「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチの足跡をたどってイタリアからフランスへ

レオナルド・ダ・ヴィンチと聞いてなにを思い浮かべますか? 『モナ・リザ』でしょうか、それとも『最後の晩餐』、それともヘリコプターや自動車(!)のアイディアを500年も前に考えだした科学者のイメージでしょうか。今回は5月2日が命日のイタリアルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの地を中心にご紹介。
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ダ・ヴィンチの生家(ヴィンチ村アンキアーノ)


レオナルド・ダ・ヴィンチ[以下、レオナルドと表記]は1452年4月15日、北イタリア・トスカーナ地方を支配したフィレンツェ共和国から約30kmほど西の丘陵地に位置する現在のヴィンチ村アンキアーノに公証人の庶子として生まれました。
現在、ダ・ヴィンチが生まれた家は現存していませんが、小高い丘の上に建つ石造りの3部屋ほどの小さな平屋建ての家が「レオナルド・ダ・ヴィンチの生家」として公開されています。

ヴィンチ村にはこのほか「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館」や「レオナルド図書館」もあり、ヴィンチ村には年間50万人もの人がダ・ヴィンチ詣でに訪れます。

レオナルドの父セル・ピエロはその後正式に結婚してフィレンツェに転居したため、じっさいにレオナルドの養育に当たっていたのはおもに祖父母そして叔父フランチェスコでした。
孤独な少年レオナルドはヴィンチ村の豊かな自然のなか、自分の目で観察することの大切さをフランチェスコ叔父から教わりました。
このフランチェスコ叔父の存在がなかったら、レオナルドは後年、みずからの言う「経験の弟子」とはならなかったはずです。

ヴェロッキオ工房時代(アルノ川流域)


14歳になったレオナルドは父セル・ピエロの奨めで当時フィレンツェで工房を主催していた画家で彫刻家のアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りします。
ここでのちに画家として大成するボッティチェリ、ドメニコ・ギルランダイオ、ロレンツォ・ディ・クレディなどとともに画家修行に励みました。

1472年ごろ、ヴェロッキオとレオナルドを含む弟子たちが『キリストの洗礼』を共同制作したとき、レオナルドが担当した天使像の完成度の高さに衝撃を受けた師匠ヴェロッキオは、その後筆を折ったと伝えられています。

レオナルドは20歳にして画家として独立、現存するレオナルド直筆絵画としてもっとも古いとされているのがアルノ渓谷を描いた『風景の習作(1473)』で、西洋美術史上初の風景画とも評されています。

この時期の代表的作品 : 『受胎告知(1472 – 75)』、『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像(1474 – 76)』、『カーネーションの聖母(1478 – 80)』

花の都フィレンツェとメディチ家

花の都フィレンツェとメディチ家

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レオナルドが最初に自分の工房を開いたのは、当時のフィレンツェ共和国の首都フィレンツェ。
最初の注文を受けたのは1478年、当地の支配者メディチ家からで、フィレンツェ共和国の政庁舎(ヴェッキオ宮殿)礼拝堂を飾る祭壇画でした。
また1481年には『東方三博士の礼拝』制作依頼も受けたものの、この2点の作品はけっきょく未完成に終わり、1482年にはミラノへと出立してしまいます。

『東方三博士の礼拝』では後方の群衆のなかに、レオナルド本人の自画像らしき人物も描きこまれているとする説もあります。

この時期の代表的作品 : 『ブノアの聖母(1475 – 78ごろ)』、『聖ヒエロニムス(1480-82ごろ)』、『アトランティコ手稿(1478 – 1518)』

『最後の晩餐』とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ時代)

『最後の晩餐』とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ時代)

image by PIXTA / 25048170

ルドヴィコ・スフォルツァの支配するミラノ公国に到着したレオナルドは、さっそくその名声を聞きつけたスフォルツァ公から父フランチェスコの巨大な騎馬像制作をはじめ、さまざまな企画運営と制作依頼を受けます。
またルドヴィコ公から菩提寺のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂壁画制作も命じられ、1495年から3年ほどで完成させた傑作『最後の晩餐』もこのミラノ時代の作品です。

ドメニコ会修道院に隣接するミラノ旧市街にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、1465年に落成したゴシック / ルネサンス折衷様式の教会。
1980年に世界文化遺産に指定されました。

この時期の代表的作品 : 『岩窟の聖母(1483 – 86、ルーヴル所蔵版)』、『音楽家の肖像(1485ごろ)』、『リッタの聖母(1490 – 91)』

流浪の日々(ヴェネツィア共和国 – マントヴァ侯国)

流浪の日々(ヴェネツィア共和国 - マントヴァ侯国)

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1499年、ルドヴィコ公が侵攻してきたフランス王フランソワ1世軍に破れてミラノが占領されると、47歳のレオナルドは17年余を過ごしたミラノの街を後にし、友人の数学者ルカ・パチョーリとミラノで弟子にとったサライとともにヴェネツィア共和国へと逃れ、おもに軍事技師として働きました。
1500年にフィレンツェに帰還する途中マントヴァ侯国に立ち寄り、当地の侯妃イザベッラ・デステに自身の肖像画を描くよう依頼されましたが、レオナルドは作品を完成させることなくフィレンツェへ。

侯妃イザベッラの住んだ宮殿を含む旧市街は世界遺産指定も受けています。

この時期の代表的作品 : 『ウィトルウィウス的人体図(1485-90ごろ)』、『スフォルツァ騎馬像のための習作(1485ごろ)』、『マドリード手稿 I, II (1490 – 1508)』、『白貂を抱く貴婦人(1490ごろ)』、『イザベッラ・デステの肖像(素描、1500)』

軍事土木技師として活躍(チェゼーナ、イーモラ)

軍事土木技師として活躍(チェゼーナ、イーモラ)

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1502年、レオナルドは軍事土木技師としてヴァランス公爵チェーザレ・ボルジアのもとで1年ほどイタリア各地を転々とする生活を送りました。
この時期までにレオナルドは土木や工学、自然科学、解剖学に関する膨大な手稿を蓄積しており、チェーザレから要塞建設のための精密な都市計画図『イーモラ地図』や故郷トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナの地図も作成しています。
このときレオナルドに同行したのが、『君主論』を著したニッコロ・マキャヴェッリでした。

現在エミリア=ロマーニャ州に属する都市チェゼーナは、セリエBの「ACチェゼーナ」の本拠地でもあり、またイーモラは2006年まで開催されていたサンマリノGPの開催地でもありました。

この時期の代表的作品 : 『岩窟の聖母(1495 – 1506ごろ、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵版)』、『糸車の聖母(1499ごろ)』

『アンギアーリの戦い』(フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿)


1508年、フィレンツェに帰還したレオナルドはフィレンツェ政庁舎(現在のヴェッキオ宮殿)の「五百人広間」に大規模壁画『アンギアーリの戦い』を制作するよう依頼を受けますが、隣接する壁面にはもうひとりの天才芸術家が大壁画制作を依頼されます。
その天才芸術家とは、レオナルドの23歳下のミケランジェロ。
このふたりの天才はおたがいまったく相容れない「犬猿の仲」だったと伝えられています。

レオナルドはこの『アンギアーリの戦い』制作に心血を注ぎ、みずから開発した新しい絵具による実験的手法を試みたものの、彩色をはじめた段階で絵具が流れ出してけっきょく失敗に終わり、その後『美術家列伝』で知られるヴァザーリによる新しい壁画に置き換えられました(ミケランジェロのほうも下描き完成後に放棄してローマに旅立ったため、けっきょく企画倒れに終わりました)。
近年の調査では、ヴァザーリは二重壁構造にしてダ・ヴィンチの大作『アンギアーリの戦い』を保存している可能性が明らかになっています。

『モナ・リザ(『ラ・ジョコンダ』、1503 – 06ごろ)』、『聖アンナと聖母子(1508 – 10ごろ)』、『洗礼者ヨハネ(1513 – 16)』

一路フランスへ(ロワール渓谷アンボワーズ城)

一路フランスへ(ロワール渓谷アンボワーズ城)

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1516年、64歳になったレオナルドは孫ほども年の離れたフランス国王フランソワ1世の招聘によりはじめて故国イタリアを離れ、生涯最長にして最後の長旅を経てフランス入りします。
このとき膨大な手稿とともに持参していたのがあの名画『モナ・リザ』を含む3点の絵画でした。
現在、ルーヴル美術館に展示されている『モナ・リザ』がイタリアではなくフランスにある理由はこのためです。

フランソワ1世は老レオナルドを丁重にもてなし、自身の居城アンボワーズ近くのクロ・リュセの館に住まわせました。
この館とアンボワーズ城は地下通路でつながっており、国王みずから敬愛する老巨匠にたびたび面会に行ったと伝えられています。

『モナ・リザ』の背景はどこか(ヴァルダルノ渓谷)


『モナ・リザ』に代表されるスフマート(ぼかし)技法をはじめ、レオナルド絵画の特色はいくつか挙げられますが、とくに死ぬまで手許に置き手を入れつづけたとされる『モナ・リザ』や『聖アンナと聖母子』などの肖像画の背景に描かれたあの幽玄な岩山や石橋はどこなのでしょうか? 

岩山のほうは、フィレンツェ近郊の「ヴァルダルノ渓谷」ではないかと言われています。
ここはぶどう畑の広がる丘陵地帯ですが、鋭い形をした奇岩があちらこちらで顔を出している独特な地質景観でも知られています。

また『モナ・リザ』に登場する「石のアーチ橋」はフィレンツェから約60km離れたアレッツォに架かる「7つの橋の道」という7連アーチ石橋とも、おなじ川に架かる13世紀建造の「ブリアーノ橋」とも言われています。

終の棲家、クロ・リュセの館(ロワール渓谷)

終の棲家、クロ・リュセの館(ロワール渓谷)

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最晩年のレオナルドは遺産相続人として弟子のフランチェスコ・メルツィを指名し、その直後の1519年5月2日にクロ・リュセの館で永眠、享年67歳でした。
現在、レオナルドが最晩年を過ごした館は博物館として公開され、広大な敷地内にもレオナルドの発明品が体験遊具として展示されています。

アンボワーズ城を含むロワール川流域には約300もの古城が残されており、2000年に世界文化遺産として一括指定されています。

流浪の果てに見出したものとは

レオナルドは最晩年、持参した3点の絵画に手を入れたり、膨大な手稿の整理や手稿の出版準備を進めていたと伝えられています。
そしてアンボワーズ城前を滔々と流れるロワール川をよく眺めていたそうです。
そんなレオナルドはこんなことばも残しています――「きみが手に触れている水は過ぎ去った水の最後のものにして、来たるべき水の最初のもの。
現在、という時もまたかくのごとし」。
photo by PIXTA and iStock

Ryuichi

Writer:

伊豆半島の付け根に住んでいます。地元静岡県の記事が中心ですが、海外ものもときおり織り交ぜてご提供。公共交通機関を最大限活用するスローな旅が好きです。

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