観光の前に知りたい!ドイツの近代史が詰まった「ベルリン」の歴史

統一ドイツの首都であり、ドイツ最大の都市・ベルリン。

人口は350万人、これはドイツで最大であることはもちろん、ヨーロッパではロンドンについで第2位。イギリスがEUを離脱するとEUで最大の都市になります。

旧ドイツ帝国、そしてナチス=ドイツの首都だったベルリンは2度の戦禍に見舞われ、その後の東西冷戦時代はそれを象徴する都市でした。ベルリンを東西に引き裂く「壁」が建設され、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われました。ベルリンはまさに、「冷戦の最前線」だったのです。

「壁」が壊され、再びひとつになったベルリン、その歴史を紐解いてみましょう。

都市ベルリンの姿

都市ベルリンの姿

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“ベルリン”の名前の由来は?

「ベルリン」という地名の語源ははっきりしていません。

ある説によれば、西スラブ人が現在のベルリン一帯に住み着いたときに彼らの言葉で「湿地」を意味する“berl(birl)”という言葉がもとになったと言われています。
ベルリンは、フランスからロシアまでつながる「北ヨーロッパ平野」のうち、土地の低い湿地帯にあるため、この一帯をこう呼んだのかもしれません。
もうひとつはドイツ語で「熊」を意味する“Bär”に結びつくとされるもので、根拠はないとされる一方で、今日のベルリンの紋章には熊が描かれています。

位置的にはドイツの東部、お隣のポーランドとの国境からは60㎞しか離れていません。
地名にもあらわされている通り、平坦な低い土地で周囲を森林に囲まれています。
ベルリンからポーランドのワルシャワの間は最終氷期に形成された谷となっており、シュプレー川がそこを流れています。
今のベルリンはこのシュプレー川の流域両岸に都市が広がっています。

ベルリン郊外に目を向けると森林と湖が多いのが特徴です。
ベルリンを流れるもうひとつの川、ハーフェル川の流れに沿って湖が点在しています。

夏は温暖で湿気があり、冬は寒冷な「西岸海洋性気候」に属し、降水量は年間を通じて平均しています。
冬は雪が降るときもありますが、積もった状態が長く続くことはありません。

今のベルリンの立ち位置

現在は統一ドイツの首都ですが、ドイツ国内でのベルリンは「立法・行政の中心」という立ち位置です。
ドイツは長い歴史を「分裂国家」として過ごした経緯もあってか、「地方分権」が進んでいます。
そういった事情もあって例えば経済の中心はフランクフルト、法律はカールスルーエといった具合に、それぞれの都市がそれぞれの役割、立ち位置を持っています。

とはいえ、ドイツの中心都市がベルリンであることに変わりはありません。
サービス産業を中心に経済も発達しており、交通の要衝でもあり、観光都市でもあります。
有名な大学や博物館もありますから学術都市の顔も持っています。
政治・文化・科学などの様々な分野でドイツ国内のみならず、世界的にも進んだ世界都市なのです。

ドイツは「連邦制」の国でいくつかの「連邦州」に分かれていますが、ベルリンは「ベルリン市」としてひとつの「連邦州」とされています。
つまりベルリンは一般の都市以上に行政の権限が認められているということです。
ドイツ国内にはベルリンのほかにあとふたつ、ハンブルクとブレーメンが連邦州とされています。

小さなベルリンの誕生

小さなベルリンの誕生

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ベルリンのはじまりから“スラブ人のベルリン”まで

ベルリンの周辺に人間が生活し始めた時期は紀元前6万年ごろと言われます。
この時期を含む紀元前7万年から紀元前8000年頃は「ヴェルム氷期(最終氷期)」にあたり、北部ドイツや東部ドイツではまだ氷が残っていましたが、氷が少なくなってきたベルリン周辺はシュプレー川に沿って形成された台地にシカやイノシシといった動物が定着、それを追って人間が住むようになっていました。
火打石や骨を細工した道具などが見つかっています。
さらに紀元前9000年頃には石斧などの道具も使っていたようで、狩猟を生業とする人類が定住していたということです。

紀元前3000年頃になると農耕や家畜飼育の痕跡も現れ、土器や備蓄のための倉庫などをつくるなど、この地域で農耕文化が定着し始めました。

紀元前6世紀ころにはこの地域に「ゲルマン民族」が定住していたようです。
タキトゥスの「ゲルマニア」に登場する“スエビ族”の一部と考えられる“ブルグンド族”などの名前がこの土地に定住した部族として勢力を拡大していました。

紀元4世紀以降ゲルマン民族の大移動が始まり、ハーフェル川やシュプレー川周辺からゲルマン系の部族は離れて行きます。
これに乗じてスラブ人が流入、720年頃のベルリン周辺はスラブ人の住む土地となっていました。

ドイツ人のベルリン奪還 アルプレヒト“熊公”の活躍

すべてのゲルマン系の人々がベルリン周辺から離れていったわけではもちろんありません。
この地域に残ったゲルマン人もいました。
しかしゲルマン人がローマ帝国領内に侵入し、定着したのと同じく、スラブ人も移住先に定着して独自の社会をつくります。
残されたゲルマン人はベルリンの奪還を試みますが失敗に終わることが長く続きました。

“ゲルマン人”、すなわちドイツ人の“ベルリン”奪還は1157年、アルプレヒト1世がスラブ人を撃退し「ブランデンブルク辺境伯」となる時まで待たなくてはなりませんでした。
アルプレヒト1世はドイツ人が現在の東部ドイツを含む地域に進出する足掛かりをつくった一人です。
スラブ人の土地となっていたベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領を神聖ローマ帝国の一部としました。

アルプレヒト1世は別名を「アルプレヒト熊公」といいます。
なぜ「熊公」なのか、実ははっきりした説明は残されていません。
もしかすると、これはあくまで筆者の想像ですが、ベルリンの地名の由来のうちのひとつ、“Bär(熊)”に関係があるのかもしれませんね…。

諸侯のベルリンをめぐる争い

諸侯のベルリンをめぐる争い

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