ハンガリー・ブダペストの歴史 成り立ちから、人気の観光都市になるまで

幅広いドナウ川の両岸にまたがる大都市ブダペスト。ブダの城丘に立つ伝説の聖イシュトヴァーン王の騎馬像は、オスマン・トルコに占領され、その後はハプスブルク家に支配されたハンガリーの「今」を見守っているようです。ハンガリー王国の首都だったのに、国王はハンガリー人ではない。そんなことを想像できますか。ウィーンよりブダペストの方が、人口も多く宮殿も立派なのに、国王はウィーンのハプスブルク家。その後はナチに占領され、空爆で瓦礫の山になってしまったブダペスト。見事に復興した街並みに、ハンガリー人の底力を感じますね。






起源は古代ローマ帝国の要塞都市アクインクム

ローマ帝国の防衛線、ライン川とドナウ川

ローマ帝国の防衛線、ライン川とドナウ川

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「ローマは一日してならず」という有名なことわざは、きっと誰でも知っていることでしょう。
ローマから始まって、イタリア半島を統一し、地中海全域の支配者となったローマ帝国。
アルプスを越えてガリア(現在のフランス)を征服し、西はイベリア半島、北は海を渡ってイングランドまでを領土にしました。
ローマ人から見ると、風俗も習慣も言語も文化も異なるゲルマン人は、意外に手強い相手だったのです。

そこで、ライン川からドナウ川を自然の要塞にして、ローマ帝国と勇猛果敢なゲルマン人の世界との境界線ができました。
さらにローマ人たちは、これらの川岸にいくつもの要塞を築いたのでした。
ハンガリーはその頃、パンノニアと呼ばれていました。
このパンノニアに築かれた要塞都市アクインクム、それがブダペストの最初の姿です。
今もその遺跡は、ドナウ川沿いを走る鉄道の窓から見ることができます。
ブダペストは、ブダとペストとオーブダ(古いブダ)とが合併してできた近代都市ですが、ローマ帝国時代のアクインクムは、のちにオーブダと呼ばれる地域にありす。
現在のブダの北側です。

マジャール人がこの地を制しました

395年にローマ帝国が東西に分裂し、475年にはゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国が滅亡。
ゲルマン人たちはいくつかの王国を建国します。
パンノニアには、アジアの騎馬民族とされているマジャール人が侵入し、ここに国をつくりました。
マジャール人とはすなわちハンガリー人のことですが、ハンガリーの「ハン」の読み方を変えれば「フン」となり、中央アジアにいたフン族の子孫である、という説もあります。
もちろんこれは事実無根のこと。
ただ、ハンガリーの平原では牧畜が盛んで、マジャール人と馬との密接な関係は、否定できませんが。

ゲルマン人の世界では、800年にフランク族のカール大帝がローマ教皇から帝冠を授けられ、中世が始まりましたね。
マジャール人の部族では、クルサーンという人物が最高の地位にあり、アールパードという人物が軍事力を握っていました。
905年にクルサーンは暗殺され、アールパードが最高権力者となったあと、このアールパードも907年に死亡。
しかしその息子たちが後継者となり、マジャール人の王国ができます。
宮廷はあちこち移動しますが、最終的にはアクインクムのあった場所に落ち着きます。

ドナウ川の右岸がブダで左岸がペストです

ドナウ川の右岸がブダで左岸がペストです

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アクインクムの対岸にあったコントラ・アクインクム

古代ローマの要塞アクインクムが、マジャール人の王国の首都ブダになったわけですが、アクインクムの対岸に、コントラ・アクインクム、すなわち「アクインクムの対岸」という町がありました。
ハンガリー人はここをハンガリー語で、「ペシュト」と呼んでいます。
ですから、ブダペストは、ハンガリー語の発音ではブダペシュトなのですが、ふつう日本語ではブダペストになっていますね。

13世紀初めに、ペシュトにドイツ系住民が移住してきて、この町をドイツ語で、「オーフェン」と呼びました。
オーフェンとは、英語でオーブン、つまり「かまど」の意味です。
ではなぜドイツ系住民が自分たちの住む町を「かまど」などと呼んだのか。
答えは簡単、ハンガリー語のペシュトが「かまど」という意味だからです。

もっとも、この町を「かまど」と呼んだのは、実はハンガリー人ではなく、ブルガール人、古代のブルガリア人でした。
ペシュトは、そのブルガール人の言葉から来ています。
ローマ人がつくった町に、ブルガール人とハンガリー人、さらにドイツ人が入ってきたということで、ハンガリーの首都ブダペストの国際性、と考えていいでしょうか。
ただし、19世紀にはこの国際性によって民族間の闘争が起こるのですが。

キリスト教に改宗した聖イシュトヴァーン王

キリスト教に改宗した聖イシュトヴァーン王

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ローマ帝国では、キリスト教が国教になりましたが、ゲルマン人もマジャール人も、もともとはキリスト教徒ではありません。
マジャール人の王国では、アールパート家の王イシュトヴァーンが、1000年12月31日に、キリスト教に改宗します。
その後およそ300年、アールパート家の王国、アールパート朝が続きました。
ハンガリー王の王冠は、聖イシュトヴァーンの王冠と呼ばれていますが、それはこの王に由来するものです。
現在はブダペストの国会議事堂に保管されています。

この王については、その死後に3つの伝説が生まれました。
伝説ですから、事実ではなかった可能性もありますが、それほどこの聖イシュトヴァーン王はハンガリーの国民に慕われていたわけです。
キリスト教徒になった最初のハンガリー王イシュトヴァーンは1038年に死にますが、死後さまざまな奇蹟を起こしたことで、1083年には聖人として認められます。
奇蹟を起こす王の右手は、ブダペストの大聖堂に保管されています。
また、王の騎馬像は、ずっと後の時代、城丘の上に立てられ

死後に奇跡を起したことで列聖、つまり聖人にされることがありますが、イシュトヴァーン王の死体の右手が、その貴重な遺物です。
イシュトヴァーン王が死んだのは1038年、列聖されたのは1083年で、聖なる右手は現在、ブダペストの大聖堂に鎮座しています。
また、現在ブダペスの城丘には、聖イシュトヴァーン王の騎馬像が立っています、彼の目はこれからも、ハンガリーの平原とそこを貫流するドナウ川を見つめ続けることでしょう。

要塞都市ブダの発展と対岸のペスト

要塞都市ブダの発展と対岸のペスト

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Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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