を奪いました。

ここで、国民議会は封建的特権の廃止を宣言して領主と農奴の身分関係を無くし、フランス人権宣言を発表したのです。

この人権宣言の基本原則は、現在の各国の憲法にも通じます。

人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、立法・司法・行政の三権分立などですね。

王が主体となって政治を行ってきた時代から、一歩前に進み出したというわけです。

ところが、国民議会の宣言をルイ16世は認めませんでした。

というのも、王妃マリー・アントワネットら特権階級の保守派は第三身分を見下しており、そうした声を王は止められなかったんです。
王が弱かったのか、保守派が強すぎたのか…。

そんな現状に立ち上がったのは第三身分の男たちだけではありません。

次に声を挙げたのは、女性たちでした。







女性は強し!ヴェルサイユ行進

女性は強し!ヴェルサイユ行進

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ラキ火山の噴火の影響での凶作や、政情不安定によって物価は上昇し、特にパンの原料となる穀物類の価格の急騰は、人々の家計を直撃していました。

そんな中でも、王侯貴族は豊かな生活を送っていたのですから、一般市民には認められるわけがありません。

そして、家を守る主婦たちをはじめとした数千人が、「パンをよこせ!」と叫びながら、王のいるヴェルサイユ宮殿へと行進を開始したんです。

この一部が暴徒化したため、慌てたルイ16世は人権宣言を承認しました。

そして、怒りに燃えた民衆によって、国王一家はパリのテュイルリー宮殿(現在のルーヴル美術館の隣にあった宮殿)へ連行され、監視下に置かれることとなったのです。

これが1790年のことで、この時に現在のフランス国旗が革命の旗となったんですよ。
赤と青は革命軍が帽子につけていたバッジの色で、白はブルボン朝のシンボル・白百合の色でした。
一応は、まだこの時は王家も支持されていたわけです。

王が逃亡!?ヴァレンヌ事件

王が逃亡!?ヴァレンヌ事件

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革命が起き始めたとはいえ、すべての人が王を否定しているわけではありませんでした。
球戯場の誓いの中心人物でもあったラファイエットやミラボーたちは、王を立てて憲法のもとに政治を行う立憲王政派で、特にミラボーなどは王政の存続のため、急進派との調整役を担っており、王にも信頼されていたんです。

しかしそのミラボーが急死してしまったので、ルイ16世は他の革命派を信用できず、密かに反革命の思いを抱き始めていました。

そこで、マリー・アントワネットが実家のオーストリアへの亡命をすすめてきたんですよ。

つまりは、当時ヨーロッパで絶大な力を誇ったオーストリア・ハプスブルク家の力で、革命をつぶしてしまえということだったんです。

ベルばらにも登場する彼女の愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの献身的な協力もあり、亡命計画は着々と進んでいました。

しかし、そこはマリー・アントワネット。

馬車や服を新調すると言いだし、計画の実行は1ヶ月以上も遅れてしまいました。

1791年6月20日の深夜、ようやく国王一家は変装してテュイルリー宮殿を抜け出しました。
翌朝には気づかれ、捜索隊が彼らを追います。

早く逃げればいいものを、国王一行はゆっくりと優雅に食事しながらの道中でした。
しかも馬車が豪華すぎて目立ちまくり、誰がどうみても王様だとバレバレだったんです。

当たり前ですが、さっさと捕まり、パリへ連れ戻されてしまいました。

これがヴァレンヌという場所だったので、ヴァレンヌ事件と呼ばれます。

これは、単なる国王逃亡未遂事件ではすまされませんでした。

王が逃げ、外国の力を借りて攻め込んでくるという認識を民衆に持たせてしまったんですね。
つまりは、王は市民の敵ということになったんです。
そして、今まで王を支持する王党派だった人々までが、態度を翻してしまったのでした。

王を幽閉、8月10日事件

王を幽閉、8月10日事件

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フランス革命を聞きつけた周辺諸国、絶対王政の国であるオーストリアやプロイセン(現ドイツ~ポーランド付近)は、フランスへ攻め込んできます。

一応、フランス国内でも1791年憲法というものが制定され、立憲君主制となりましたが、これは形ばかりのものでした。

1792年、ついにオーストリア・プロイセン連合とフランス革命戦争が起こります。

フランス軍は負けまくりました。
指揮官が貴族(つまり特権階級)だったので、あまりやる気がなかったのと、マリー・アントワネットが情報を敵側に漏らしていたためです。

パリ陥落の危機に瀕した革命軍ですが、各地に祖国を守ろうと檄を飛ばすと、続々と義勇兵が集まってきました。
その時、マルセイユの義勇兵が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」こそが、現在のフランス国家なんですよ。

パリに集まった義勇兵たちや市民は、革命軍が負け続けるのは王と王妃のせいだと怒りに燃えていました。
そして、8月10日にテュイルリー宮殿を襲い、王権を停止し、国王一家をタンプル塔に幽閉してしまったのです。
これを8月10日事件と言います。

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