ローマ観光の前にチェック!永遠の都ローマの歴史

歴史を知れば観光がもっとおもしろくなる!ということで今回は、イタリアの首都ローマの歴史をおさらいします。ローマは2700年以上の歴史をもつ都市で、古代ローマ帝国の首都であり、カトリックの総本山であり、イタリア・ルネサンスの中心地のひとつでした。それぞれの歴史をおさえておくと、ローマの街並みや遺跡、芸術作品たちがまたきっとちがった景色であなたに語りかけてくれることでしょう。

紀元前8世紀、ローマは七つの丘からはじまった

紀元前8世紀、ローマは七つの丘からはじまった

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オオカミに育てられた双子

オオカミに育てられた双子

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イタリア中部を流れるティベル川。
古代ローマのことばで「澄んでいない」という意味の「ティベリス」を語源とし、実際くすんだエメラルドグリーン色をしています。
流域面積はイタリア第2位のひろさで、大量の水を上流から河口へとどけています。

その河口から25kmほどさかのぼった場所の東岸に、どれも数十メートルほどの低い丘が七つ、集まってそびえています。
紀元前753年、ロムルスという18歳の青年によってここにちいさな都市が建設されました。
これがローマのはじまりです。
彼はレムスという双子の兄弟とともに3000人の部下を従えていました。

伝説によると、ロムルスとレムスの母親はもともと、ティベル川上流にある国の王族の娘でした。
娘の父、つまりロムルスとレムスの祖父が次の王を継ぐはずのところを、叔父が陰謀をはたらいてみずから王となり、復讐をおそれた叔父は生まれたばかりの双子を、カゴに入れてティベル川に流してしまいました。

カゴは河口から25kmほどのところで枝にひっかかって止まり、それを一匹のメスオオカミが見つけました。
オオカミはちかくにある七つの丘のひとつ、パラティーノの丘で双子を育てはじめます。
やがて今度はひとりの羊飼いが双子をみつけ、かれらを引きとってロムルスとレムスと名づけました。

ちいさな都市ローマ、建国

ロムルスとレムスはすくすくと成長して、やがて若者たちのボスになりました。
立派に育った双子をみて、羊飼いはかれらに出生の秘密を伝えます。
復讐を決意したロムルスとレムスは若者たちを引きつれて、生まれた国へと舞いもどり、叔父をたおして祖父を王位につけました。

そしてかれらは、自分たちだけの国をつくることを決意します。
それがかつてオオカミに育てられた土地、七つの丘のある場所でした。
3000人の部下をつれて新しい国の王になった二人でしたが、すぐに兄弟げんかが起こり、戦闘のさなかレムスは死んでしまいます。

そこで紀元前753年の4月に、ロムルスはパラティーノの丘で神々に生贄をささげる式をおこない、みずからの名前にちなんだ「ローマ」の建国を宣言します。
古代ローマ帝国はこうしてちいさなちいさな都市からはじまったのです。

ちなみにこの七つの丘はいまでもローマの中心地で、政府の建物などが建っています。
たとえば大統領官邸はクィリナーレの丘に、内務省はヴィミナーレの丘にあり、イタリア人はそれぞれの建物を丘の名前で呼んでいます。
ちょうど日本の報道番組で「霞ヶ関から中継します」と言うようなものですね。

ローマ人は土木工事の天才?発展する首都

ローマ人は土木工事の天才?発展する首都

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女はうばう、湿地はかわかす、現実主義者のローマ人

ちいさな都市国家からはじまったローマはしだいに周辺の部族を統合していきます。
はじめは若い男ばかりの国でしたので、隣の部族から若い女を強奪したりもしました。
ちなみに、結婚初夜に新郎が新婦を「お姫さま抱っこ」して敷居をまたぐ欧米の風習はこの強奪の故事からきています。

初代王ロムルスをあわせて七代つづいた王政期には、いろいろな部族がローマに住むようになりました。
七つの丘だけでは手狭になり、丘と丘のあいだの低地が開発されます。
当時の低地は湿地帯でしたが、排水溝をつくって干拓し、石畳を敷いて舗装しました。

こうして最初に開発された低地が、パラティーノの丘の北にある「フォロ=ロマーノ(ローマの広場)」。
はじめは集会場や社交場でしたが、やがてローマの政治経済の中心となり、ローマの議会にあたる元老院も後にここに移りました。
ほかにも低地にはたくさんの家屋がつくられました。

紀元前509年にローマは王政から共和政にうつります。
強化された元老院と二人の執政官と民会という組織のもと、ローマはイタリア諸部族をつぎつぎに征服し、前272年にはイタリア半島を統一します。
その後、カルタゴ(現在のチュニジア)の英雄ハンニバルとの戦争にも勝利して、地中海沿岸の各地に属州という名の植民地を建設していきます。

大帝国の首都へ

属州の反乱にすぐ軍隊を向かわせられるように、またローマが地中海世界の首都となるために、街道が整備されました。
前312年に完成したアッピア街道をはじめ多くの街道が舗装され、道幅をひろげ、橋をかけトンネルをほり、いわば古代の高速道路に生まれかわりました。
国土開発ともいえるこうした事業はローマ人が史上はじめておこなったもので、「すべての道はローマに通ず」と賞賛されました。

各地からローマに人が集まったため、水の需要も増してきました。
そこで造られたのがローマの水道。
当時はポンプがなかったので、水源地から微妙な傾斜をつけて水路をつくり、大量の水をローマ市内へと送りこみました。
その距離およそ90km、その量およそ190000㎥/日(マルキア水道の場合)。
この水道によって、ローマ市民たちは共同水場などで大量の水を使うことができました。
ちなみに有名な観光スポットであるトレヴィの泉ももとは古代ローマの共同水場でした。

前1世紀ころになると内乱や反乱が頻発し、ひろすぎる領土と数千万の人民を統治するあらたな政治体制が求められはじめます。
そこに登場したのがユリウス=カエサルと、彼の養子オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)です。
かれらは帝政という強大な権力機構をつくりあげ、その後の安定をもたらしました。
こうしてローマ帝国は「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる最盛期をむかえます。

ローマの最盛期、100万人の市民が遊びまくった

ローマの最盛期、100万人の市民が遊びまくった

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テルマエで汗をながし、戦車競走に夢中になるローマ市民

ローマ皇帝は事実上の独裁者でしたが、市民の支持をうしなえばその権力も長続きしません。
そこで歴代の皇帝たちはローマ市民にさまざまなサービスを提供しました。
食糧を無償でくばったり、不況のときには私財を投げうったり。
そしてなかでもいちばんのサービスがローマ市民への娯楽の提供でした。

公衆浴場(テルマエ)もそのひとつです。
11本の水道から送られる大量の水をつかってお湯をわかし、プールやラウンジ、サウナやジムなども併設して、市民の憩いの場としました。
現在に残る浴場跡としては、トラヤヌス浴場、カラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場などがあります。
どれも浴場を建てた皇帝の名前からとられています。

戦車競走もローマ市民にとって重要な娯楽でした。
古代ギリシアからつづく伝統ある競技で、二頭立てまたは四頭立ての馬車のような戦車を御者があやつり、トラックを何周もして勝敗をきそいます。
ローマ時代にはスポンサーごとにチームができて、観衆はレースごとに賭けをおこないました。
パラティーノの丘の南には「キルクス=マクシムス(最大の競技場)」という最大収容人数30万人の競技場があり、歴代皇帝が改修をおこないました。
現在はイベントやコンサート会場になっています。

遊びすぎてお金がない?ローマの衰退

コロッセウム(円形闘技場)もローマ市民の娯楽の場として建てられました。
紀元80年竣工のこの闘技場は約5万人を収容でき、雨の日や日差しのつよい日には天幕をはることもできました。
ここで剣闘士どうしの戦いや、剣闘士と猛獣の戦い、公開処刑などがおこなわれ、人力エレベーターでの登場など演出にも趣向をこらし、ローマ市民はそのスペクタクルに興奮し熱狂しました。
ちなみに「コロシアム」ということばはこのコロッセウムからきています。

ほかにも歴代皇帝たちはパンテオンを建ててローマの神々を祭ったり、凱旋門を建てて戦争の勝利を市民とともに祝ったりと、さまざまなサービスを実施して人気を獲得しました。
最盛期100万人といわれるローマ市民たちはこれら「パンと見世物」を楽しむのに明け暮れて、平和は約200年間つづきました。

しかし多大な出費がつづいたことで、ローマ帝国の財政は徐々にいきづまります。
3世紀になると各地の属州で内乱がおこり、北からはゲルマン人という狩猟民族がたびたび侵入してきます。
ローマ帝国は戦費をまかなうため税金を重くしましたが、これが市民を圧迫、ローマを離れていく市民があとをたちませんでした。
こうしてローマ帝国はすこしずつ衰退していきます。

古代帝国の首都がキリスト教の中心に変わったワケ

古代帝国の首都がキリスト教の中心に変わったワケ

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へこたれないキリスト教、迫害からの拡大

混乱のつづくローマ帝国で、逆に勢力をひろげていくのがキリスト教です。
紀元前後に今のイスラエルで生まれたイエスはそれまでのユダヤ教の教えを発展させ、その教えをうけた弟子たち(使徒)がローマ帝国各地で伝道していきました。

当時のローマ世界は多神教で、歴代の皇帝も神になっていましたので、それらの神々を敬わないキリスト教は何度も迫害をうけます。
弟子の筆頭格だったペテロもローマで迫害をうけて殉教しましたが、それでもキリスト教徒たちはカタコンベとよばれる地下の避難所兼礼拝堂にかくれて、イエスの教えを伝え、広めつづけました。

帝国が混乱におちいると、救いをもとめる人々のあいだでキリスト教は徐々に受け入れられていきました。
やがてキリスト教は帝国全体に拡大し、無視できない存在となったため、ときの皇帝コンスタンティヌスは313年、帝国の維持をはかろうとキリスト教を公認しました。

皇帝の保護をうけてキリスト教はますます勢力をのばし、各地に聖堂や教会が建てられていきます。
特に首都ローマには多くの聖堂がつくられ、サン=ジョバンニ=イン=ラテラノ大聖堂(ラテラヌス邸の聖ヨハネの聖堂)、サンタ=マリア=マッジョーレ大聖堂(偉大なる聖母マリアにささげられた聖堂)、サン=パオロ=フオーリ=レ=ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロの聖堂)などもこの頃に建てられました。

古代から中世へ

392年にはキリスト教はローマ帝国の国教となります。
そしてこのころから教会の組織化がすすみ、司教や司祭といった身分ができていきます。
首都ローマの教会トップであるローマ司教はみずからの優位性を示すため、ペテロの墓の上にサン=ピエトロ大聖堂(聖ペテロの聖堂)を建て、ペテロの後継者を名乗りました。

やがてローマ教会の権威はひろく認められるようになり、地中海世界におけるキリスト教の五本山のひとつに数えられ、ローマ近郊をはじめ各地の人々がローマへと巡礼にやってきました。
そしてしだいにローマ司教は「教皇」と呼ばれるようになっていきます。

しかし帝国の首都としてのローマは終わりをむかえます。
330年には首都をコンスタンティノープル(今のイスタンブール)にゆずり、帝国が東西に分裂した後には、北から侵攻してきたゲルマン人によって何度も略奪をうけます。
ローマの街では歴史的建造物の多くが破壊され、たくさんの市民が捕虜となり殺されました。

この間、教皇は略奪をうけながらもねばりづよく布教をおこない、ゲルマン人の社会のなかでも徐々に認められていきます。
ローマでの教皇の地位はすでに皇帝とならぶものになっていました。
こうして、古代帝国の首都としてのローマは終わりをむかえ、中世キリスト教の総本山へとなっていくのです。

そしてローマ=カトリックが誕生した

そしてローマ=カトリックが誕生した

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ローマ教会はゲルマン人国家と手を取りあった

476年に西ローマ帝国は滅びます。
このころ、地中海地域でもっとも有力な教会だったのがコンスタンティノープル教会と、教皇(ローマ司教)のいるローマ教会でした。
前者には東ローマ帝国皇帝という政治的保護者がいましたが、後者にはいませんでした。

そこでローマ教会はみずからの地位を固めようと、各地に教会や修道院をつくってゲルマン人への布教をさらにすすめました。
この布教においてローマ教会はイエスやマリアなどの聖像を活用しましたが、偶像崇拝を禁止する東ローマ帝国がこれに反発したことで、両者は徐々に対立していきます。

やがて8世紀後半、ローマ教会はコンスタンティノープル教会と東ローマ帝国に見切りをつけます。
そこで勢力をましていたゲルマン人国家、フランク王国に近づきます。
ゲルマン人はローマ人からかつてさんざん野蛮だと言われてきたので、みずからの権威を認めてくれるなにかを求めていました。
そしてローマ教会は新たな政治的保護者を求めていました。
利害が一致して、両者はおたがいに手を取ります。

そしてフランク王カール大帝が西ヨーロッパの大半を統一すると、800年ちょうどに、教皇はカール大帝にローマ帝国の帝冠を与えます。
こうしてフランク王国とローマ教会はしっかりと結びつき、ふたつの権威は西ヨーロッパに浸透していきました。

栄枯盛衰は世のならい

新たな政治的保護者を得たローマ教会はコンスタンティノープル教会とますます対立を深め、ついに1054年にはおたがいがおたがいを破門します。
そしてローマ教会は「わたしたちの教えこそ普遍的だ」という意味で「カトリック(普遍)」と名乗りはじめます。
こうしてローマ=カトリック教会が誕生し、キリスト教世界は西ヨーロッパと東ヨーロッパに完全に分かれました。

ローマの街もカトリック教会が治める教皇領となりました。
フランク王国が後のフランス・ドイツ・イタリアへと分裂した後も、教会の権威は西ヨーロッパ全域におよびました。
というのも中世の街や村では教会や修道院こそが生活の中心で、そこで聖書を教わり、日曜に休むことを薦められ、そこで定期市が開かれ、祭りがおこなわれたからです。

キリスト教は王や諸侯のあいだにも浸透し、かれらはこぞって教皇に贈りものをして、みずからの権威づけをお願いしました。
教皇の権力は増していき、12~13世紀には国王をこえるほどになります。
教皇のおひざもととして、ローマの街も発展していきました。

しかし十字軍の失敗でその権威が低下すると、紛争やペストの流行、ローマ教会の一時的な分裂もあわさって、ローマの街は急速に衰退し、人口はじつに2万人以下にまで落ちこみます。
そこで教皇はローマ復興を決意しました。
これが15~16世紀のルネサンスへとつながっていくのです。

ローマのルネサンスと宗教改革の関係って?

ローマのルネサンスと宗教改革の関係って?

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ミケランジェロもラファエロも、ローマで活躍した

古代ギリシア・ローマ文化の「再生」を意味する「ルネサンス」。
イタリア=ルネサンスというとフィレンツェやミラノが有名ですが、ローマも当時ルネサンスの中心地のひとつでした。
ローマ復興のため、教皇みずからがパトロンとなって多くの芸術家や建築家を招いたからです。

その代表格がミケランジェロ。
大理石彫刻の傑作「ピエタ」は彼が20代のときにつくったもので、サン=ピエトロ大聖堂で見ることができます。
そして大聖堂のとなりにあるシスティーナ礼拝堂には、彼の「天井画」と「最後の審判」があり、ともに聖書の内容をもとにした巨大な絵画となっています。
ちなみにミケランジェロは彫刻家を自称していたので絵を描くのはイヤだったのですが、教皇の頼みだからしぶしぶ描いたそうです。

ミケランジェロとならぶローマの偉大な芸術家がラファエロ。
彼の作品を堪能するなら、システィーナ礼拝堂のとなりにあるヴァチカン宮殿(ヴァチカン美術館)内、通称「ラファエロの間」と呼ばれる4部屋がおすすめです。
とくに署名の間にある「アテネの学堂」は彼の最高傑作のひとつ。
描かれているのは古代アテネの一場面ですが、人物のモデルにレオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロ自身も出てくるので、どれが誰だか探してみるのもおもしろいでしょう。

大聖堂のリフォームが宗教改革のひきがね

そしてルネサンスにおけるローマ最大の事業がサン=ピエトロ大聖堂の全面リフォームです。
老朽化していた聖堂を大改修して世界有数の建物にし、世界各地から巡礼者をまねいてローマを復興しようというねらいでした。
著名な建築家ブラマンテを主任建築士にむかえ、ブラマンテの死後にはラファエロ、その後にはミケランジェロが設計・監督を引き継ぎ、じつに100年以上の歳月をかけて大聖堂は新築されました。

しかし、これだけの大事業をするには教会にはお金が不足していました。
そこで贖宥状(免罪符)という罪の許しをあらわす証明書を販売したところ、ドイツの聖職者ルターが大反対。
教皇の権威を認めないと主張する宗教改革がはじまって、カトリックは窮地に立たされます。

ルター派などのプロテスタント(「抗議する者」の意)に信者をうばわれていったローマ=カトリック教会は会議をひらいて話しあい、そしてまきかえしに出ます。
腐敗の防止をはかり、思想統制をつよめ、魔女狩りも各地でおこないます。
またフランシスコ=ザビエルたちが創ったイエズス会を励まして、ヨーロッパ内外でさかんに伝道させたことで、約半分の信者を取りもどしました。
そして回復したカトリック教会はふたたびローマの街の再建をはじめるのです。

こんなにある!バロック芸術の天才ベルニーニの作品

こんなにある!バロック芸術の天才ベルニーニの作品

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ベルニーニの躍動的な彫刻たち

バロック芸術とは17~18世紀にかけて西欧でさかえた様式のひとつで、躍動的で劇的な表現と光と影のコントラストを特徴とします。
宗教改革の嵐も去った17世紀のローマで、ときの教皇はひとりの若者に目をつけます。
この若者こそバロック芸術の天才ジャン=ロレンツォ=ベルニーニ。
彼はそれから60年以上かけて数多くの作品をつくりだし、教皇の理想どおりにローマの街を一変させました。

ベルニーニの才能がよくわかるのはまず彫刻作品。
ボルゲーゼ美術館には彼の彫刻がおおく収められていますが、うち4体は彼の20歳から27歳にかけての作品です。
またカピトリーニ美術館の「メデューサ」や「ウルバヌス8世の像」、キージ礼拝堂内にある「ハバククと天使」や「ライオンの洞窟のなかのダニエル」にも息をのみます。
そしてコルナーロ礼拝堂の「聖テレジアの法悦」は17世紀芸術の傑作といわれています。

サン=ピエトロ大聖堂のなかにも多くの作品が収められました。
祭壇を覆うブロンズ製の巨大な天蓋は、いちばんの理解者であった教皇ウルバヌス8世の頼みをうけて作られたものです。
ほかにも聖ペテロの椅子や、「聖ロンギヌス像」、となりのヴァチカン宮殿には「慈愛と四人の子ども」像などがあります。

彼の建築がローマの景観を変えた

ベルニーニは建築でも才能を発揮しました。
その代表例がサン=ピエトロ大聖堂前の空き地を飾るというもの。
彼は設計を悩みぬき、そして楕円形の広場とそれを囲う巨大な列柱廊、上には140体の聖人像というアイデアを考えつきました。
こうして生まれた「サン=ピエトロ広場」はいまも多くの信者や観光客をむかえてくれています。

ほかにも彼の建築作品はたくさんあり、たとえばモンテチトーリオ宮殿とバルベリーニ宮殿はそれぞれ下院議事堂、国立古典絵画館としていまも活用されています。
また、もともと古代ローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟だったサンタンジェロ城には、そこにかかる橋にベルニーニのつくった天使の像が飾られました。

最後に噴水を紹介しましょう。
ナヴォーナ広場にある「四大河の噴水」にはナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川をそれぞれ擬人化した四体の男性像が彫られ、中央には柱(オベリスク)がそびえています。
バルベリーニ広場にある「トリトーネの泉」には古代ギリシア神ポセイドンの息子トリトンが彫刻されています。
また映画で有名なスペイン広場には「バルカッチャの噴水」という船をかたどった噴水があり、観光客でにぎわいます。

ほかにもベルニーニの作品はいたるところで見ることができます。
こうした彼の作品によって、ローマの街は古代の遺跡と中世の教会が点在するだけの場所から、街全体が壮大なスケールときらびやかな装飾にあふれる美の都へと、変貌をとげました。
おおくの人がローマの街の魅力にこれほど引きつけられるのも、ベルニーニのおかげかもしれません。

教皇の都から近代国家の首都へ

教皇の都から近代国家の首都へ

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1400年ぶりのイタリア統一

18世紀のローマは比較的おだやかに過ぎました。
しかしヨーロッパ世界ではすでに16世紀ころから軍事技術が進歩し、官僚制がととのい、国内を統一的に支配する強大な国家が誕生していました。
そして18世紀から19世紀初めにかけて産業革命やフランス革命、ナポレオンによる征服を経験し、ヨーロッパの人たちは、自分たちで自分たちの国をつくり動かそうという国民国家の意識をつよく持つようになってきました。

イタリアは中世からずっと分裂状態で、両シチリア王国、ヴェネツィア共和国、教皇領などにわかれていましたが、19世紀半ばころから、イタリアでも統一の気運が高まってきました。
そこに登場するのが、サルデーニャ王国の国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と、民族統一をめざす結社「青年イタリア」の党員ガリバルディです。

エマヌエーレ2世は即位後、サルデーニャ王国のあるイタリア北部を中心に徐々に勢力をのばし、1860年には中部イタリアも併合します。
同じ年、ガリバルディはわずか千人を率いてイタリア南部にむかい、両シチリア王国を征服して、なおも北上します。

両者はローマ近郊で出会い、会談します。
ここでガリバルディは征服した土地をエマヌエーレ2世にゆずりました。
こうして1861年、イタリア王国が誕生します。
1870年にはローマ教皇領も占領し、古代ローマ以来、じつに1400年ぶりのイタリア統一が実現しました。

第一次大戦の「名誉なき戦勝」

統一の翌年にローマはイタリアの首都となり、急ピッチで近代化が進められました。
街並みが整備され、鉄道が敷かれ、工場ができました。
建築もさかんになり、ヴェネツィア広場の横にはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世記念堂などが建てられました。

しかし長年ローマの君主だった教皇はイタリア政府と対立し、ヴァチカン宮殿にひきこもってしまいます。
この対立は「ローマ問題」と呼ばれ、60年以上もつづきました。
これが解消されたのは1929年、ときの首相ムッソリーニがヴァチカン周辺を独立国(ヴァチカン市国)と認めたときでした。

列強国の仲間入りをはたしたイタリアは北アフリカのリビアを植民地にするなど領土をひろげ、そして1914年からの第一次世界大戦をむかえます。
イタリアはドイツ・オーストリアとともに同盟国側でしたが、オーストリアと領土問題をめぐって対立していたため、開戦後にはイギリス・フランス・ロシアの連合国側にねがえります。
戦争には勝利しましたが、総力戦だったため国力がおとろえ、戦後は大不況におちいります。

首都ローマでも大量の失業者と復員兵があふれかえり、仕事をもとめる失業者のデモや騒乱で街は混乱しました。
人々は「名誉なき戦勝国」とみずからを自嘲しました。
こうした社会不安のなかから、ファシスト党とムッソリーニ、いわゆる「ファシズム」が台頭してきます。

ファシズムと戦争、ローマは激動を経験する

ファシズムと戦争、ローマは激動を経験する

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ムッソリーニの独裁

ベニート=ムッソリーニは若いころから政治活動をしていましたが、第一次大戦後の祖国の危機をみて、1919年に「ファシスト党」(イタリア語の「ファッシ(結束)」から)を立ちあげます。
1922年、ムッソリーニはファシスト党員たちを武装させてローマへと進軍、クーデタをおこそうとしたところ、びびった国王がムッソリーニを首相に任命し、彼は政権を手にします。

ムッソリーニは選挙法をむりやり改正してファシスト党以外のすべての党を国会から追いだし、司法権も手にして、権力を自分に集中させます。
また彼は経済政策で景気を回復させ、マフィアを徹底的にとりしまって治安も回復、親しみやすい人柄とたくみな演説で、民衆から熱狂的な支持を得ます。

いっぽうでムッソリーニは個人の人権よりも国家を優先させ、自分に反対する者をことごとく弾圧し殺害、対外的には古代ローマ帝国の復興をかかげてバルカン半島のアルバニアなどを支配します。
こうした彼の政策は「ファシズム」と呼ばれました。
ちなみに党員たちが右手をまっすぐに掲げるしぐさも彼の発案で、のちにヒトラーがマネしました。

1929年に世界恐慌がおこるとイタリアも衰退し、民衆の不満をそらすためにムッソリーニは東アフリカのエチオピアに侵攻、征服します。
またこのころからドイツと日本に接近し、三国で協定をむすび、三国そろって国際連盟を脱退します。
そして世界は第二次世界大戦へとむかいます。

敗戦、そしてイタリアは共和国に

1939年にポーランドに侵攻したドイツは翌年にはフランスを攻めて、わずか1ヶ月でパリを占領します。
ドイツの優勢をみてイタリアも参戦しますが、旧式な装備だったため連合国相手に各地で苦戦します。
ムッソリーニへの民衆の支持もさらに低下していきます。

1943年に連合国がイタリア本土にせまり、ローマの街も爆撃をうけます。
ただ連合国側はローマの歴史的価値をじゅうぶん理解していて、パイロットに対して「ヴァチカン市国や聖堂にはぜったい爆撃するな」と命令したそうです。
おかげでローマはベルリンや東京ほどの被害は受けませんでした。

その年の7月にムッソリーニは失脚します。
代わった政府は連合国側に無条件降伏し、ムッソリーニは2年後の1945年、逃亡先でつかまり銃殺され、遺体は愛人とともに街中に吊るされました。
おなじ年にドイツと日本も降伏し、第二次大戦は連合国側の勝利におわりました。

敗戦国となったイタリアは1946年の選挙で王政から共和政に代わります。
これはかつて国王がムッソリーニを支持しその横暴を許したことを、ローマ市民はじめイタリア国民が苦々しく思っていたからでもありました。
そしてここからイタリアの復興がはじまります。
ローマもまた共和国の首都として、奇跡の成長を遂げるのです。

そして現在のローマは……

そして現在のローマは……

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先進国の首都となり、世界有数の観光都市となるローマ

戦後のイタリアは急速な工業化に成功します。
それまではワインやオリーブオイル、チーズなどが主産業の農業国でしたが、イタリア北部を中心に繊維産業、化学産業、自動車産業が発展し、世界的なファッションブランドや自動車メーカーも誕生します。
首都ローマにはそれら大企業の本社がおかれ、人口も爆発的に増えていきます。

とくに1950年代後半から1960年代にかけてイタリアは急激な経済成長を達成し、1960年にはローマで夏期オリンピックも開かれました。
また飛行機の発達で世界中から観光客がローマを訪れるようになり、観光産業も発展しました。
1980年代にはイタリアのGDPはイギリスをぬいて世界5位となります。

またイタリアはEU発足前からヨーロッパ統合の中心のひとつで、EUの母体である3つの共同体のうち2つは1957年、ローマで調印されてつくられました。
ほかにもイタリアは主要国首脳会議(サミット)や北大西洋条約機構(NATO)の当初からの参加国だったので、経済成長を達成すると、自他ともにみとめる世界の主要国のひとつとなりました。

現在ローマの街は、多国籍企業やイタリア有名企業の本社、マスコミ本社、国連機関などが建ちならび、約300万人が暮らすイタリア第一の都市となっています。
また年間800万人以上の観光客が訪れ、一年中にぎわう世界有数の観光都市となっています。

映画、ファッション、世界遺産

第二次大戦前、ムッソリーニによってローマ郊外に大規模な映画撮影所が建てられました。
戦後、この撮影所でさまざまなイタリア映画の名作がつくられます。
古代ローマをえがいた大作やローマの美しい街並みをうつしたロマンスは世界中の観衆を魅了し、イタリア映画の全盛期をつくりあげました。
いまはその地位をハリウッドにゆずりましたが、現在でも撮影所は稼動し、日本映画なども撮影されています。

また、戦後のローマはファッションの発信地でもありました。
1970年代以降はミラノがとってかわりましたが、いまでもローマの街には有名ブランドショップやおおくのブティックが建ちならび、遺跡とみごとに調和した景観が楽しめます。
ちなみにイタリアのショップでは勝手に服にさわるのはマナー違反なので、店員に声をかけてから手にとるようにしましょう。

最後に、ローマの世界遺産をご紹介します。
2016年現在でローマには2つの世界遺産があり、ひとつは「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」(1980年登録、1990年拡張登録)、もうひとつは「ヴァチカン市国」(1982年登録)そのものです。

前者にふくまれるのは、フォロ=ロマーノ、コロッセウム、カラカラ浴場、サン=ジョバンニ=イン=ラテラノ大聖堂、サンタ=マリア=マッジョーレ大聖堂など。
後者にはサン=ピエトロ大聖堂、ヴァチカン宮殿、システィーナ礼拝堂、サン=ピエトロ広場など国土すべてがふくまれています。

さあ、ローマの歴史を体感しに行こう!

いかがでしたか。
毎年おおくの観光客を魅了する「永遠の都」ローマ。
その魅力はこうした2700年以上もの深く長い歴史にあります。
そして歴史を知ると、観光もまたぐっと奥深く楽しいものになるでしょう。
また「ローマは一日にして成らず」、おでかけの際にはぜひ余裕をもった日程をおすすめします。
Buon divertimento(楽しんできてください)!
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