中世の大国、ド根性な不死鳥の国!ポーランド不屈の歴史

ポーランド!世界史でも奇跡的な「根性」を持ちあわせた国です。ロシアとドイツ、オーストリアによる5度に渡る分割にもめげず、不死鳥のように復活を成し遂げ、その「ド根性」は他に類を見ません。しかし疑問に思ったことはありませんか?「どうして何度も国として復活してきたの?」ソレには秘密があるんです。かつてポーランドがヨーロッパでも最強の大国だったことをご存知でしたか?なぜユダヤ人が多かったの?そして度重なる分割の理由、そこから立ちあがるポーランド復活の秘密とは、一体。今回は不屈の国・ポーランドについてご紹介します。

〈平原の国〉ポーランドという国の、原型

〈平原の国〉ポーランドという国の、原型

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〈ポーランド〉という国ができるのは、10世紀まで待たなければなりません。
その前に、ポーランドの地理をおさらい。
ポーランドは北をバルト海と、ロシアの飛び地であるカリーニングラードに。
西をドイツ、チェコ。
南をスロバキア。
東をウクライナとベラルーシに囲まれています。
広大な平野や豊かな森、湖水地帯などで形成されている〈ポーランド〉。
その国名の意味は「平原の国」です。
平原の国・ポーランド地域では多くの民族が行きかい、交流を重ね、さまざまな文化がはぐくまれました。

「平原の国」ポーランドは一大交流地

古代ポーランドは、非常にエキサイティングな土地だったようです。
戦争でも要衝(ようしょう)としてあつかわれることになるポーランドですが、当時から非常に重要な土地でした。
〈平原の国〉ポーランドのその平原では、行き交う多様な民族によって、さまざまな技術や文化が持ち込まれ、発展していきます。

7500年前に世界最古のチーズ製造が行われた、その痕跡がポーランドで見つかっています。
また、鉄器時代には見事な鉄器が特徴の〈ウー二ェチツェ文化〉。
家畜をやしない農耕を行った〈トシュチニェツ文化〉、などが展開されていました。

古代ローマ帝国が崩壊。
その後、ヨーロッパを騒がせた〈民族大移動〉が収束したのちには、ポーランドには〈スラヴ民族〉が主に定住するようになりました。
10生気ごろに、「平原の人」という意味の名を持つ〈ポラン族〉らが諸部族が、平原の国〈ポーランド〉という国号を名乗ったのです。

966年、キリスト教化!西洋の仲間入りへ

ポーランドの国として形ができたのが、10世紀のこと。
ポーランド最初の王朝〈ビャスト朝〉は周囲の領主を支配下に置き、一つのまとまった国を作りました。
そしてポーランドは966年に大転換をします。
ポーランド最初の王朝〈ピャスト朝〉の王様がローマカトリック、つまりキリスト教の洗礼を受けたのです。
ポーランドはキリスト教国家となり、西洋の仲間入りをしました。

「王様が洗礼を受けたくらいで、何が変わるの?」と思いがちですが、王様が洗礼を受ければ領主も受ける、領主の命令で領民もキリスト教徒になる……そして洗礼を受けたら、ゆりかご(洗礼)から墓場(葬式)まで教会という、ヨーロッパ中に広がる巨大な組織にお世話になります。
何よりも、ポーランドは西洋で一番強大な権力者・ローマカトリック教会、そしてローマ法王と接続しました。
つまりは大きな権威とパイプをつないだことになります。
ポーランド」という国は、このキリスト教化からはじまったのです。
こうしてポーランドは国際的な地位を確立。
その後は一体どうなったのでしょう?

ふしぎなふしぎな、中世のポーランド

ふしぎなふしぎな、中世のポーランド

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さて、ここではキリスト教化した後のポーランドの様子を見ていきましょう。
ときは暗黒の中世。
各地で戦争が起こり騎士が活躍し、ポーランドも王族の兄弟によって分割統治されます。
その様子はまさしくカオス。
13世紀、モンゴル民族がヨーロッパをおびやかすにいたって、ポーランドの地にこれまでとは異なる存在がやってきました。
〈ドイツ騎士団〉、そして〈ユダヤ人〉です。
彼らはポーランドの発展に大きく寄与します。
が、しかし……これらはひょっとしたら現代史まで尾を引いているのです。

「モンゴルからポーランドを守れ!」〈ドイツ騎士団〉がやってきた!

ヨーロッパをおびやかす一大脅威がやってきました。
モンゴル民族の襲来です。
中国、ロシアさえも征服し一大帝国となっていたモンゴル民族。
ポーランドももちろん、その脅威にさらされます。
ときのローマ法王は「ポーランドを守れ!」と詔書を出します。
そこで駆けつけたのが、ローマ法王お墨付きの用心棒〈ドイツ騎士団〉です。

〈ドイツ騎士団〉。
彼らは本職は神に仕える修道士。
しかしてその実態は、おもに王侯貴族の子弟たちで結成された歴戦の戦士たちです。
また、いいとこ出の坊っちゃんたちで構成されるインテリ集団でもありました。
〈ドイツ騎士団〉たちはポーランドにやってくるや、異教徒を殲滅(せんめつ)すべく大活躍。
同時にポーランドに〈ドイツ騎士団〉の持つノウハウを持ちこみました。
法律、職人ギルド制度…そしてドイツ人の定住がはじまったのです。

ポーランドはユダヤ人にやさしい国だった!

西洋史のアキレス腱〈ユダヤ人〉。
彼らについても最初におさえておきましょう。
これは現代史にまで続くので、覚えておいてください。
〈ユダヤ人〉の国は紀元前70年にエルサレム神殿が崩壊し、国を失った後も、タナハ(旧約聖書)やタルムードの教えを守り、独自のコミュニティを作って生活していました。
主に金融業などを営んで、キリスト教が制覇していくヨーロッパにおいても数千年に渡り、今現代にいたるまで信仰とアイデンティティを守り続けているド根性民族。
キリスト教的には駆逐すべき「異教徒」ゆえに、ユダヤ人の歴史は迫害される歴史でもあります。

しかしポーランドは奇妙な政策をとりました。
ユダヤ人の権利と利権を優遇したのです。
ヨーロッパで一番ユダヤ人にやさしい国・ポーランドに、どんどんユダヤ人が移民としてやってきました。
そんなわけでヨーロッパでもっともユダヤ人が多い国となっていったポーランドでは、金融の発達により、ポーランドの近代化はズンズンおしすすめられていきました。

西洋の大国!〈ヤギェヴォ朝〉と〈ポーランド・リトアニア連合〉

西洋の大国!〈ヤギェヴォ朝〉と〈ポーランド・リトアニア連合〉

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ポーランドに栄光の時代がやってくる、その序曲がはじまりました。
当時の大国・〈リトアニア〉との連合です。
「リトアニアってどこなの?」という方のためにざっくり言ってしまうと、現代では「ロシアの一番西っちょのほうにある海(バルト海)の沿岸にある〈バルト三国〉の、上から3番目の国(その下はカリーニングラード)」。
現在では小国ですが、かつてはポーランドと組んで西洋の覇権を握る大国でした。
〈ビャスト朝〉最後の女王は、ポーランドのためにある決断をします。
それがポーランドを大きな発展に導くのです。
ポーランドとリトアニアの二人三脚の歴史がここに幕を開けます。

リトアニアとポーランド、結婚して同盟!〈クレヴォの合同〉

1386年、ポーランドは転機をむかえます。
〈ビャスト朝〉最後の王様には女の子しかいませんでした。
その女の子は女王の座につきますが、いかんせん国は脅威に満ちあふれています。
モンゴル民族、ドイツ騎士団……女王ヤトヴィガは決断をせまられます。

そこに登場したのがリトアニア。
当時リトアニアは現在のウクライナやベラルーシまでも支配する大国でした。
利害の一致した両者は「結婚して同盟」することに!リトアニアは当時、ボヘミアやハンガリーも支配していましたから、一気に国土は拡大!リトアニアの国王はポーランド風に「ヤギェヴォ」と名乗り、この王朝は〈ヤギェヴォ朝〉と呼ばれることになります。
〈クレヴォの合同〉と呼ばれる、この一大結婚事件。
ちなみにこの夫婦、仲むつまじかったと伝えられていますよ。

リトアニアと同盟し、モンゴル民族も撃退したポーランド。
やがて国内の「あの勢力」との因縁が爆発します。

〈ドイツ騎士団〉と宿命の激突〈タンネンベルクの戦い〉

1410年、ついに〈ドイツ騎士団〉とポーランド・リトアニアは激突しました。
現在権力を握っている〈ヤギェヴォ朝〉以前の〈ビャスト朝〉の王家を支持する貴族が〈ドイツ騎士団〉の手を借りてポーランドを再編しようと画策。
ポーランド・リトアニアが黙っているわけがありません。
〈ポーランド・リトアニア連合軍〉VS〈ドイツ騎士団〉の戦闘は、タンネンベルク村付近の平原で行われました。

戦闘が開始されてまもなく、ポーランド側が〈ドイツ騎士団〉に追いつめられてしまいます。
リトアニアは撤退。
一時はポーランド王がいる陣地にまで〈ドイツ騎士団〉は迫ります、が!そこにすかさずリトアニアが追撃!「敗走したとみせかけて、油断した〈ドイツ騎士団〉の背後をつく」。
この見事な戦術が功を奏し、ポーランド・リトアニア連合軍は〈ドイツ騎士団〉を追いこみ、籠城戦(ろうじょうせん)にまで持ちこみこんだのです。
……が、途中で兵士たちが自分の家へ帰ってしまいました。
理由は「収穫期」!作物を収穫するために今働かないと、1年の食いぶちがなくなってしまいます。
〈ドイツ騎士団〉とポーランド・リトアニアは和睦を結びました。

〈ドイツ騎士団〉はかくして敗北。
優秀な戦士を多く失った〈ドイツ騎士団〉でしたが、その後は領土を独自に獲得して〈プロイセン〉という国になります。
現在のドイツの原型です。

16世紀、ポーランド栄光の時代へ

16世紀、ポーランド栄光の時代へ

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ポーランドのもっとも輝かしい時代がやってきました。
ポーランド・ルネサンスの到来、ヨーロッパ有数の大学たるクラクフ大学の発展。
また、オスマン・トルコがヨーロッパを脅かした〈ウィーン包囲〉をも、ポーランド・リトアニアは打ち破ります。
そしてオスマン・トルコと締結した〈恒久平和〉によって、オスマン・トルコの侵略からまぬがれることに成功。
〈平原の国〉は農業国として大発展。
ポーランド・リトアニアはヨーロッパ最強の国として、近代的市民的な社会を作り上げていました。
すべては栄光につつまれ、順調なように見えました……






ヨーロッパの文化の一大中心地へ!

1572年、〈ヤギェヴォ朝〉最後の王様が後継者を作らずに亡くなってしまうと、国は慌てふためきます。
そこでポーランド・リトアニアは、諸侯たちが選挙して王様を決める「選挙王制」をとりました。
〈ヤギェヴォ朝〉のころから地方分権化が進んでいたポーランド・リトアニアでは、フランスやロシアのように、王様は強い権力を持つことができません。
その分、市民の権利は認められて、のびやかで近代的な風景がポーランド・リトアニアに出現しました。

また、イタリアからはじまった〈ルネサンス〉がポーランドにも到来!このころ、世界的に名高い存在となっていたポーランドの〈クラクフ大学〉を卒業したある天文学者が世界の認識を転回させました。
ニコラウス・コペルニクス。
ポーランド出身の驚異の天文学者は、地動説を提唱して「コペルニクス的転回」を起こしたのです。
彼はユーロ通過以前に使われていた100ズウォティ紙幣の肖像画にもなっています。

度重なる戦乱、20年に渡る〈大洪水時代〉……

1683年、オスマン・トルコ帝国はついにオーストリアの首都・ウィーンまで迫り来たります。
恐怖の〈ウィーン包囲〉を打ち破ったのは、ポーランド・リトアニアでした。
この頃までがポーランド・リトアニアのピーク。
一方でポーランド・リトアニアは度重なる戦乱で弱体化をはじめました。

20年におよんでポーランド・リトアニアが行った軍事行動は〈大洪水時代〉と呼ばれます。
スウェーデン、ロシア、タタール人など隣接する諸国と衝突します。
とくにスウェーデンとは300年に渡って戦争を繰り広げ、収束を見たのは18世紀です。
さらには16世紀後半からリトアニアにロシアが戦争をしかけてくるようになりました。
〈大洪水時代〉に失われた命は、国の人口の3分の1にもおよびます。
また荒んだ世相は、多民族・多宗教国家ポーランド・リトアニアの寛容性を失わせていきました。

戦争で弱りきったポーランド。
18世紀、ついに国を失う危機におちいります。
次の章で見ていきましょう。

分割の時代――苦難のはじまり

分割の時代――苦難のはじまり

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弱体化が進んだポーランド。
ポーランドにとって運の悪いことにロシア、プロイセン、オーストリアにはカリスマ指導者が君臨していました。
エカテリーナ大帝、フリードリヒ大王、マリア・テレジア息子たるヨーゼフ2世の3人。
「凍らない港とあたたかい土地」を求めて領土拡大に燃えるロシアのエカテリーナ大帝は動きだしました。
また数々の国難を乗りきったプロイセンのカリスマ・フリードリヒ大王はロシアが勢力を拡大しすぎるのをおそれて、お隣・オーストリアの神聖ローマ皇帝、マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世に「一緒に分割しないか」と持ちかけます。
ポーランド受難の歴史は幕を開きました。

カリスマ指導者による3分割

啓蒙君主制と皇帝の強い権力、そして歴代ロシア皇帝の中でも「大帝」と誉れたかいカリスマ女帝・エカテリーナ二世は、当時ヨーロッパでもっとも影響力のあった権力者の1人、プロイセンのフリードリヒ大王とともに、ポーランドにこのように言います「正教徒とプロテスタントの信徒にも政治の自由を認めるように」ロシアは正教徒、プロイセンはプロテスタントが主。
宗教を理由にした内政干渉は、やがて実際の政治統治にまでおよびます。

この時ポーランドにとって致命的だったのは、強い権力を持った王様がいなかったこと。
市民にある程度の自由を与えていた選挙王制は、王様に権力を持たせない政体でもありました。

イケイケのロシアはポーランドを全部ほしがります。
しかしポーランドをロシアの属領にされたら、プロイセンはモロにロシアと国境を接することに。
その脅威をおそれたフリードリヒ大王は、ヨーロッパの肝っ玉母さん・マリア・テレジアを母にもつヨーゼフ2世に「いっしょに分割しないか」と持ちかけます。
利害は一致。
ポーランドはほとんどなす術がありませんでした。

3度目の分割でポーランドは「滅亡」

第1回の分割で領土の3割を失ったポーランド。
大急ぎで国内の改革を実施します。
憲法を制定して立憲君主制をとるなど近代的な法整備がなされます……が、ここにまたエカテリーナ二世が介入。
フランス革命に恐々としていた当時の権力者たちの中でももっとも革命に警戒していたエカテリーナ二世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」として、ポーランドに軍隊を派遣して武力弾圧に乗りだします。
そこにプロイセンがさらに介入し、ロシアとプロイセンの二者によってポーランドは分割されてしまいました。
これが第2回ポーランド分割です。

かつてのポーランドを取り戻せ――ポーランドの人びとは立ちあがります。
ポーランド軍人・コシューシコの起こした独立を求める反乱を鎮圧すべく、ロシアはまたも軍隊を繰り出します。
今度は徹底していました。
「近隣3諸国が分割して領有すべきときがきた」と堂々と言い放ち、ロシア、プロイセン、オーストリアの3ヶ国で分割を決行。

その後ナポレオンが一時だけですがポーランドを国家として復興させていますが、ナポレオン戦争の事後処理、あの「会議は踊る」のウィーン会議でポーランドはまたも分割されるのです。
ポーランドは世界地図から姿を消してしまいました。

マリー・キュリー夫人という奇跡の女性

マリー・キュリー夫人という奇跡の女性

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ポーランド史に燦然(さんぜん)と輝く女性の名前、みなさんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?〈キュリー夫人〉です。
ここでは丸1章をさいて、このマリー・キュリー夫人をあつかいます。
彼女は夫のピエールとともに、史上はじめて放射性元素を発見。
ちなみに「放射能(Radioactivity)」という言葉は彼女の発案なんですよ。
夫とともに、キュリー夫妻は2度、ノーベル賞を受賞します。
常にポーランド人であることを忘れなかったマリー・キュリー。
人類史に大きな足跡を残したポーランドの誇る女性科学者を紹介させていただきます。

インテリ一家に生まれたマリー

1867年、のちにマリー・キュリーとして歴史に名を残す女性は、ポーランドの首都・ワルシャワに生まれます。
本名はマリア・クワォドフスカ(「マリー」はフランス語風の読みです)。
父親はポーランドの下級貴族で科学者。
母親も女学校を経営するというインテリ一家。
しかしポーランドの国民運動に参加した影響で、地位や財産を失います。
才媛のほまれたかい少女だったマリーは、義務教育を終え、勉学を進めるべく女性が学問をできる数少ない場である、パリのソルボンヌ大学に進みました。

パリでの生活は厳しいものでした。
食費がないため食事を削ったり、冬はあるだけの服をすべて着込んで寒さをしのいだり。
しかしすさまじい努力のすえに、ついに大学を卒業。
その後も屋根裏部屋での貧乏生活を続けるマリアのもとに、運命の男性があらわれます。

当時の世界超一流物理学者のフランス人・ピエール・キュリー。
ピエールは、マリーの頭脳と人柄、そして美貌に惚れこみ、自分の論文をプレゼントしたりして猛アタック。
2人は結婚、夫婦二人三脚の研究生活がはじまるのです。

放射線元素〈ポロニウム〉の発見

マリーとピエールのキュリー夫妻は、「ウランから出る、透明でエネルギー源不明の謎の光線」についての研究に着手します。
そう、「放射能」です。
1898年、研究の末、ウラン鉱石から夫妻は新しい放射性元素を発見します。
マリーは故郷ポーランドの名をとって〈ポロニウム〉と名付けました。
〈ポロニウム〉に続いて、同じく放射性元素〈ラジウム〉も発見されます。

1903年、キュリー夫妻にノーベル物理学賞が贈られます。
1906年、夫のピエールが馬車にひかれる事故で亡くなります。
悲しみとマスコミの執拗な誹謗中傷の中でキュリー夫人は精力的に研究を続けます。
1911年にはノーベル化学賞を受賞。

第一次世界大戦で、彼女は戦場の兵士たちのために、レントゲン撮影機能を備えた自動車で戦場の各地を飛び回ります。
1918年、大戦は終結。
この第一次世界大戦でドイツが敗北したことにより、マリーが念願だったポーランド独立が成し遂げられたのです。
女性蔑視の風潮が強い中、強い意志と夫への愛で研究を続けたマリー・キュリー。
その人生と姿は今なお光り輝く存在です。

ふたたび独立!

ふたたび独立!

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戦争の20世紀。
ポーランド独立運動がついに実を結びます。
123年の空白期間をおいて、世界の表舞台にポーランドという国が再登場しました。
1918年、第一次世界大戦が収束。
ドイツは敗北します。
また事実上の統治を行っていたロシアの最高権力者・ロマノフ王朝が1917年のロシア革命で滅亡。
オーストリアも広大な領土を解体され、ついにポーランドは独立を果たします。
そしてポーランドには、国を復活させる人材が生まれていました。
ユゼフ・ビウスツキ国家主席の独裁体制によって、ポーランドはもう一度よみがえるのです。
次のページでは『国家主席・ビウスツキの活躍』を掲載!
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