ユニークな税を導入したものからを持つものから暴君まで・個性的な歴代ローマ皇帝まとめ

かつてイタリア半島に存在した「ローマ帝国」においてトップを務めたローマ皇帝。皇帝の中には人々を恐怖に陥れ「独裁政治」を展開した「暴君」など個性的な人物が存在しており、その中でも第5代皇帝ネロ・クラウディウスは「史上最大の暴君」と評されることも。そのローマ皇帝ではネロ以外にどのような個性的な皇帝が存在したのでしょうか。






病に倒れてから暴君へ変貌「カリグラ」

12年8月31日にイタリア・ローマ県の港町アンツィオで「ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス」として誕生したカリグラ。
幼少時から父・ゲルマニクスに付いて戦場に同行した彼は子ども用の軍装を身につけた姿から「小さな兵隊靴」という意味の「カリグラ」と呼ばれ兵士のマスコット的存在に。
戦場で精神を削られる兵士にとっては、たいへん可愛い存在であったのでしょう。

こうして兵士のマスコットとして親しまれるカリグラですが、19年10月19日に父・ゲルマニクスが亡くなると母・アグリッピナらは時の皇帝・ティベリウスとの関係が悪化したことで追放。
カリグラ自身は31年にティベリウスに引き取られ、カプリ島(イタリア・ティレニア海にある島)でティベリウスの庇護を受けながら生活。
35年にティベリウスの孫・ゲメッルスとの共同皇帝として帝位後継者に指名されると、民衆から大歓迎を受けることに。
兵士たちは「あのかわいかった坊やが皇帝に登り詰めたのか」と感慨深く見ていたのかもしれませんね。

こうして皇帝となったカリグラは兵士にボーナスを出すなど穏便な政治を展開しますが、37年10月に病で倒れると政治姿勢は変貌。
回復した後は自身に忠実な人物を呼び出して殺害、贅沢のため国費に手を付けるなどやりたい放題。
彼が皇帝を務めた期間は27億セルテルティウス(日本円で約8100億円)もの金が使われたとされ、こうした浪費癖で国家財政は厳しいものに。
しかしその状況でもカリグラの姿勢は変わらず、神殿や劇場建設など公共事業に次々着手。
あのかわいがられた坊やはどこへ行ってしまったのでしょう。

こうした悪政を繰り返すカリグラは41年1月24日、神君アウグストゥスに奉げる観劇を見に来たところをカッシウス・カエレア率いる親衛隊将校に刺殺されることに。
最期は自分を守るはずの人間にやられてしまったのでした。

わずか3か月の短命政権「オト」

父のルキウス・オトー以降に執政官を輩出したオト家出身のマルクス・サルウィウス・オトは皇帝・ネロと親友の間柄であった人物。
若い頃は共にローマの街を荒らしまわったことで知られていますが、オトの妻・ポッパエアをネロに奪われるとオトはルシタニア総督され左遷。
妻を失い左遷までされたオトでしたが、そこからのオトは真面目に仕事をこなすように。
大きな挫折で目が覚めたのでしょうか。

そのオトが皇帝の座に就いたのは69年。
オトは先帝・ガルバと親戚関係にあったことから子どものないガルバが「親戚関係なんだから後継には自分を選ぶでしょう」と期待していました。
しかし69年1月にガルバはオトではなくピソを後継者に指名。
オトの期待は見事に裏切られたのです。

こうなったら「俺に帝位が巡って来ないのはおかしい。
それなら力で帝位をもらうから」と考えたのでしょう、オトはガルバとピソの2人を暗殺しようとガルバに不満を持っていた親衛隊を買収、ガルバが後継者に指名してから5日後に2人が暗殺されるとオト自らが帝位を奪うことに。
「おとなしく自分を後継に指名していれば良いものを」怒りの炎はメラメラと燃えていたのでしょう。

こうして帝位を奪ったオトでしたが、これに将軍アウルス・ウィテリウスが反対。
こうして両軍が戦うことになると、ウィテリウスがクレモナ(イタリア・ロンバルディア州の都市)近くでオトの軍を撃破。
敗戦の知らせを聞いたオトは自決して37年の生涯を終え、オトの政権は在任期間わずか3か月の短命政権に。

政治もせず浪費の毎日「アウルス・ウィテリウス」

アウルス・ウィテリウスは3度も執政官に就いたルキウス・ウィテリウスの長男。
68年にガルバが政権を取ると「ゲルマニア軍団」の司令官に就任。
69年には軍団の後押しを受けてガルバ暗殺後に皇帝となったマルクス・サルウィウス・オトの軍を撃破、自身が皇帝の座へ就くことに。

しかし擁立派はこの擁立を後悔することになります。
皇帝となったウィテリウスは就任してからどのような政治をするか全く考えていなかったとされ、法律制定など皇帝としての仕事をほとんどせず。
連日豪華な食事を堪能するなど浪費を続ける毎日を送り、こうした浪費により飛んだ金額は数ヶ月で9億セステルティウス(日本円で約2250億円)。
軍団に担ぎ出されただけのウィテリウスとしては「別になりたくて皇帝になったわけじゃない。
政治なんか知らない」ということかもしれませんが、1人の浪費で国家予算レベルの金額が飛んでいくのは「事故」と言って良いでしょうね。

こうした政治は当然長く続くことはなく、69年にウィテリウス軍が軍人マルクス・アントニウス・プリムス率いる軍との「ベドリアクムの戦い」で敗戦するとウィテリウスは失脚。
敗れたウィテリウスは「ローマ七丘」の1つ・パラティヌス(パラティーノ)に逃げ込みますが、最後は捕らえられて殺されることに。

ユニークな税金を導入した「ウェスパシアヌス」

9年に父フラウィウス・サビヌス、母ウェスパシア・ポッラとの間に生まれたティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス。
36年からトラキア(バルカン半島南東部の地域)に勤務したウェスパシアヌスは翌年にクァエストル(財務官、会計検査官と訳される)、40年にプラエトル(法務官)を歴任、この頃に妻となるフラウィア・ドミティアと結婚すると52年には古代ローマの長である「執政官」に補欠として当選。

こうして順調にキャリアを重ねるウェスパシアヌスは66年にパレスチナで反乱「ユダヤ戦争」が勃発すると「軍司令官」として戦いを指揮、息子・ティトゥスとともにユダヤ人の反乱勢力を鎮圧して名声を高めることに。
やがて68年に皇帝・ネロが帝位を追われ亡くなると軍団兵士の推薦、元老院の承認を得てローマ皇帝に就任することに。

皇帝となったウェスパシアヌスはネロ時代に破綻した財政を健全化するために「国税調査」など様々な政策を実行しましたが、特に有名なのは「小便税」なる税の導入。
これは尿が衣類の洗濯などに使われていたことから導入されたもので、74年に設置した有料の公衆便所から尿を集めるとこれに税を課して販売していました。
この改革は人々から「ゴシップネタ」として扱われることもあったようですが、誰も税金を取らないところを見て「取れるところから収入を得てやろう」と考えるユニークさは見ることができますね。







恐ろしい残虐性を見せつけた「カラカラ」

カラカラことルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、元老院議員ルキウス・セプティミウス・セウェルスと妻である巫女ユリア・ドムナの長男として誕生。
その彼は父が皇帝に就任すると先代王朝を形成したアウレリウス氏族と関係を持たせるため「マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル」に改名。
この後の呼び名となった「カラカラ」はガリア地方独特のフード付きチュニックを意味する言葉で、彼が幼少期から好んで着ていた服装でした。

しかし皇帝になってからのカラカラは弟・ゲタとの間で問題を発生させ、それぞれ独自統治を主張して帝国の主導権を争うことに。
この後も争いが続くと211年、カラカラは「弟と和解したい」と言って母に和解の場を用意させ、そこで弟を殺害するというまさかの行動に。
弟を始末するために母親を利用してしまうとは「狂気」の一言ですね。

こうして対立する弟の暗殺を実行したカラカラの復讐はこれで終わらず、ゲタの側近やゲタに好意的であった元老院議員までも処分。
さらにはゲタに対する「ダムナティオ・メモリアエ(古代ローマで元老院が支配体制へ反逆した人物に対して行った措置。
名誉の抹殺)」を元老院に命令したりゲタの胸像を破壊したり、ゲタの影を片っ端から消そうとします。
「憎し人間は何もかも消し去ってやる、名前も残すもんか」というカラカラの残虐性がにじみ出ていますね。

カラカラの暴走劇はこれで終わらず、暗殺劇を「正当防衛」と主張することに不満を募らせた民衆を虐殺、カラカラはアレクサンドリア(エジプト第2の都市)を破壊し尽くすなどさらなる破壊行動を実施。
こうして独裁政権を確立したカラカラでしたが、最後は遠征準備のためエデッサに入城したところを護衛ユリウス・マルティアリスに刺されて絶命。
殺されたときのカラカラは道端で用を足しているところを背後から突かれたとの話もあり、これが事実であればなんとも「マヌケ」な最期ですね。

厳格なキリスト教弾圧を実施「ディオクレティアヌス」

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは古代ローマ・ダルマティア属州のサロナに生まれ、一兵卒からプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛兵長官などを意味する、ローマ帝国における公職)に出世した人物。
先帝ヌメリアヌスの死後に軍に推されて皇帝の座に就いたディオクレティアヌスは皇帝権、帝国防衛の強化を目的にした政策を実施。
巨大化しすぎた国家を4つに分け東西に2人ずつ正帝と副帝を置く「四帝分治制」を導入するなど改革を実施します。

しかし一方では政府・軍内部に増加したキリスト教徒に対する弾圧も実施しており、303年にはローマ全土に「キリスト教徒の強制改宗、聖職者全員の逮捕・投獄」などの勅令を発令してキリスト教を徹底弾圧。
ディオクレティアヌスは自らをローマ神話の主神・ユピテルになぞらえ「神としての皇帝崇拝」などをキリスト教徒に強要、これらに反したキリスト教徒には大弾圧を実施します。
これらはディオクレティアヌス軍務放棄や官吏への反抗に恐れを感じたために行ったとされていますが、キリスト教徒は弾圧に対して宮殿放火の形で報復。
これだけ強硬な弾圧が実施されれば信者も「力には力で対抗してやる」と思うでしょうね。

その後のディオクレティアヌスは305年に55歳で退位、アスパーラトス(現在のクロアチア・スプリト)に「ディオクレティアヌス宮殿」を作って隠棲すると311年に亡くなります。
キリスト教弾圧の経緯を見れば暗殺されてもおかしくないでしょうから、穏やかに生涯を終えられたのは幸運ですね。

暗殺を恐れて柱を磨かせる「ドミティアヌス」

ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスはローマ皇帝・ウェスパシアヌスと妻・ドミティアの次男として51年にローマで誕生。
そのドミティアヌスが皇帝の座に就いたのは30歳になった81年。
父・ウェスパシアヌスの跡を継いだ兄・ティトゥスが継承後2年で高熱を発して倒れると、知らせを受けたドミティアヌスは兄が亡くなるのを待たずに皇帝の宣言を受けることに。

しかしこうして皇帝の座に就いたドミティアヌスは、次第に暴力的な一面を見せるようになります。
彼は「ローマの綱紀粛正」を目的に同性愛などを禁止し始め、従わないものは処刑。
こうした独裁ぶりから自身の「暗殺計画」が発覚すると暗殺を恐れ宮殿内の柱を鏡のように磨かせるように。
これは「背後まで見られるように」するために命じたと言われていますが、ここまで来たら「誰も信じられない、疑わしきものは片っ端からつぶしてやる」といった思いでしょうか。
本人もどこか強迫観念に駆られていたのでしょうかね。

こうした厳しい弾圧を実施していたドミティアヌスですが、自身は「例外」でした。
皇后・ドミティアの不倫が発覚した時には相手を処刑しただけで済ませ、ドミティアとは「一時離婚」した後に再婚。
自分にはとことん甘いように見えますが、人々は「さんざん取り締まっておいて風紀乱れているのはお前じゃん」とツッコめば自分の命が危ないから言えませんよね。

こうした皇帝の暴君ぶりは終焉を迎えるのは、皇帝就任から15年経過した96年。
最後は皇帝の側近がドミティアヌス抹殺を決意すると、実行の命を受けた皇帝の姪・ドミティラの執事ステファヌスがドミティアヌスを襲撃。
ドミティアヌスは体中をめった刺しにされ暗殺されてしまいます。
さんざん警戒していながら、最後はあっさりと命を落とすことになりましたね。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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