鎖国時代の日本にとって「世界」の窓だったオランダの歴史

オランダとベルギーとルクセンブルクの3国を合わせて、「ベネルクス」と呼んでいるのを知っていますか。ヨーロッパ連合(EU)、それ以前のEEC(ヨーロッパ経済共同体)より前から、この3つの国は協力体制を構築していたのですよ。ところでこの「ベネルクス」の「ベ」はベルギー、「ルクス」はルクセンブルクだとすぐにわかるのですが、なぜ「オ」ではなく「ネ」なのでしょうか。またオランダは鎖国していた江戸時代の日本にとっても、ヨーロッパに向けて開かれた唯一の窓。そのオランダにはどんな歴史があるのでしょうか。

ローマ帝国の国境にあり、フランク王国の中心に

ローマ帝国の国境にあり、フランク王国の中心に

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オランダはライン川によって南部と北部に

スイスに水源のあるライン川は、ドイツとフランスとの国境を流れ、やがてドイツの川となり、そしてオランダで海に流れ出ます。
このライン川は、古代ローマ帝国とゲルマン民族の居住地域とを分ける自然の境界線。
ライン川の河口にあるオランダは、そのライン川でちょうど2つの地域に分かれているのですよ。
ですから、オランダの南部は紀元前50年からローマ帝国に編入され、ここには、ユトレヒトやマーストリヒトなどの都市が建設されたのですね。
それに対して北部は、ローマ帝国に編入されることなく、ゲルマン民族のなかのフリース人などが暮らしていました。

ローマ帝国の自然の国境であるライン川とドナウ川を越えて、ゲルマン民族のさまざまな部族が侵入するようになったのでしたが、290年頃からは、フランク人が南東からこの地域に入ってきたのですね。
ローマ人はこのフランク人を追い払おうとしたのですが、ローマ帝国においてこの地域は北の辺境。
なかなかうまくいきませんでした。
結局、355年には、ライン川南部のこの地域に、フランク人が居住することを認めたのですよ。
この地域は、現在のオランダ南部とオランダ・ベルギー・フランスまたがるフランドル地方、それにドイツの一部を含んだ、まさにヨーロッパを集約していた、と言っていいでしょう。

フランク王国の首都アーヘンが「ネーデルラント」に

395年にローマ帝国が東西に分裂し、475年に西ローマ帝国が滅亡。
その後、ゲルマン民族の部族が次々に王国を建国し、興亡を繰り返したことはよく知られていますね。
フランク王国のルーツは、まさにこの地域にあったのですね。
フリース人は海岸部に、ザクセン人は東部に、そしてフランク人は南部に居住していましたが、486年、フランク人は周囲の敵たちと戦い、領土を拡げたのですね。
クロードヴィヒの指揮のもと、フランク人の王国は、南に広がり、ロワール川のあたりにまで達したのですよ。
それになによりも、イベリア半島から侵入してきたイスラム教徒との戦いに勝利した功績は大きいですね。

これがフランク王国ですが、宮廷のあった都市はアーヘン。
アーヘンは現在ドイツの都市ですが、オランダとの国境にあります。
この当時は、ドイツもオランダもベルギーもなかったので、この地域は、「低地」を意味する「ネーデルラント」。
ライン川下流の低地に、さまざまな部族が定住していたのですが、そのなかで、フランク人が力を得て、海岸地域に住んでいたフリース人を従え、そしてついに、フランク王国のカール大帝はザクセン人に勝利。
西ローマ帝国を復活したということで、800年に、ローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を授けられたのでした。
これで、「ベネルクス」の「ネ」の意味がわかりましたね。

分裂したフランク王国のちょうど真ん中がネーデルラント

分裂したフランク王国のちょうど真ん中がネーデルラント

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フランク王国が分裂してネーデルラントは東フランクに

フランク王国はすでにキリスト教に改宗していましたが、フリース人もザクセン人も、相次いでキリスト教徒に改宗。
キリスト教、とりわけローマ=カトリックと西ヨーロッパとが一体化したと言っていいでしょうね。
そしてその中心が、ネーデルラントのアーヘンということになります。
カール大帝は、フランス語ではシャルル・マーニュといいますが、ドイツとフランスとをまとめたのが、当時のフランク王国ということですね。
そしてその中心にあったのが、まさに現在のオランダ。
なお、ザクセン人は、現在のドイツの連邦州であるザクセンではなく、同じ連邦州でもずっと西にあるニーダーザクセンあたりに居住していたようですね。

カール大帝が死に、その息子であるルートヴィヒ敬虔王が死んだあと、843年のヴェルダン条約で、フランク王国は分割され、ロタール1世がこの中央の部分を相続したのですね。
東フランクがのちのドイツ、西フランクがのちのフランス、というのはわかりますね。
ロタール1世が相続した部分をロタンギリアと呼び、ここが、分裂したフランク王国の中心だったのですが、その後870年のメルセン条約など、いくつかの条約を経て、880年にロタンギリアは東フランクに編入されてしまいました。







ネーデルラントは神聖ローマ帝国の重要な一部

ドイツ語を話す地域である東フランクは、当時はまだ統一されていなくて、いくつもの伯領や公領に分かれていたのですよ。
その支配下に入ったネーデルラントも、ホラント伯領やブラバント公領、さらにはユトレヒト司教領など、聖俗諸侯の領地に分かれていました。
ネーデルラントをオランダと呼ぶのは、このホラント伯領からきているのですね。
一方、ネーデルラント北部のフリース人が住んでいる地域は、諸侯よりは身分の低い貴族たちが地主として、狭い土地を分け合っていました。

9世紀から10世紀にかけて、北海に面したこの地域は、たびたびヴァイキングの侵略にさらされましたが、10世紀の後半になってようやく、東フランク王国の力も強くなりました。
ザクセン家が王となり、オットー大帝とも呼ばれるオットー1世が、962年にローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受けて、しばらく途絶えていた「西ローマ帝国」も復活しますね。
カール大帝のローマ皇帝と区別するために、オットー大帝からは神聖ローマ皇帝と言われます。
ネーデルラントも、この神聖ローマ帝国の重要な地域になったのですよ。

ブルゴーニュ公の時代にネーデルラントは文化が繁栄

ブルゴーニュ公の時代にネーデルラントは文化が繁栄

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ブルゴーニュ公がネーデルラントの領主に

フランス王国と神聖ローマ帝国、この2つの国にはさまれた地域に、ブルゴーニュがあります。
フランス王の弟筋にあたるブルゴーニュ公は、フランス王国と神聖ローマ帝国にそれぞれ地盤を持っていたのですよ。
豪胆公とも呼ばれるブルゴーニュ公フィリップ2世は、結婚によってフランドル地方と、アントウェルペンとメヒェルンを手に入れました。
1384年のことですね。
これがブルゴーニュ領ネーデルラントの最初の姿ですが、ブルゴーニュ公国とは飛び地になっていますね。
これは、封建領主の領地としては、よくあることですよ。

さらに、1428年にはホラント、1429年にはナミュール、1430年にはブラバントなど、この地域の都市や伯領・公領などを統合して、ネーデルラント全体が、ブルゴーニュ公の領土になったのでした。
これ以後、ブルゴーニュ家のネーデルラントと呼ばれるようになりますが、これまでの歴史を振り返ってみるとわかるように、この地域は各都市の自立性が強いのが特徴ですね。
善良公とも呼ばれるフィリップ3世は、中央集権化しようとして貴族や市民たちの抵抗にあい、彼らの特権を認めるほかありませんでした。
「善良公」などと呼ばれるのも、そのためでしょうね。

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