なんでアムステルダムは首都なのに首都機能がないの?オランダ・アムステルダムの歴史

オランダの都市といえばだれもが思い浮かべるのがアムステルダム。人口は82万人。もちろんオランダ最大の都市であり、オランダの首都です。ただし、首都機能と呼べるものはほとんど、この国の第3の都市「デン・ハーグ」にあります。どうしてこんなことになったのでしょうか?
並みいるヨーロッパの大国の都市を押しのけるように、小国オランダの都市がここまで有名になったのは、いったいどういった経緯だったのでしょうか?
ヨーロッパの中心都市としてあまりにも有名な商業・観光都市アムステルダムが現在の姿になった歴史を見て行きましょう。

始まりは『アムステル川に築かれた「堤防」』だった

始まりは『アムステル川に築かれた「堤防」』だった

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未開の土地 古代からヴァイキングの時代まで

わたしたちが「オランダ」と呼んでいる国は実は「ネーデルラント」というのが正式名称。
ネーデルラント(Neder₋landen)は“低い土地”という意味で、他の地域に比べて海抜よりも低い土地なのです。

このネーデルラント、ローマ帝国の時代にはすでにフランク人やフリース(フリジア)人の住むゲルマン人の土地でしたが、カエサルのガリア征服によりライン川より南の地域はローマ帝国領となっています。
それより北の地域はローマの勢力の及ばない地域でした。
特に西ネーデルラント(現在の南北ホラント州、アムステルダムを含みます)は12世紀に至るまで「未開の土地」であったといいます。

アムステルダムの近くには「フレヴォ湖」と呼ばれる湖がありましたが、この時代を通じて拡大しており、後に海水の侵入で海とつながります。
浸食を受けやすい泥炭地だったのです。

ゲルマン民族の大移動の時期にはその通過点となり、フランク王国の成立後はフランク領、王国の分裂後は中フランク王国から東フランク王国に帰属が変わり、9世紀から11世紀のヴァイキングの活躍した時代はヴァイキングの征服を受けました。

11世紀以降、フランドルなどの農民が西ネーデルラントに入植、泥炭地を排水して開墾するようになります。
この地域がホラントと呼ばれるようになったのはこの頃で、私たちが「オランダ」と呼んでいるのはこの「ホラント」に由来します。

アムステルダム建設の伝説と名前の由来

アムステルダムの建設は遅く、13世紀のことです。
伝説では犬を連れてボートに乗ったふたりの漁師がアムステル川の川岸に上陸して築いたといわれています。
始まりは漁村だったのです。

このアムステル川を堰き止める堤防(ダム)が1270年ころに建設され、結ばれた川の両岸の周辺に人々が集住するようになりました。
「アムステル川を堰き止めるダム」…これがそのまま町の名前、「アムステルダム」になったのです。

こうして誕生したアムステルダムは次第に拡大していきます。
船着場近くには魚市場が立つようになり、これがのちの商業都市への第一歩となったのです。

この地域の土壌は浸食を受けやすいもろい土地で、ローマ時代にはフレヴォ湖と呼ばれる湖だったものが、その頃は「ゾイデル海」と呼ばれる入り江になっていました。

このゾイデル海に1287年12月14日、嵐により北海から大量の海水が流れ込み、5万人とも8万人とも言われる死者を出す惨事となりました。
この洪水の後も海水は引かずにゾイデル海が北海とつながったことが、アムステルダムを交易都市とするきっかけとなりました。
入り江の一番奥に位置するアムステルダムは北海からバルト海へとつながる航路を確保し、バルト海交易路が開かれたのです。

商業都市・アムステルダムの萌芽







バルト海交易の中心地となったアムステルダム

バルト海交易の中心地となったアムステルダム

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こうして海の交易路を得たアムステルダムは1300年には自由都市となり、ちょうどその頃、北ドイツで隆盛を誇っていたハンザ同盟と交易を始めます。
ハンザ同盟は北ドイツの都市・リューベックを盟主とする商業都市の同盟です。
12世紀以降、人口が増大し商業が復活するとともに発展し、バルト海沿岸の交易を牛耳っていました。

アムステルダムを含むネーデルラントは14世紀後半にはブルゴーニュ公国の一部として政治的にも統一されつつあり、特に南部で毛織物を中心とした商業が発展していました。
バルト海交易においてハンザ同盟とネーデルラントの間に利害の衝突はなく、むしろ当時の共通の脅威はデンマークでした。

ハンザ同盟はデンマークと戦争状態に入ります。
この時のハンザ会議にアムステルダムは代表を送っています。
すでにこの頃、商業都市としての地位を確立しつつあったのです。
この後、15世紀に入るとハンザ同盟のヨーロッパ貿易における地位が徐々に、相対的に低下していくと同時にネーデルラントの諸都市、そしてアムステルダムがハンザ都市を上回ることになります。

スペイン=ハプスブルクの支配

ネーデルラントを支配していたブルゴーニュ公、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の家系はマリー・ド・ブルゴーニュで絶え、長男のフィリップ4世がネーデルラントを継承します。
彼の父はハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世でこの後のネーデルラントはハプスブルク家の支配下となります。

フィリップ4世の子・シャルルが神聖ローマ皇帝カール5世として即位すると、ネーデルラントはカール5世の専制支配のもとで徐々に経済的自由を失います。
さらに折からの宗教改革の波がネーデルラントにも押し寄せており、とくにアムステルダムを含む北部ではプロテスタントが普及していきました。
「神聖ローマ皇帝」であるカール5世はカトリックの擁護者、必然的に緊張関係が生じます。

そうした情勢の中でカール5世は退位し、ヨーロッパ全土に及んだ家領をオーストリアとスペインのふたつのハプスブルクに分けて相続させます。
ネーデルラントはスペイン=ハプスブルク家の支配下に入れられました。

スペインを継承したフェリペ2世はカルヴァン派のプロテスタントを異端審問で弾圧、さらに課税を強化するなどの強硬的な姿勢で統治をおこないました。
カルヴァン派はもちろん、南部に多かったカトリックの商人もフェリペ2世に反発したため、緊張関係はさらに強くなります。
そしてついにはネーデルラント全体を巻き込む反乱がおこったのです。

成長するアムステルダム

成長するアムステルダム

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ちっちゃな頃から歴史好き、四十路を越えても歴史好きの兼業ライターでございます。皆様の旅のちょっとしたお手伝いが出来ましたら幸いです!

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