300年続いた長命王朝・ロマノフ朝

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名門貴族ミハイル・ロマノフによって1613年に開かれたロマノフ朝は、その300年の長い歴史の間にピョートル大帝やエカチェリーナ2世など、絶対的な力を持つ専制君主を輩出しました。
しかし王朝末期の19世紀になると、民衆の間に専制政治の打倒や農奴制廃止などの自由主義運動が高まっていきます。
これに対して過酷な弾圧を加えたために、革命思想はより高まっていくこととなり、ロマノフ朝の足元は揺らいでいったのです。
同時に周辺諸国との関係もそれほどうまくいかなくなっていました。
そんな中、1894年に即位したのが、今回ご紹介するニコライ2世でした。
この頃には自由主義者や社会主義者の活動が活発になっていましたが、それを王朝打倒へのきっかけとしたのが、1904年の日露戦争での実質的敗北だったんです。
民衆は立ち上がり、1905年に第1次ロシア革命が起きました。
これによって皇帝は国会開設を認め、絶対君主制から立憲君主制への移行を認めざるを得なくなったのです。
そして、1914年の第一次世界大戦でドイツに大敗したこともあり、戦時下の苦難に耐えられなくなった民衆が再び蜂起し、起きたのが第2次ロシア革命(三月革命)でした。
これはロマノフ朝に最後の一撃を与え、ついに王朝は倒れ、300年の歴史に終止符を打つこととなったのです。
その後樹立されたのは、史上初の社会主義国家となるソヴィエト連邦(ソ連)でした。
さて、ソ連政権下でニコライ2世の処遇はどうなったのでしょうか。
彼と家族の紹介と行く末について、見ていくことにしましょう。
ロマノフ朝のラストエンペラー・ニコライ2世

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ドイツのヴィルヘルム2世やイギリスのジョージ5世は従兄弟に当たります。
当時、ヨーロッパ諸国の宮廷の間で国際結婚することはよくあることだったので、血のつながりはかなりあったんですよ。
ちなみに、ジョージ5世とは瓜二つと言われるほどよく似ていたそうです。
実はニコライ2世、訪日したこともあるんですよ。
1891年(明治24年)、長崎や鹿児島、神戸、京都を歴訪した彼ですが、滋賀県の大津で日本人巡査にサーベルで斬りかかられ(大津事件)、負傷してしまったんです。
日本側の対応もあって、日露関係にヒビが入るようなことはありませんでしたが、ニコライ2世の日本への心証はとても悪くなってしまいました。
これが、後の日露戦争の要因になったとも言われています。
帰国後、父の死に伴い、26歳で皇帝の座に即位した彼は、自由主義や民主主義の風潮に逆行し、専制政治の強化を始めます。
というのも、祖父アレクサンドル2世が暗殺されており、その無残な遺体を目にしたことから、その決意を胸に秘めていたとも言われているからなんです。
反動化と戦争敗北、高まる民衆の不満

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同時期、戦時下の苦境を皇帝に訴えるべく、民衆が首都サンクトペテルブルクへ請願に向かいましたが、これに対して兵隊が発砲し惨殺したことで(血の日曜日事件)、それまで皇帝を崇拝していた民衆は、一転、ニコライ2世に対して不満を持つようになっていくんです。
その後、1914年に起きた第一次世界大戦では、ドイツ軍に相次ぐ大敗を喫して帝国の威信を地に落としてしまいました。
それでもニコライ2世は当時そばに置くようになったラスプーチンばかりを重用し、孤立していったんです。
皇帝夫妻の評判を落とした妖僧ラスプーチン

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その時招かれたのが、「自称」祈祷僧・ラスプーチンという男だったんです。
彼が祈ると病状が好転したので、特にアレクサンドラ皇后が盲目的に彼を信用するようになり、皇帝もそれに引きずられて彼を重用するようになりました。
そして、ラスプーチンが政治に口を出すのを黙認するようになってしまったんですよ。
1916年にラスプーチンが暗殺されるまで、この状態は続いたんです。
そのため、皇帝と皇后の評判はどんどん悪くなってしまいました。
民衆が蜂起し皇帝の座を追われる

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日露戦争の頃からたまっていた王朝への不満はついに爆発し、人々は蜂起して革命を起こしたんです。
これが第2次ロシア革命(三月革命)で、ニコライ2世は退位を余儀なくされ、臨時政府が樹立、やがてソヴィエト政府ができ上がったんですね。
その後、ニコライ2世は皇后や5人の子供たちとシベリア西部のトボリスクへ流され、さらに僻地のエカテリンブルクへ移動させられます。
これは、表向きは皇帝一家の安全のためとされていましたが、実際は、密かに彼らを抹殺するためだったんです。
皇帝抹殺を命じた政府

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そんな中、ソヴィエトは、白軍がニコライ2世を担ぎ出すのを恐れて殺害命令を下したんです。
エカテリンブルクに移動させられ、商人の館だったイパチェフ館に幽閉されたニコライ2世一家は、約2ヶ月後の1918年7月17日未明、側近らも含めてみな銃殺されました。
容赦ない殺し方は、残酷以外の何物でもありませんでした。
ニコライ2世の皇后・アレクサンドラ

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母がイギリスのヴィクトリア女王の娘だったこともあり、幼い頃からイギリスで女王に育てられていました。
そして1894年、宗派の違い(ロシアはロシア正教、イギリスはプロテスタント)を乗り越えて、ロシア正教に改宗し、彼女に一目ぼれしていたニコライ2世と結婚します。
女の子ばかりが4人生まれ、最後に待望の男子・アレクセイが生まれました。
しかしアレクセイが血友病を持っていたため、治療に奔走しているうちにラスプーチンを信奉するようになってしまいます。
これが政治の混乱を招くことになってしまいました。
そして革命が起きて王朝が倒れ、ニコライ2世が退位すると、共にトボリスクへ流されます。
それからイパチェフ館にて家族と銃殺に処せられました。
看護師の資格を持っていた皇后は、第一次大戦では負傷兵の看護にも当たりました。
良妻賢母でしたが、内気であまり社交的でなかったため、国民からは人気がなかったそうです。