たぶんこれでマスターできる!イタリアの歴史

イタリア料理にイタリアワイン、世界一を誇る世界遺産の登録数。今やイタリアと聞けば明るい国と思い浮かべると思いますが、実は現在に至るまで大変な歴史がありました。イタリアの歴史とはざっくり前半がローマの話、後半がイタリア統一と世界大戦の話、とわけられますが、共通しているのは「勝ったり負けたりを繰り返してきた歴史」です。なるべくわかりやすくまとめましたので、ぜひご覧ください。

ローマは一日にしてならず

ローマは一日にしてならず

image by iStockphoto

この有名なことわざは「長い時間をかけて努力しなければ大きな事はできない」という意味です。
継続は力なりというものと同じですね。
フランスのことわざとか、イギリスの詩人とか、『ドン・キホーテ』の中でのセリフだという説があります。
実にこのイタリア半島が初めて統一して国となるのに500年の月日がかかっていると言われてます。
まずその礎となる紀元前からたどっていきましょう。

イタリアの創世記。ローマ共和政治が樹立するまで

高村光太郎の『道程』ではありませんが、人類というものは目の前に土地があれば行き着くところまで行ってみたいものかもしれません。
このアルプスとヒマラヤができあがる活動時代にできた海に面した不思議なブーツのような形をしたイタリア半島にはじめて人類の痕跡が刻まれたのは旧石器時代と言われています。
しかし歴史として残されている最初の1ページを書いたのはイタリア中央西部地方の「ラティウム平原」に住み始めたイタリア民族。
それは紀元前8世紀にもなってからでした。
それまでの課程はあまりわかっていません。

そしてイタリア民族が住み始めてすぐにアジアから引き寄せられるようにやってきたのがエトルリア人。
彼らが征服をしローマに王政を執り行い半島を支配することになりました。
エトルリア人はヨーロッパにもインドの文化にも属さないエトルリア語を話し独自のエトルリア文化を作ったといわれています。
その文化は後のローマでも模倣されていったという完成度の高いものでした。

その後、紀元前6世紀になるとイタリア民族の中の古部族の1つイタリア中西部に紀元前10世紀からラティウム・ベトゥスに住んでいたラテン人が立ち上がり反乱を起こしてローマ共和政治が樹立したのです。

地中海の覇者となった古代ローマ共和国

紀元前509年にエトルリア人が敷いていた王政の7代目「タルクィニウス・スペルブス王」を追放して、念願のイタリア民族の手でローマを手に入れました。
これはラテン人を中心とした同盟都市とエトルリア人の都市が、ローマ王を中心とした同盟という形だったために、解消というより対立になっていきます。
そのためにローマに残っていたエトルリア人達はすべて去ってしまいました。

エトルリア人が去ってしまったローマは、エトルリア人から習っていた文化や技術を真似て自分のものにしていきます。
その頃にはギリシア人がイタリア半島の先端やシチリア島に移住したり、スパルタからの移民といわれているサビニ人やサムニウム人などが住み着きはじめています。

共和制は貴族と政治家を中心とした元老院と市民によって組織されていました。
元老院の思うがままの政治に市民が怒って対立しましたが元老院が譲歩したりして乗り切りました。
ローマは少しずつ力を持ち始めて領地を広げるために戦争を繰り返していきます。
負けた都市に対しては服従させるのではなく同盟都市として迎えるという政策をとっていきますので最後には戦争をするよりはと保護を求めてくる都市も出てきます。

そうした中でもケルト人の略奪や、この時の最大の敵「都市カルタゴ」との約1世紀という長きにわたる「ポエニ戦争」が起きて壊滅させたりして、地中海の覇者となります。

多数の登場人物が繰り広げる内乱

しかし国のように大きな都市たちとの集合体となってしまったローマ共和国は徐々にあちらこちらで騒乱がおこり始めていくのです。

まず、弱体化していくローマを救ったのはガィウス・マリウスという軍人出身の執政官でした。
彼は軍制改革をはじめ軍の質を上げ失業農民を徴用して「強いローマ」を取り戻すことができました。

しかしそれが面白くない元老院との軍事衝突となります。
この対立は6年も続き最終的に元老院の勝利になりました。

その後は、元老院のなかでも分裂。
映画にもなった「スパルタクス奴隷戦争」も鎮圧した「マルクス・リキニウス・クラックス」と、オリエントを征服した「グナエウス・ポンペイウス」と、当時頭角をあらわしはじめた「ガイウス・ユリウス・カエサル」、この3人による三頭政治がはじまります。

カエサルはガリア戦争で名声を得て、クラックスの死後にはポンペイウスとの内乱を抑えローマの権力を掌握しました。
しかしその改革の激しさと独裁政治は反感を買い、元老院によって暗殺されてしまいました。
カエサルの甥で養子になっていた「オクタウィアヌス」はカエサルの腹心のアントニウスと元老院を倒します。
しかしまたアントニウスとも対立し、アントニウスとエジプト女王クレオパトラとの同盟を破り、最終的には「オクタウィアヌス」が権力を掌握。
後に、ローマ帝国初代皇帝となります。

この内乱や人間模様だけでまた別の記事が書けるくらいのドラマがありますが、ようやく1世紀にもわたる内乱は収まったのでした。

「すべての道はローマに通ず」のことわざが生まれたローマ帝国

「すべての道はローマに通ず」のことわざが生まれたローマ帝国

image by iStockphoto / 18037043

「古代ローマ共和国」時代を終え、「ローマ帝国時代」が到来します。

このローマ帝国時代に、「すべての道はローマに通ず」のことわざが生まれました。
中国・インドからのシルクロードをはじめ世界中の都市からの道がローマに繋がっていたことから「物事は中心に向かって集まっている」ということを意味することわざです。
ローマ帝国の繁栄がどれほどだったのかがうかがえます。
この素晴らしいローマ帝国へ旅してみましょう。

ローマ帝国のはじまりと繁栄

紀元前27年に「オクタウィアヌス」は、後に皇帝の称号として使われるアウグストゥスと、国家元首という意味があるプリンケプスいう称号と、軍の最高司令官というインペラートルというものを元老院から送られます。
実質的なローマ帝国の始まりと言われており、「オクタウィアヌス」がローマ帝国初代皇帝となりました。

私が、「オクタウィニアヌス」が賢いと思うのは、元老院をほどほどに立てながら実質的に皇帝として統治したこと。
事実、今までのアウグストゥス(=皇帝)と呼ばれる人たちは「元老院と市民の代表者」としての位置づけのものだったからでした。
そのために実際に「帝政」として世襲し君臨が始まるのは、後を継いだ養子の「ティベリウス」からといわれてます。
長い内乱が終わった後の帝国の誕生はすべての属する都市たちにもローマ市民権を与え、法律も不備なところを修正し行政官の恣意的なものでなくなることで安心感が生まれ、平和と安定と繁栄をもたらされました。

一時は滅亡の危機?内乱に戦争ばかりの日々

しかし「ティベリウス」の死後から様子が変わってきます。
内乱時代から少しずつ徴兵制(国民全員が一定期間、兵になること)が成り立たなくなり、いざ傭兵制(志願者を雇い給与を与えて兵にすること)に変わり始めると、各都市が親衛隊と常備軍を持ち出したのです。
おまけに世襲の弊害から悪名高い3代目「カリギュラ」や5代目「ネロ」などの常軌を逸した皇帝が出てくると、反対勢力が軍を率いて内乱がはじまります。

「ネロ」の後には後継者がおらず後継争いが始まりました。
この後の1世紀は「四皇帝の年」と呼ばれる内乱や、ユダヤ属州など暴動の鎮圧にあけくれ、あげくゲルマン人やカレドニア人やパルティア(当時、イランあたりに位置した大国)との戦争までおきたのです。
もうローマは国中大騒ぎ!

そうこうしているうちに「ウェスバシアス」という者が後継者争いに勝利して皇帝になり、ようやくローマは落ち着きます。
どのようなひとがリーダーとなるかで、国の方針も影響を受け、よくなったり悪くなったりするものですが、ローマ帝国にとって「ウェスバシアス」は、平和をもたらしたという意味で良い皇帝でした。
次の「ティトゥス」「ドミティアヌス」も名君と呼ばれ平和が続きました。
この3人が皇帝を努めた時代を「フラウィウス朝」といいます。
(ちなみに「朝」とは「王朝」のことで、同じ王家に属する皇帝が君臨する時期のことを言います。)

栄光の時代を迎えるローマ帝国!「五賢帝」(ごけんてい)時代

栄光の時代を迎えるローマ帝国!「五賢帝」(ごけんてい)時代

image by iStockphoto

5人のバトンタッチで続いていく繁栄

「フラウィウス朝」の3人目の皇帝「ドミティアヌス」が暗殺された後、皇帝になった「五賢帝」(ごけんてい)と呼ばれる人たちの時代(1世紀終わりから2世紀)。
ここでローマ帝国は最盛期を迎えます!彼らは生きている間に逸材を見つけて帝位を継がせることで、繁栄を継続することができました。
とはいっても、やはり自分の一族から選んでいたようですが、国家元首として一番皇帝が活躍した時代ともいわれています。
まず96年に元老院から「ネルファ」という人が選ばれました。

このネルファが選んだのが「至高の皇帝」と呼ばれる「トラヤヌス」です。
この皇帝は帝国領土を広げ、すべて属州としました。
その範囲は東はメソポタミア・アッシリア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はなんとブリテン島までとなりました。

「五賢帝」の終わり

次に即位したのが「ハドリアヌス」。
この皇帝は長年戦争をしていた東の大国パルティアとの戦争を終結し、和平を結び、一代前の皇帝が領土を広げたアルメニア・アッシリア・メソポタミアから撤退しました。
水戸黄門よろしく全属州を視察して国内の整備に努めて、有名な「ハドリアヌスの長城」をはじめとした防衛政策をとりました。

次に即位したのが「アントニウス・ピウス」。
この皇帝は反乱や暴動が起きないように内政改革や財政管理の健全化につとめあげました。

次はなんと皇帝が同時に2人います。
共同皇帝と言われており、1人は哲人皇帝と呼ばれる「マルクス・アウレリウス・アントニウス」。
ストア哲学をを熱心に勉強していたといわれてます。
かといって勉学だけではなく、各地の内乱・ゲルマン民族などの侵攻には出陣していたのですが、その陣中で亡くなってしまいました。
以上の5人が五賢帝といわれています。

共同皇帝をしていたもう1人の「ルキウス・ウェルス」はパルティア戦争に出陣していましたが、その後に蛮族の侵攻の時に食中毒で亡くなってしまいました(他殺説もあり)。
「アウレリウス」と共同皇帝でしたが、こちらは五賢帝には入っていません。
そして哲人皇帝「マルクス・アウレリウス・アントニウス」の息子である「コンモドゥス」が即位します。
この皇帝は悪政をしいたために内乱が起こり暗殺されたうえ、「五賢帝」時代に最盛期を迎えたローマ帝国を維持することができずに衰退を招いた転換期となるのです。

「五賢帝」時代に発展したこと

この時代は地中海の海上流通よりも軍隊の移動も陸路が使われるようになり、ヨーロッパからイベリア半島やエジプトまで支配していったことから道が整備されていき、中国の後漢の時代にローマへ使者を派遣したという記録があります。
派遣は中断はしたものの、まさしくすべての道はローマに通ずの基礎を築いたといえます。

またローマ法と呼ばれる法律も確立しお金の統一などめざましいものがありました。
しかし軍隊と繋がった土地所有者が力を持ち始めてローマの重税からそこへ逃げ込むことも少なくなく各都市が自給自足の形をとり始めた時期でもあります。

ローマ帝国の衰退と分裂

ローマ帝国の衰退と分裂

image by iStockphoto

「五賢帝」時代が終わると、混乱と分裂の時代がやってきました。
「コンモドゥス」が192年に暗殺された後はなんと5人の皇帝が乱立し内戦が続きます。
その後も軍事政権が続いて混乱していきます。
国内では天然痘の流行で人口が激減したり、反乱を抑えるために212年にカラカラ帝がすべてに市民権を与えたことで、焼け石に水のように政治バランスが崩れていったのでした。
約50年間に26人が皇帝位に就いたというから、政治の混乱がわかります。
それによって軍事力が落ちるだけでなく人々の往来も減り商業がなりたたなくなり、ローマ帝国から心が離れていったのでした。

混乱と分裂を打開するために、324年には唯一の皇帝となった「コンスタンティヌス1世」が、ようやく専制君主制(=ひとりで全権を持つこと)の皇帝という形をとることになったのです。

クリスマスをつくった皇帝

話はそれますが、コンスタンティヌス1世がクリスマスのはじまりと言われています。
コンスタンティヌス1世は帝国全土に広がっていたキリスト教を公認し、次の皇帝となった「テオドシウス1世」の時に国教としました。
異教を禁止にする代わりにそれまでのミトラ教(太陽信仰)の大切な冬至の日である12月25日だけは残し、それがクリスマスの始まりとなりました。

帝国の分裂により「西ローマ」「東ローマ」ができる

「テオドシウス1世」は395年、死に際に、長男「アルカディウス」に東を、次男「ホノリウス」に西を与え、分割統治をさせることとしました。
実はローマの分割統治はこれまでも行われていたのですが、この機会が決定的な分裂のきっかけとなり、以降は西ローマ帝国と東ローマ帝国と呼ばれるようにりました。
西ローマは、いまのイタリア・フランス・スペインを含むエリアを領土として持ち、東ローマはいまのギリシャ・トルコからエジプトあたりまでを領土として持ちます。

西ローマ帝国の滅亡

ローマという国は、東西に分裂した後、それぞれ別々に滅亡します。

西ローマ帝国では、キリスト教を国教にしたことから異教徒達が政治的に皇帝の言うことに反対し続けるという深刻な問題が発生。
やはり皇帝の座を狙った内乱が続いてしまうことになります。
他民族の侵攻が続き、経済の要であった北アフリカを「ヴァンダル族」に奪われてからは、衰退していくばかりでした。
西ローマが「西ゴート族」に略奪されてからは衰退に拍車がかかります。
475年に「ロムルス・アウグストゥルス帝」が形上は皇帝だったものの、支配権はもうすでに無く、ゲルマン人の傭兵隊長オドケアルに退位させられてしまいます。
最後のプライドとばかりに「帝位の印」を東ローマ帝国のゼノン皇帝に送り返し西ローマ帝国は滅亡したのでした。

西ローマが滅亡し、分裂してフランク王国になり、その後のフランス、ドイツ、イタリアにつながっていきます。

東ローマ帝国の滅亡

東ローマ帝国は、その後1000年近くも続きます。
西ローマと異なり1000年継続できた理由として、シリアやエジプトといった穀倉地帯を持っていたことで、ローマ帝国の宿敵「ゲルマン人」に対抗てきたことや、首都コンスタンティノポリスを城壁で囲い堅牢な守備を築けたことが挙げられます。

6世紀頃には兼ねてからヴァンダル族に占領されていた旧都・ローマを奪還。
イタリア半島の歴史はほぼ西ローマの歴史と思われがちですが、東ローマもイタリアの歴史にしっかり関わっています。

しかしイタリア半島以西で勢力を伸ばしていたフランク王国との対立もあり、地中海はフランク王国、イスラム、東ローマで三分されることに。
ローマという名前を冠しながら、今のギリシャやシリアあたりのエリアを領土として持っていたことは、確かに今のイタリアそのものではないことのイメージにつながっています。

1453年にオスマン帝国の攻撃により、陥落となりました。

イタリアではなくどちらかというとドイツの「神聖ローマ帝国」

イタリアの歴史を追うと、前半はほぼローマの歴史なのですが、そのローマ帝国を引き継いだのが「神聖ローマ帝国」です。
ただし「神聖ローマ帝国」は、前半はローマ含むイタリア左半分を領土にしていましたが、だんだん縮小されほぼドイツの実態となります。

「神聖ローマ帝国」の歴史を少し早足で見てみると、962年、ドイツ王(=東フランク王)&イタリア王の「オットー1世」が、フランク王国「カール大帝」の地位を継承し、イタリア半島の西半分からドイツなどまでを領土とする「神聖ローマ帝国」がはじまります。
「ドイツ王(=東フランク王)&イタリア王」とはまた凄い肩書ですが、この地域は奪ったり奪い返されたりと争い続きでしたので、支配できた王が複数のエリアのリーダーを名乗っていたのでした。

しかしその後、領土はイタリア半島の争いにより徐々に減少。
ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国など今のイタリアの人気観光地の名前を冠する国々が出てきており、神聖ローマ帝国の影響力は次第に弱まります。

また、かねてより皇帝とは別にキリスト教のトップ(最高位聖職者)である「ローマ教皇」がいましたが、神聖ローマ帝国の支配下だった「ローマ教皇」が、8世紀に神聖ローマ帝国から脱したこともシンボル的な出来事です。

1512年にはほぼ実態がドイツだったため「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と名乗るに至り、後のドイツへと歴史が引き継がれます。

ルネッサンス誕生

ルネッサンス誕生

image by iStockphoto

さて、この地域が東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、神聖ローマ帝国のなかで事実上独立していたヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、など様々な国でイタリア半島が分裂していたことがわかりましたが、芸術品が保護され、また芸術が開花した「ルネッサンス」は複数の国家をまたがるお話です。

中世の純粋なキリスト教支配のせいで、このギリシア・ローマ時代の文化や芸術品は破壊されてきました。
壊滅を逃れたのはキリスト教とは関係のないイスラム圏が次々とアラビア語に翻訳して残してくれたからです。
そして自分たちのイスラム文化と融合して独自の文化を創ってしました。

ローマ帝国を滅亡させた彼らが文化を残してくれたというのは、歴史の皮肉ともいえるかもしれませんね。
元は東ローマ帝国にギリシア人が多く移住していたことから元からあった文化とギリシア文化が融合してギリシア語に書かれていたものを、アラビア語を通じて付き合いの薄かったヨーロッパ諸国も学べたという不思議な話です。

ルネッサンスといえばこの人達

ルネッサンスといえば哲学、文学、建築、神学、科学なども含め多岐ジャンルにわたってますが、やはり絵画なくしては語れません。
絵画を介してこそ、それらの説得力をもたらせているともいえます。
ルネッサンス三大芸術家をご紹介します。
フィレンツェの有力者メディチ家という一大パトロンの元で、なんと芸術の最大の敵のようになっていたローマ法王庁まで魅了しキリスト教芸術まで昇華させた人達です。

まずは「モナ・リザ」「最後の晩餐」で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼は画家だけではなく医学・建築・物理などありとあらゆる分野に偉大なる足跡を残しました。
また戦術家としても有名ですし、ヘリコプターのような乗り物ゆ熱気球の設計まで色々なスケッチを残しています。

つぎにミケランジェロ・ヴォナロッティ。
ダビデ像や最後の審判など彫刻や絵画で知らぬ人がいないほど有名ですね。

最後にラファエロ・サンツィオ。
ダ・ヴィンチとミケランジェロにあこがれ、それを自分のものとして極めて昇華させた素晴らしい人といわれてます。
「アテナイの学堂」「システィーナの聖母」等が有名ですね。

他にはダンテの「神曲」なども含めるととてもではないことになりますので、このあたりにしておきたいと思います。

バロックと外国支配による混乱の時代

バロックはルネッサンスの次にやってきた芸術の波です。
バロックとは「いびつな形の宝石や真珠」というポルトガル語からきています。
ミケランジェロからその片鱗があるといわれてますが、活動している芸術家は「自分は古典だ」と思って決していびつという感覚はなかったようです。

16世紀終わりからローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで生まれて、教会のみならず王侯貴族などの絶対主義のものにとっては、キリスト教ではプロテスタントの宗教改革の波からの威信の回復を狙う方法として重用されていきました。
それは絵画や彫刻だけではなく、建物や庭園や文学哲学まで幅広く世界に広がっていったのでした。

こうなるとイタリアだけというものではなくヨーロッパ各国独自のカラーが出てきます。
そしてイタリアは力が弱まっていくカトリック教会から新しい知識や文化は異端だと宣告されて文化先進国としての翼をもがれ、国自体もイタリア戦争という時代に入り、神聖ローマ帝国からはじまってイタリアの数ある都市たちは、フランスやスペインなどの大国支配下に入って併合されていくのでした。

ついにイタリア統一

ついにイタリア統一

image by iStockphoto

各国のイタリア支配はフランス帝政「ナポレオン」の時代まで続きました。
最初ナポレオンはフランスの将軍としてイタリアに侵攻してきました。
神聖ローマ帝国の属国になっていたミラノは別として、ローマのキリスト教皇領地で圧政に苦しんでいた領土「エミーリア」や「ロマーニャ」等がナポレオンを解放者として受け入れ、中立としていたヴェネチアはナポレオンの反感を買って神聖ローマ帝国に渡されてしまいました。
そして教皇領のローマも落とし、神聖ローマ帝国の属国も含め各地をまとめて統合し、自ら皇帝としてイタリア王国を建国。
イタリア半島はナポレオンの手で統一されることになりました。

しかしイタリア半島にできたイタリア王国は、フランスの衛星のような国だったため、イタリア人の民族運動の芽が生まれてきました。
ナポレオンが没落したあと「ウィーン会議」でまた分割されることになりました。

その後、イタリア統一を目指して各地で活動が起き、失敗を繰り返します。
1820年にスペインで立憲革命が起こったことを契機にシチリア王国で「ナポリ革命」「シチリア革命」が起きたものの神聖ローマ帝国軍の妨害により失敗。

翌年にサルデーニャ王国でピエモンテ革命も起きたもののこれも失敗。

フランスの七月革命の影響を受けて「カルボナリ」が中心の革命をあちこちで起こしたもののこれも失敗。

彼の理想は受け継がれてその後も活動は継続され、「第1次イタリア独立運動」が失敗したのち、「第2次イタリア独立運動」がナポレオン三世の力を借りて成功!

イタリア半島の一部を手に入れていたオーストリア帝国に何度も攻撃してようやくイタリア統一戦争が終わり、統一国家のイタリア王国が誕生したのでした。

神聖ローマ帝国の都市を奪還

1861年3月に成立したイタリア王国は、まだ教皇支配のローマやヴェネチア一帯のいまだに神聖ローマ帝国の属国になっていた都市は手中にしていませんでした。
そこで苦戦しながらも「第3次イタリア独立戦争」やプロイセンとの戦いでようやく手に入れローマを首都にしました。
だんだん現在のイタリアに近づいています。

イタリアを翻弄した二度の世界戦争

第一次世界大戦では、ドイツを裏切り戦勝国に

1882年からドイツとオーストリア・ハンガリー帝国と名を変えていた神聖ローマ帝国と三国同盟を締結。
しかし、イタリア統一戦争の時に戦ったオーストリア・ハンガリー帝国とはどうしても仲良く同調することができず、フランスと秘密協約を結びます。

第一次世界大戦がはじまると中立という立場をとることになりますが、そこに1915年イギリスが、連合軍に参戦してくれれば都市を取り戻すのに協力すると「ロンドン密約」を結んだために、イタリアはイギリスフランスと共に連合国として戦ったのでした。
戦勝国となったイタリアは「パリ講和会議」で領土を取り戻して国際連盟の常任理事国となりました。

端的には「フランスと密約し、オーストリア・ハンガリー帝国とドイツを裏切り戦勝国になった」ということになります。

第二次世界大戦ではドイツと手を組むも…?

第一次世界大戦の傷跡癒えぬまま、ヨーロッパは第二次世界大戦へと進みます。

第二次世界大戦でイタリアは、ヒトラーを総統とするドイツと手を結びます。
第一次世界大戦では裏切ったのに変だなと思うかもしれませんが、第一次世界大戦のときはどちらかと言うと「オーストリア・ハンガリー帝国を裏切った」のであり、第二次世界大戦では「植民地をあまり持たないドイツ・イタリア・日本」 VS 「植民地を持つ米英仏」という構図に必然的になったのでした。

1940年、イタリアはドイツとともにイギリス・フランスに宣戦布告してフランス南部に攻め込み、さらに北アフリカ戦線にも参加。

不況のまま戦争に参加したイタリアは、成果に乏しく、「ドイツの足を引っ張っていた」とも言われています。
国内では悪化する戦況と経済不況を招いたとして、当時のイタリア王国首相ムッソリーニは逮捕されてしまいました。
かわりにできたバドリオ政権は連合国側(米英仏)と休戦交渉をはじめます。

それをみたドイツ軍はイタリアへ侵攻をはじめ、そに恐れをなした王家は南部イタリアに脱出して連合国の一員としてドイツと戦いました。
その時にこのバドリオ政権は日本にも宣戦してますが、日本はムッソリーニ政権と国交していたため黙殺されました。

ムッソリーニはドイツ軍に救出されてイタリア社会共和国を作りましたが、連合国の攻勢によってドイツが崩壊したためにイタリア全土が連合国につき社会共和国もレジスタンスに潰されてしまいます。
そこでスイスに逃げようとしたムッソリーニは途中パルチザンに捕まり、裁判もなく公開処刑されてしまいました。
その写真は公開されています。
そしてイタリア王家も国民投票によって廃止され国王一族は国外追放となったのでした。

敗戦後の動乱から今日まで

敗戦後の動乱から今日まで

image by iStockphoto

イタリア共和国の誕生と、先進国の仲間入り

1947年のパリ講和条約で多少の国境の変更はあつたものの、1948年にイタリア共和国が誕生しました。
1949年にはNATO(北大西洋条約機構)同盟国やアメリカと同盟国になりました。
そのおかげで奇跡の復興といわれるほどの経済復興ができ、政治は不安定ながら先進国の仲間入りをすることができました。

しかし1970年代からは不安定だった政治がますます深刻になり「鉛の時代」と呼ばれる時代へと入っていきます。

共産主義に傾いた一時期

イタリアが共産主義に傾いていたのはご存知ですか。

1978年にはキリスト教民主党の党首である「アルド・モーロ元首相」が極左テロ組織に殺されます。
そのために歴史的妥協といわれていたキリスト教民主党と共産党との連立政権は解消されてしまいます。
それが発端かと思えるほど次々と右派と左派の過激な政治集団によってテロ事件が相次ぎます。
これらを通じて「鉛の時代」と呼びます。

この「鉛の時代」が収まっていくうちに共産党は勢力を伸ばしていきます。
1980年代になると国会は共産主義と社会主義が結びついて、はじめてキリスト教民主党政権を倒して政権をとることになりました。
それによってアメリカのレーガン大統領はイタリアに向けたミサイル配置を指示したともいわれています。

政界再編のきっかけは、秘密組織のメンバー

アメリカ・ロシアの冷戦が終わると、キリスト教民主党が政権を取り戻します。
しかし元首相たちの汚職も発見して、とうとうキリスト教民主党は国民からの支持も失って分裂状態におちいります。

その間隙を縫って、「P2」という秘密組織のメンバーだったベルルスコーニは新しく「フォルツア・イタリア」という政党を旗揚げ。
メディアを使い、またたく間に首相となりました。
これによってキリスト教民主党やイタリア社会党などは解体していまい政界の再編成となったのでした。

EU加盟も、まだ続く政治のドタバタ

2002年には通貨をヨーロッパの統合通貨のユーロになりました。

経済は前進しますが、政治はまだまだドタバタ劇場が続きます。
アメリカのイラク戦争がおきて、それを支持した「ベルルスコーニ」の支持率は落ちていき退陣させられますが、その後のアフガン問題や政権の分裂などから復帰。
しかし脱税問題に少女売春問題が起こしてまた退陣となってしまいました。

2011年にマリオ・モンティが首相になり、組閣は利害関係のない専門家を登用。
経済政策などは成功したものの、エリート然とした風格が反発をうけて、「ベルルスコーニ」の負の遺産を抱えながら辞任。
エンリーコ・レッタ首相を経て、現在は39歳という史上最年少のレンツィが首相となっています。

最後に:激しい歴史を生き残ってきた「世界遺産」たち

ここまで、イタリアの歴史を追ってきました。
想像以上に右往左往、奪っては奪われて、勝っては負けて…の歴史だったのではないでしょうか。

イタリアの世界遺産は、文化遺産と自然遺産あわせて51もあり、世界一の登録数です。
そのそれぞれが素晴らしく長い歴史の中で生き残ってきました。

ヴァルカモニカの岩絵群

ヴァルカモニカの岩絵群

image by iStockphoto

まずは記念すべき第1号の歴史遺産は「ヴァルカモニカの岩絵群」でした。
アルプスの長い渓谷の中に眠る岩絵、たくさんの岩絵がありますので見学する時は余裕を持っていかなければなりませんね。

ローマ歴史地区

ローマ歴史地区

image by iStockphoto

つぎは「ローマ歴史地区」。
コロッセオにフォロ・ロマーノ、コンスタンティヌスにある凱旋門、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂やサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、そしてお風呂が大好きイタリア人を象徴するカラカラ浴場など、これはとても1日では回れませんね。

ドメニコ会修道院とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

ドメニコ会修道院とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

image by iStockphoto

それからレかナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』がありルネッサンス様式の建物である「ドメニコ会修道院とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」。

フィレンツェ歴史地区

フィレンツェ歴史地区

image by iStockphoto

「フィレンツェ歴史地区」はルネッサンス最大の貢献者ともいえるメディチ家が統治していた都市です。
1986年には『欧州文化首都』にも選ばれました。

ヴェネツィアとその潟

ヴェネツィアとその潟

image by iStockphoto

「ヴェネツィアとその潟」は世界遺産基準すべてをクリアしたという水の都ヴェネツィア。
ここでは自動車・自転車走行が禁止されていて運河を船で移動するといわれています。
ゴンドラに乗りこみカンツォーネを聞くというのは、これぞ観光地イタリアですねという場所といえます。

ドロミテ

ドロミテ

image by iStockphoto / 68162665

「ドロミテ」は自然遺産。
イタリア語ではドロミーティといいます。
東アルプス山脈と森林の美しさはヨーロッパ中の人達が夏は避暑地、冬はスキーとして親しまれています。

アルベロベッロのトゥルッリ

アルベロベッロのトゥルッリ

image by iStockphoto

「アルベロベッロのトゥルッリ」は石灰石を積んだだけと言われてますが、形がトンガリ屋根で童話の世界にはいったような気持ちになります。

ポンペイ、エルコラーノとトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域

ポンペイ、エルコラーノとトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域

image by iStockphoto / 24817596

火山の噴火によって街ごと消滅してしまった「ポンペイ、エルコラーノとトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」。
いまだに埋もれたままの形を残しています。

ナポリ歴史地区

ナポリ歴史地区

image by iStockphoto

イタリアといえばピッツァ、ピッツァといえば「ナポリ歴史地区」。
元々はギリシアの植民地だったそうですが、古代ローマ時代から綿々とした歴史の跡が残されています。

アマルフィ海岸

アマルフィ海岸

image by iStockphoto / 45955908

世界で一番美しいという人もいる「アマルフィ海岸」は地中海の青い空と青い海が世界中で有名になっています。

シエナ歴史地区

シエナ歴史地区

image by iStockphoto

ゴシック様式の街並みがそのまま現在まで残されているのが「シエナ歴史地区」。
ゴシックが大好きな人ならば外せない所ですね。

ヴェローナ市

ヴェローナ市

image by iStockphoto / 38646912

かの有名な『ロミオとジュリエット』の舞台となったことでも有名な「ヴェローナ市」は古代ローマ時代や中世時代やルネッサンス時代の建物がたくさん残されています。
この中でロミオになったりジュリエットの気分を味わうのも良いかもしれません。

ピサのドゥオモ広場

ピサのドゥオモ広場

image by iStockphoto / 87533583

ピサの斜塔が見れるのは「ピサのドゥオモ広場」。
ここにはガリレオ・ガリレイの生家もそのままに残されているそうです。

観光の見どころ満載のイタリア

たぶん皆さんが聞いたことがあるような土地や特徴のある世界遺産を並べてみましたが、どうでしょうか? まだまだ知ってる! と言われる所もあるでしょう、なにせ51カ所もあるのですから、時間が許すのであればすべてを調べて行ってみたくなります。
歴史に興味がなくてもイタリアだけは別物みたいな不思議な国ですよね。

悠久の歴史と愛を知る国イタリア

この人類の至宝ともいえる歴史と文化と芸術のあふれる国イタリア。
これだけの混乱や苦難にも負けずに明るく暮らしている人々。
どんな逆境にも負けずに立ち上がり、なおも世界の文化の発祥の地とし続けるイタリア。
オシャレで洗練されたその姿は世界中の人々の心を魅了してやみません。
これが皆さんのイタリアへの興味と理解の手がかりになりますように。
photo by iStock

紫蘭

Writer:

3度のご飯より歴史が好きです。歴女というのが今メジャーなようですが、どちらかというと私は歴史ヲタクという泥臭い感じがします。

この記事のカテゴリ

イタリア
ヨーロッパ
歴史

関連記事を見る

イタリアの記事を見る

ユニークな税を導入したものからを持つものから暴君まで・個性的な歴代ローマ皇帝まとめ
【イタリア観光】古代も中世もルネサンスも見れるイタリアへ
イタリア在住15年の私が決める!イタリア観光スポットランキングBEST 20
イタリア観光、リピーターにおすすめのマニアックコースならこれ!3選
毒殺に暗殺!?スキャンダラスな一族「ボルジア家」とは
日本でも話題の世界最古の薬局!イタリアフィレンツェにある「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」の歴史を調べてみた
【イタリア在住者が伝授】イタリア観光の攻め方&モデルコースを徹底解析
イタリアの観光名所が目白押し?!夫婦の離れた心の変化を描いた映画『イタリア旅行』をご紹介
「ローマの休日」を辿るイタリア・ローマ観光のすすめ。観光スポット・舞台はここ!
ヨーロッパ最大の帝国となったローマ!ローマはなぜ帝国になったの?ローマ帝国への道
政府公認観光ガイドが伝授!アルベロベッロとプーリア州
ローマ在住者が伝授!ローマのおすすめの美術館20選