ドイツの歴史をたどる中世都市の旅

ドイツの正式な国名はドイツ連邦共和国で、16の連邦州によってできています。パリを中心に国ができているフランスと違ってドイツは神聖ローマ帝国以来の伝統でしょうか、各地域の独立性が強く、比較的小さな都市が国のあちこちに点在していて、それぞれがその地域の中心になっているのですよ。神聖ローマ帝国は300あまりの領邦国家に分かれていたのでそれぞれに宮廷都市があり、そのほかにも都市国家のような帝国自由都市もありました。その中からいくつかピックアブしてドイツを歩いて回ることにしましょう。






カール大帝の宮廷はアーヘンにありました

カール大帝の宮廷はアーヘンにありました

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ドイツ一周の旅はまずアーヘンから始めることにしましょう。
ところで、このアーヘンという都市をご存じですか。
ドイツの首都はベルリンなのにどうしてベルリンから始めないのかと疑問を持たれたことでしょうね。
アーヘンはドイツの西の端、オランダとベルギーとの国境地帯にある都市なのですが、この地域はかつてはヨーロッパの中心だったのですよ。
なぜなら、ここにカール大帝の宮廷があったからです。
フランク王カール大帝は現在のフランスとドイツと北イタリアにまたがる地域を支配下におさめ、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を授けられたのでした。
西ローマ帝国が復活したということですが、カール大帝自身はもちろんローマ人ではなくゲルマン民族のなかのフランク人。

476年に西ローマ帝国が滅亡してからゲルマン民族がいくつかの王国を建国しましたが、そのほとんどが滅亡したあと、フランク王国がふたたびヨーロッパを統一。
800年のカール大帝の西ローマ皇帝戴冠がその象徴ですが、現在世界文化遺産に登録されているアーヘン大聖堂はその少し前、786年に建設が開始されたのですよ。
814年にそのカール大帝が死んでフランク王国も分裂するのですが、936年に東フランク王オットー1世がこのアーヘン大聖堂で戴冠式を行い、自分こそがカール大帝の後継者だと宣言したのですね。
962年にローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を授けられたのですが、それ以後神聖ローマ皇帝たちはまずアーヘン大聖堂でドイツ王としての戴冠式を行い、ローマでローマ皇帝の戴冠式というのが伝統になったのですよ。

ケルン大聖堂を完成したのはプロイセン王でした

ケルン大聖堂を完成したのはプロイセン王でした

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宝物館にカール大帝の黄金色の肖像のあるアーヘン大聖堂をあとにして、東に向かって少し行くとライン川のほとりにケルン大聖堂がそびえています。
ふつう鉄道の中央駅はその都市の中心部から離れた場所にあるのですが、ケルンは中央駅のすぐ前にゴシック様式の大聖堂が建っています。
ケルンはラテン語の「コロニア」からきていて、ローマ人の造った都市。
市内にはローマ人の残した遺跡もあり博物館もありますよ。
大聖堂の土台もその時代である4世紀にさかのぼりますが、フランク王国時代の818年に完成した大聖堂は1248年に焼失。
その直後に再建工事が開始されたのですが、財政難のため完成をみることなく放置されていたのですね。

7人の選帝侯のうち3人は聖職者だったのですが、マインツ大司教を筆頭にケルン大司教とトリアー大司教がこの3人の選帝侯。
16世紀の宗教改革によりカトリックの大司教は財政難に陥り、ケルン大聖堂も尖塔が1本しかなかったのでした。
19世紀にナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体され、そのかわりにドイツ人の国民意識が目覚めたのですね。
その象徴として選ばれたのがケルン大聖堂。
正式名称は聖ペテロとマリアの大聖堂で、馬小屋で誕生したイエスのもとに星に導かれてやって来た東方の三博士の聖遺物が納められているのですよ。
1842年に建築が開始され、1848年に三月革命、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争、1871年のプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠を経て、1880年に完成。
まさに統一されたドイツ帝国の象徴で、1996年にはユネスコ世界文化遺産に登録されています。

ライン下りのハイライトはマインツからコブレンツです

ライン下りのハイライトはマインツからコブレンツです

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ライン川はスイスからドイツとフランスの国境を通って、ドイツのラインラント=プファルツ州を流れオランダで海に注いでいます。
大きな船舶がライン川の上流まで航行していますが、観光としてのライン下りはマインツからコブレンツがハイライト。
今回はコブレンツからマインツまでライン川を上ってみることにしましょう。
コブレンツはライン川の支流であるモーゼル川とライン川とが合流するところにある都市。
この合流地点をドイッチェス・エック、つまり「ドイツの角」と呼んでいますが、ここには1871年にドイツ皇帝になったヴィルヘルム1世の騎馬像が建っていて、ドイツ帝国を見渡していますね。

そこからライン川を上っていくと、崖の上には多くの古城が見えてきます。
なかにはホテルになっている古城もありますよ。
自然が生み出した崖と人間が建設した古城との奇妙なマッチング。
それにモーゼル川流域もライン川流域もワインの産地として有名ですね。
切り立った崖にはブドウ畑があり、収穫の季節になるとその急な斜面でブドウの実を手で摘んでいる人を見ることができるかもしれませんね。
マインツは選帝侯でもあるマインツ大司教のいる大聖堂がありますが、この大聖堂はゴシックより前のロマネスク様式。
グーテンベルクの生まれた都市でもあり、グーテンベルク博物館では世界最初の活版印刷が見られます。

フランクフルト・アム・マインには空港も大銀行もあります

フランクフルト・アム・マインには空港も大銀行もあります

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マインツはまたライン川とその支流であるマイン川との合流地点。
ライン川からマイン川へと旅の道を変えてみましょう。
するとすぐにフランクフルト・アム・マインに到着します。
「アム・マイン」がついているのは「マイン川のほとりの」という意味で、ポーランドとの国境のオーデル川沿いにあるフランクフルト・アン・デア・オーデルと区別するためのもの。
もっとも、その都市の規模からいっても歴史的重要性からいっても、フランクフルトといえばこちらのフランクフルトですね。
アーヘンでドイツ王の戴冠式が行われましたが、選挙はフランクフルトで行われていたのですよ、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が決めた『金印勅書』で選帝侯は7人、選挙はフランクフルトということが正式に決定されたのですね。

1220年にフランクフルトは帝国自由都市となり、市民が自治権をもつようになりました。
現在のフランクフルトにはドイツの中心となる空港があり、また金融の中心地ですから旧市街を出るとそこには近代的な高層ビルが建ち並び、ドイツ観光で見られる中世以来の街並みはほんの少ししかありません。
世界的大富豪として有名なロスチャイルド家はもともとここの出身で、赤い看板を出していた商家。
赤い看板をドイツ語で言うとロート・シルトで、それを英語流に読んでロスチャイルド。
ロートシルト家が正しいのですよ。
また、ドイツでは詩聖として名高いゲーテが生まれたのもここフランクフルト。
ゲーテの生家を見ることができますよ。







ヴュルツブルクからロマンティック街道が始まります

ヴュルツブルクからロマンティック街道が始まります

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マイン川をさかのぼっていくとヴュルツブルクに到ります。
マイン川の河岸にも一面のブドウ畑があり、ここは独特のボトルに入ったフランケンワインの産地。
フランケン地方は州にはなっていませんが、ヴュルツブルクはフランケン地方の中心都市。
大司教がこの都市を治めていたので、788年に完成した大聖堂と1720年に建造された大司教のレジデンツがあるのですよ。
そして崖の上にはマリーエンベルク要塞があり、市内からはバスで上っていくことができます。
1517年のルターの宗教改革のあと、農民たちによるドイツ農民戦争が全国に広がりましたが、ヴュルツブルクでは農民たちはこの要塞を攻め落とすことができず敗北。
要塞に通じる坂道に記念碑が建っています。

ヴュルツブルクからはロマンチック街道が南に向かって通じています。
途中には中世都市そのままの姿をしたローテンブルクやネルトリンゲンなどがあり、ドイツ観光の中心の一つとなっています。
ロマンチック街道はやがてアウクスブルクに到りますが、この都市では帝国議会が開催されました。
市庁舎に双頭の鷲の印がありますが、これは神聖ローマ帝国の象徴。
街道はさらに南に向かいますが、ロマンチック街道の名前の由来は「ローマへの道」ですから、アルプスを越えてローマに通じていたのですね。
神聖ローマ皇帝たちはこの道を通ってローマに行きローマ教皇から帝冠を授けられたことでしょうね。

ニュルンベルクには皇帝の城があります

ニュルンベルクには皇帝の城があります

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ヴュルツブルクからロマンチック街道ではなく東に進むと、ニュルンベルクに到ります。
ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台となった都市ですね。
神聖ローマ皇帝たちの多くがニュルンベルクを居城にしたということですが、プラハに宮廷を置いていたカール4世も『金印勅書』はニュルンベルクで公布。
ニュルンベルクにはカイザーブルク、日本語にすると皇帝の城が城山に建っています。
旧市街にはゴシック様式のフラウエン教会がありますが、ゴシック様式の教会の特徴である空に向かってそびえる尖塔はありません。
そのかわり、この聖母を祀る教会の前の広場にあるシェーナーブルンネン、つまり美しい泉には手の込んだ細工が施されていて、恋人たちが金の指輪をそこれ掛けて変わらぬ愛を誓うとか。

ブランデンブルク辺境伯からプロイセン王、そしてドイツ皇帝になったホーエンツォレルン家も、もとはといえばこのニュルンベルクの領主。
その当時は「高い」という意味のホーエンがなくただのツォレルン家でしたが、ドイツ皇帝の出身地としてニュルンベルクはナチ党にとっても聖地。
ヒトラーの第三帝国は1933年から1938年までニュルンベルクで盛大な党大会を開催。
戦争に勝利したときに党大会を開催する予定だったコングレスハレは未完成のまま放置。
盛大な党大会かわりナチ党員たちは、ニュルンベルクで戦犯として裁判にかけられたのですよ。
ドイツ帝国も第三帝国も首都はベルリンだったのですが、皇帝の城のあるニュルンベルクは特別な都市だったのですね。

ハイデルベルクにはドイツで一番古い大学があります

ハイデルベルクにはドイツで一番古い大学があります

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ニュルンベルクから南に行くとバイエルン州の州都ミュンヘン、一気に北に飛ぶとドイツ連邦共和国の首都ベルリンがあるのですが、これらの都市はちょっと見るには大きすぎますので、ライン川に戻ってハイデルベルクを見てみましょう。
ハイデルベルクにはライン川の支流ネッカー川が東西に流れています。
これまでに紹介したドイツの都市はたいてい第二次世界大戦の空爆で破壊されていますが、ハイデルベルクは空爆を受けなかった数少ない都市。
そのかわり山の中腹に建つハイデルベルク城は、17世紀に三十年戦争とプファルツ継承戦争でなんと3度も破壊され、そのままになっているのですよ。

ハイデルベルクは7人の選帝侯の一人であるプファルツ選帝侯の宮廷都市。
神聖ローマ皇帝カール4世がプラハに大学を創設したのに対抗してハプスブルク家のルドルフ4世がウィーンに大学を創設。
当時としては3番目にプファルツ選帝侯がハイデルベルクに大学を創設したのですが、現在プラハはチェコの首都でウィーンはオーストリアの首都ですから、ドイツで1番古い大学はハイデルベルク大学ということになりますね。
ハイデルベルクの街はネッカー川で2つにに分かれていますが、これをつなぐのがアルテ・ブリュッケつまり「古い橋」。
第二次世界大戦中、連合軍の侵攻を食い止めるためにドイツ軍がこの橋を壊したので、空爆はなかったけれどもやはり戦争の被害があったということになりますよ。

次のページでは『ブレーメンにはブレーメンの音楽隊の銅像が建っています』を掲載!
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Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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