【ロシア革命とは?】「戦争はもうたくさんだ!」との民衆の声からはじまった、ロシア革命の歴史とその背景

第一次世界大戦から、民衆が立ち上がり戦争から革命へと発展したロシア革命。20世紀にはアメリカと並び、前途有望な大国として台頭した、ロシアで起こった革命ってどんなものか気になりませんか?今回は、ロシア革命の歴史について少しだけ紐解いてみたいと思います。

第1次、第2次ロシア革命とは?

第1次、第2次ロシア革命とは?

image by iStockphoto

実はロシア革命には1次と2次の2回の革命があります。
冒頭でお話ししたのは第2次ロシア革命です。
その前に、帝政ロシアを終わらせた人民革命の1次革命がありました。
この1次革命は、「血の日曜日」と呼ばれる事件を契機に、1905年に始まった革命を第1次、その後たった17年に起こった二月と十月の革命を、第2次に区別することが多いようです。

この二つの革命は、1000年も続いた帝政ロシアを一瞬で崩壊させ、世界初の社会主義政権を樹立したことも、大変大きな功績といえます。
ロシア革命を成功に導いたフリーメーソンの陰謀だという意見もあれば、ニコライ2世を打倒し、レーニンを指示した、ヨーロッパの大国たちの陰謀だとの説まで出ています。

第一次ロシア革命の発端

第一次ロシア革命の発端

image by iStockphoto

1905年の第一次革命が起こったころのロシアは、1885年から年平均5%の成長を続けており、日本のバブリーな時代を思わせる成長ぶりでした。
穀物の生産と輸出、石油の生産量も倍増するなどその勢いはどこまでも止まらないといわれるほど。

1905年1月に、血の日曜日と呼ばれる事件が起こったのです。
神父ガポンがつくったガポン組合というガポンが労働組合に入っていた4人の労働者が、たわいもないことで解雇され全市ストライキに入ったことが発端でした。
労働者たちに、体制の改善や、日露戦争の中止、税制改革や基本的人権の付与などを皇帝に直訴しようと呼びかけたのです。

来てしまった運命の1月9日

来てしまった運命の1月9日

image by iStockphoto

司祭ガポンに率いられた労働者やその家族が、皇帝に請願書を手渡そうとイコンを掲げてデモを行いました。
皇帝がいるはずの冬宮殿までの道のりは、総数6~7万の人々で埋め尽くされました。
このデモ行動に対しニコラス2世は、軍隊に発砲させるなど冷酷無残なやり方で解決させたのです。
公式発表では死亡者100人との発表でしたが、実は、4000人を上ったといわれています。

血の日曜日が起こった時、皇帝は離宮にてお茶を飲んで寛いでいたとか。
この事件は、皇帝の信頼を失墜させるものとなり、市民の憤激を増長させるものとなりました。
全国民に道場と抗議のストが広がってしまったのです。
1ヶ月の間に44万人もがストに参加し、支配下にあったポーランドやフィンランドでは独立の声が高まりました。
これにより、農民までもが抗議行動を起こし始めました。
これが、第一次革命です。
内相を更迭することで事態を収拾しようと試みましたが、もはや沈静化することは叶いませんでした。

十月宣言の受諾

十月宣言の受諾

image by iStockphoto

戦争が終わっても革命的な動きは止まらず、10月には全国鉄道ゼネストが発生しました。
日露戦争も芳しくなくロシアはポーツマス条約を締結するしか仕方ありませんでした。
ポーツマス条約締結時には、自由主義的政治家ウィッテはニコライ2世に迫り、基本的人権の付与と立法議会(ドゥーマ)の開設を掲げた、「十月宣言」を提出させました。

各地でソビエト(労働者の代表機関)が組織され活動するも、「十月宣言」で満足し政府側に多くの資本家が回りました。
その後は、活動家が逮捕されるなど、弾圧が続き革命感情は息を潜めました。
首相となったウィッテのもとで憲法が制定されています。
しかし、保守派と対立し失脚、保守派のストルイピンが首相となりました。







第一次世界大戦の勃発

第一次世界大戦の勃発

image by iStockphoto

世界中の人ってどうして戦争が好きなんでしょう。
第一次世界大戦が起こり長期化しました。
世界大戦は総力戦で、勝手は許されず、経済力、国力、全国民を動員しての戦いでした。
でも、内政がうまくいっていなかったロシアは、屋台骨が弱く早々に脱落したのです。

でも、戦争のしわ寄せは弱いところに真っ先に影響します。
食料難、燃料難が特に深刻になった時、「戦争はもうたくさんだ!」と市民は立ち上がったのです。
2月23日に二月革命が勃発しました。

5日間の栄光!二月革命

5日間の栄光!二月革命

image by iStockphoto

何の意味もなく自然発生した革命が、二月革命といえるでしょう。
戦争などの影響で、パンは5倍、バターは8.3倍に跳ね上がりました。
これに怒った女性たちは、パンの不足に抗議のストライキ。
以前からたまっていた鬱憤も爆発!「パンをよこせ!」、「皇帝を倒せ!」と、デモ行進をしました。

ネヴァ川を渡ってきた男性労働者がデモに参入、高級住宅街の店が襲撃されました。
パンと皇帝の他にも「戦争をやめろ!」の声も上がりました。
この状態を軽く見ていたロシア政府は、数百トンのパンを与えたら終わるだろうとみていました。
デモの指導者「アレクサンドル・シリャプニコフ」も、この時点では同じ考えでした。
でも、政府はパンの一切れも与えず、それどころか機関銃を持ってきた、警察と軍隊が一斉射撃を浴びせたのです。
これに、150人以上の人々が殺されました。
これに意気消沈した市民はいったん解散しました。

二月革命の決着の時

二月革命の決着の時

image by iStockphoto

2月27日の早朝には、9割がた成し遂げられていたが、全く目的を達してないと思いこんでいたのです。
その内軍隊が市民側に合流し、兵器廠を襲い10万丁近くの銃を手に入れました。
駅や郵便教区を占領し、最後まで政府についていた警察との戦いになりました。

民衆はこの時は既に、革命兵士となっていたのです。
まず、政治犯の監獄のペトロパブロフスク要塞を攻撃。
ここから次々と他の監獄に行き、昨日逮捕された人々を解放していったのです。
臨時政府を樹立し、「8000人もの囚人を牢獄から出した民衆の勢いは止められない」と、ニコライ2世を退位させることに成功。
ロシア帝国(ロマノフ王朝)は終焉となり、二月革命は、民衆の勝利で終わりました。

次のページでは『臨時政府に期待をかける市民』を掲載!
次のページを読む >>