ナポリ観光の前に知りたい!小国の悲しみに耐え、500年も続いた「ナポリ王国」の歴史

ローマ・ミラノに次ぐ、イタリア第3の都市ナポリ。南イタリアのカンパーニャ州の首都で、中世後半から近世に亘り、500年以上も栄えた王国なんですよ。でも、小さな国だったから苦労も絶えませんでした。そんな、ナポリの歴史って興味が湧きませんか?今回は、ナポリ王国の歴史に触れてみたいと思います。

ナポリ王国のはじまり

ナポリ王国のはじまり

image by iStockphoto

ナポリは古代ギリシャ人により紀元前5世紀頃に造られた植民都市です。
ナポリという名前もネア・ポリス(ネア=新しい、ポリス=都市)から来ています。
ギリシャだけでなくローマ帝国の支配下に置かれたこともあり、ローマの面影を街のあちこちで見ることができます。
1282年にシチリアの晩禱という住民暴動が起こり、シチリア王国が二分されました。
その一つイタリア半島南部がナポリとなりました。
フランス王家のカーペ家の分家、アンジュー・シチリア家の支配下となったことが、実質的なナポリ王国の誕生です。

当時、ナポリ王国は「灯台のこちらのシチリア王国」と呼ばれており、首都がナポリでした。
気が付いたら人々が自然にナポリ王国と呼んでいたという、面白い過去を持っています。
王もシチリア王と名乗っていたのですが、いつしかナポリ王と呼ばれるようになっていました。
ナポリ王国は、アンジュー家のもとでゲルフの中心勢力となっていったのです。

ルネサンス文化が繚乱する頃のナポリ

ルネサンス文化が繚乱する頃のナポリ

image by iStockphoto / 44981710

1435年にアンジュー家の家系が断絶し、1442年にアラゴン家が王位を継承しました。
実はアラゴン家が継承するまでの100年間は内紛でゆれ、不安定な時期でした。
しかし、アルフォンソ1世としてナポリ王となり文化的な活気を取り戻したのです。
これがナポリ王国でのルネサンスの開花でした。
ナポリでの大学教育はあまり優秀とはいえない状態でした。
芸術を大切に保護していた王としてはほっておけず、1442年に文芸サロン(ナポリ・アカデミー)がオープンしました。
その後、ルネサンスが一世を風靡していたイタリア半島で、アカデミーの建設が流行しました。

フェランテ王のもと経済的な活力も取り戻して、約1世紀半に亘り安定しました。
その後、1479年にはアラゴルン家は、カスティリャ王国を合同し、両シチリア王国がスペイン王領となったのです。
1480年には悲しいことにオスマン帝国に1年間占領されています。
アラゴン家も封建制のような王国で、ナポリ王国に新しい領地を得たことで政権を拡張したのです。
ナポリの豪族の関心を引こうと権力のバラマキ等をしたため、豪族たちが権力を増大させ、更に苛酷な重税を課していたことから、1485年に反乱が起き、危うく王国の生存に危機を招いてしまいました。

フランスシャルル8世の侵略

フランスシャルル8世の侵略

image by iStockphoto

反乱により勢力後退を余儀なくされたフェランテは、ナポリの支配権をアンジュー家の頃から主張しているフランス王シャルル8世に侵略されました。
この時シャルル8世は、ナポリ遠征に3万の軍隊を費やしています。
しかし、残念!ここまで何とか頑張ってきたのに…!シャルルの南下で、ナポリとの間にある諸都市国家は、ティレニア海沿いに2つの城を築き多額の金銭も与えました。

このことでフィレンツェのピエロは1894年に追放され、メディチ家の独裁政治を批判しカトリックの説教で民衆の心を掴んでいたドミニコ会修道士サヴォナローラは、シャルルのフィレンツェ入城を歓迎しています。
この後、シャルルはローマを占領し、これ以降も進軍するシャルルはとうとうナポリに無血入城しました。

フランスからナポリを取り返したのはスペインだった

フランスからナポリを取り返したのはスペインだった

image by iStockphoto / 67075121

ここで立ち上がったのが、スペインの大司令官「ゴンサロ・デ・ゴルトバ」でした。
1895年にシャルル8世に占領されたアラゴン家を支援するために、オスティアを解放して教皇に返上しています。
ナポリ王国の一部を取り返し、1503年にはナポリを占領。
翌年にはガエダの奪還に成功し、ナポリ王国を征服したのです。
フランス軍をとうとうイタリアから追い出しちゃいました。
シャルル8世は失意のうちに自国に帰ることになり、膨大な戦費を費やした割には、政治的な利益は無に近い状態でした。
しかし、多数のイタリアの美術品を戦利品として持ち帰ったようです。
この時、1140もの書籍等もフランスに持ち帰り、後のフランスルネサンスに役立てられました。

スペイン統治時代に入ります。
同年にゴルドバはナポリ王国最初のスペイン総督になりました。
超強い人って感じがします。
その通りスペイン軍の強さは、17世紀半ばまでヨーロッパやアメリカ大陸で発揮されています。
この時自発的にフランスに亡命していた、フェデリーコが死亡しました。
1647年にはナポリの貧民から暴動が起こりました。
これは長年におけるスペイン貴族の支配による貧富の差の拡大が不満となって暴動が勃発したようです。
しかし、スペインは悪魔と魔女の仕業として罪なき人を虐殺する暴挙に出ています。







国民から愛された王の登場

国民から愛された王の登場

image by iStockphoto

スペインは本国でスペイン継承戦争が勃発し、ナポリは一時オーストリアの支配下になります。
その後ポーランド継承戦争を経て、1735年にナポリ王としてスペインブルボン家のカルロ7世が即位しました。
彼は、市民に信頼され愛され続けた王です。
彼はイタリア名門貴族のファルネーゼ家の美術品とフランスブルボン家の膨大な富を受け継いでおり、その膨大な富を武器に手腕を発揮しています。
何といってもフランスのヴェルサイユ宮殿に負けない宮殿をと、彼が建てたのがカゼルタ宮殿です。
大小1200もの部屋があり、館内には歌劇場を造るほどのこだわりようでした。

この、豪勢な宮殿を造った理由の一つに、公共事業で雇用を促進し、市民の生活を安定させるという意味合いがありました。
もちろん王家の権力の象徴という意味合いが主な理由ですが…。
王の狙いは的中し、ナポリは経済が安定したのです。
市民からの信頼と尊敬を獲得し、後世まで市民に愛される王として名を残しています。
ナポリ近郊のポンペイ遺跡はご存知でしょう。
これを発掘したのもカルロ7世です。
ここから出土したポンペイのモザイクやフレスコ画なども、王のコレクションに加わりました。

近代のナポリ王国からイタリア統一へ

近代のナポリ王国からイタリア統一へ

image by iStockphoto

1787年のブルボン朝の王権に対する貴族の反抗に起因するフランス革命は、まさにナポリ王国にも影響をもたらしました。
ボルボーネ皇帝のフェルディナンド4世が王の時代に、フランス革命の渦に巻き込まれていったのです。
1799年に、フランスの軍事力によって造られた、パルテノペア共和国が建てられました。
1796~1815年に起こったナポレオン戦争では、ナポレオンの支配下に置かれてしまいます。
ナポリ王国が占拠された1806~1815年の間には、フェルディナンドはナポリ王国から追放され、シチリア島のみの王となったのです。

その代わりにナポリ王国を収めたのは、ナポレオンの兄ジョゼフと、妹婿のミュラが就きました。
しかし、皆さんご存知、1815年にナポレオンが敗れると1816年にはフェルディナンドがナポリ王国とシチリアの両王として返り咲きました。
これは、ナポレオンが失脚したのち、ウィーン会議によってブルボン朝の復帰が許されたからでした。
しかし、国名は両シチリア王国となってしまったのです。
絶句!ナポリ市民にとっては屈辱でした。
世の中は、イタリア統一気運一色に染まっていきます。
もちろん、ナポリも影響され、1860年にイタリア統一運動を推進した、ジュゼッペ・ガリバルディによって占拠。
翌1861年にイタリア王国に組み込まれました。

小国だったナポリ王国の長い歴史は、ナポリ人の心の中で息づいています

どこかの国に支配されることで生き残ったという、小国だからこそのナポリ歴史をご紹介しました。
悪名高い王もいれば、市民のために政を行った王もナポリにはいました。
陽気な南イタリアの大都市ナポリの歴史って、ナポリの人々の辛抱があったからこそ成り立っているのかもしれませんね。
photo by iStock