【スコットランドに興味あるなら】世界遺産「エディンバラ」の観光前に知って起きたい昔と今

「エディンバラ」とはイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)を構成する4ヶ国『カントリー』であるスコットランドの首都の名前です。イングランドの首都ロンドンから約648km、車なら約7時間、ロンドンの空港から直行便に乗れば約1時間弱の距離にあり、イギリス・スコットランド旅行ではロンドンの次に多くの人が集まる人気の観光スポットとなっています。
スコットランドの東海岸、北海に面したフォース湾の先にはイギリスのエネルギー産業の基幹となっている北海油田があり、日本の石油会社も出資して採掘が行われています。
またスコットランドのエネルギーとして石炭があり、この石炭は18世紀後半から始まった『産業革命』で、イギリスの工業技術の発展に大きな影響をもたらしました。
そんな世界を変える革命の一端を担ったスコットランドの首都であるエディンバラは、スコットランドがイギリスの一部となるまでの憐憫な歴史とそれに負けない昂然とした現在に至るまでをご紹介します。

紀元前から続くスコットランドの歴史を紐解く

紀元前から続くスコットランドの歴史を紐解く

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スコッチウィスキーやタータンチェック、バグパイプにケルト文化が今も息づくスコットランドは、イギリスの一地域とするには濃厚で成熟した独自の文化が息づく、ロマン溢れる国です。

歴史好きだけでなくファンタジーが好きな人の心をぐっと掴んで離さない、スコットランドとはどのような成り立ちなのかを知れば、さらにその魅力の虜になることは間違いなしですよ。

北ヨーロッパの豊かな島国「グレートブリテン島」

北ヨーロッパの豊かな島国「グレートブリテン島」

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日本を中心とした世界地図で見ると左上にあるスコットランドは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの四つの「国」が集まった『グレートブリテン島』という島国です。

複数の地質がありその成り立ちは約5億4200万から約2億5100万年前の古生代に起こった地殻変動によってできた古期造山帯と呼ばれる古い大地でできていて、スコットランド北西部には地球の歴史の半分以上の月日を過ごした最古の岩石が見つかった地域の一つでもあります。

ブリテン島の特徴として、スコットランド南部イングランドの近くの広陵地帯の低地を『ローランド』北部の険しい山々が連なる高地を『ハイランド』と言い、それぞれで似て異なる文化が根付いています。

ちなみにエディンバラや人気都市のグラスゴーのあたりはローランド地方になり、日本でも一世を風靡した『ネス湖』のあるハイランド地方へエディンバラから行くツアーも人気です。

旧石器時代から続く人が暮らしたスコットランドの大地

旧石器時代から続く人が暮らしたスコットランドの大地

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そんな大地に一番最初にたどり着いた人類は旧石器時代、氷河期を生き延びた人類が獲物を追って辿り着いたのが始まりと考えられています。
しかし彼らは現在の私たち『ホモ・サピエンス』ではなく『ホモ・エレクトス』や歴史の教科書でお馴染みの『ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)』の原人で、旧石器時代の後期頃に『ホモ・サピエンス』が入植し、発展していったのです。

紀元前8500年頃の旧石器時代中期の狩猟や造船の遺跡がエディンバラから直通バスで約15分ほどの場所にある『クラモンド島』で発見されています。

普段は海に浮かぶ孤島ですが、干潮の時にだけ浅瀬が土手のように島へと延びて徒歩で渡ることができ、この土手道の東側に無数の巨石が垂直に建てられていて驚きますが、実はこの岩は第二次大戦中に敵潜水艦の侵入を防ぐための防壁で旧石器時代の遺跡ではありません。
しかし近代の遺物として必見の価値を感じるほどの迫力です。

新石器時代に大きく変化した生活とケルト文化の始まり

新石器時代に入るとそこで暮らす人々の生活は洞窟を家として狩猟を中心とした暮らしから、定住する家を建てて農耕や牧畜を行うという風に変化していきました。

このころの遺跡としてスコットランドの北部にあるオークニー諸島のにはスコットランドの最初の定住者であるピクト人(カレドニア人)や黒海を中心に北欧で勢力を誇ったヴァイキングの遺跡があり、巨石文化を象徴するような素朴ながら巨大で迫力のある建造物を見ることがきます。

ちなみにこのオークニー諸島には1999年に世界遺産に登録された紀元前3000年~3600年ごろの様々な遺跡群が残っており、北ヨーロッパ最古の遺跡である石造りの居住跡の『スカラ・ブレイ』や『メイズハウ墳墓』などがありますよ。

特にオークニー諸島のメインランドにはイギリスで三番目の大きさを誇るストーンヘンジ『リング・オブ・ブロッガー』や細長く高さのある『ストーンズ・オブ・ステネス』といった巨石群があり、幻想的な空間を感じられます。
このリング・オブ・ブロッガーは巨石文明の最初期のものらしく、天体観測に使われていたと考えられています。

この巨石文化から青銅器を使った周辺との交易により様々な文化が混じることでスコットランドは徐々に発展し一つの国へと成長していったのです。

このオークニー諸島へはエディンバラ空港からメインランドへの直通便が出ているので、観光プランの一つに加えてみてはいかがでしょうか。

放浪の民が持ち込んだ青銅器文化の発展によって生まれた交易

放浪の民が持ち込んだ青銅器文化の発展によって生まれた交易

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紀元前2600年から紀元前1900年ごろにかけてインドやヨーロッパ大陸から来た人々の持っていた青銅などの金属を加工する技術の伝来によって金属を使った農具が発達していくようになりました。

この鋳造技術を持ち込んだ人々は主な遺物が鐘状の金属製の器を多く残していることから彼らを『ビーカー人』その文化を『鐘状ビーカー文化』と呼んでいます。

スコットランドの先住民ケルト民族(ピクト人)と放浪の民であるビーカー人の人々との交流は部族や集落の単位だった生活と経済基盤を徐々に発展させ少しずつ原始的な生活様式から地域や国の基礎となる文化へと進化。
石材の加工や運搬方法の確立などが広まって様々な交流がも持たれるようになりました。
しかし時代が進み紀元前2000年から紀元前1650年の頃には『鐘状ビーカー文化』は廃れ『ウェセックス文化第I期』と呼ばれる時代へと推移していき、複数の部族や集落が共通した経済価値や宗教観が生まれていきます。

さらに紀元前1650年から紀元前1400年の頃は『ウェセックス文化第II期』と呼ばれ、この頃になると政治的な勢力図が出来上がるようになり、ヨーロッパ全体が盛んに交流と発展。
道具の加工技術もさることながら濃厚技術も発達し、広大な麦畑や畜産を行っていたそうです。
この頃になると『ウェセックス文化第I期』まで盛んだった巨石を使った文化は廃れ、小国間での鉱石資源を求める争いが増えていきました。

そんな長い時間をかけた時代の中でできた遺物がイングランドのソールズベリー近郊にある巨石文化の代表的な建造物である『ストーンヘンジ』で、ブリテン島各地で当時を生きた人々の今は消えてしまった文化の片鱗に触れることができます。







古代世界史の覇者「ローマ帝国」の侵攻

古代世界史の覇者「ローマ帝国」の侵攻

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古代ヨーロッパの歴史において最大の勢力を誇り今に通じるも様々な文化を生んだ『ローマ帝国』は、イタリア半島から生まれ地中海沿岸全域からシルクロードに渡りその支配力を誇った大国でした。

そんなローマ帝国の支配はブリテン島も当然及んでおり紀元前80年から85年にかけて侵攻され、その支配下に置かれるようになり、ピクト人はローマ帝国の言葉でカレドニア人と呼ばれるように。

『グラウピウス山の戦い』に残るようにブリテン島に住んでいたピクト人はローマ帝国に対して激しく抵抗し様々な戦略を練って捨て身の戦いを挑んでいきますが、残念ながらローマ軍の圧勝で終戦を迎えこれ以降ローマ帝国によって約300年に渡り支配をつづけました。
この当時にローマ帝国がピクト人からの侵攻を防ぐ為に作ったイングランドとスコットランドの境目にある『ハドリアヌスの長城』とスコットランドの中央にある『アントニヌスの長城』の二つの防塁が残っており2008年にユネスコの世界遺産に『ローマ帝国の国境線』の一つとして登録されています。

ちなみにこの『ハドリアヌスの長城』は完成した132年ころからローマ帝国の支配力が弱まる500年後半を経て1800年頃までイングランドとスコットランドの国境線として使われ、現在も二つの地域を分ける境界線として残っており、丘の間を縫って地平線へと延びる長大な遺跡を見る事ができますよ。

ローマ帝国の衰退と「アルバ王国」の成立

ブリテン島を支配したローマ帝国ですが、その支配は20年ほどだったと言います。
諸説ありますがブリテン島の気候がローマ人に合わないのと人口が少ないために税収率が悪く統治をしても国益へと繋がらなかったのではないかという説があります。

地中海気候の温暖なローマの人々にとって日照時間も短く寒い、ついでにあまり晴れないブリテン島の気候が肌に合わなかったというのも頷けますね。

395年に宗教と政治の対立から東西にローマ帝国は分裂し、各地への影響力は弱まっていきます。
その後410年頃にはローマ帝国の影響は全くなくなり、ブリテン島は複数の小国へと分裂していきました。

その後500年ごろにアイルランドから渡ってきたケルト系移民のスコット人である「ファーガス・モー・マク・エルク」(生没年不詳)と二人の弟(もしくは異母兄弟)である「ローン」と「オーンガス」(共に生没年不詳)がスコットランド西部にあるキンタイア半島に上陸し、現在の行政区画の『アーガイル・アンド・ビュート』にある小さな『アド川』のほとりに『ダルリアダ王国』を樹立し600年ごろには北アイルランドまでを統治下に置いていました。
ダルリアダ王国の首都『ダナト』があった場所は『ダンアドヒルフォート』という小高い丘として残っており、鉄器時代であったこともあり様々な彫刻が残されています。

このダルリアダ王国の少し前にカレドニア人によって『アルバ王国』がスコットランドの東側に建国されており、この2か国は激しい紛争を続けていましたが846年ごろにダルリアダ王国の「ケネス1世」(810年~858年)によって統合され、アルバ王国の首都『スクーン』を引き継いでその後の『スコットランド王国』の元を作りました。

このアルバ王国の統一後の凄惨な王位争いやそれに関係する人々を背景に描かれたのが「シェイクスピア」の四大悲劇の一つ『マクベス』であり、スコットランドの王「マクベタッド・マク・フィンレック(マクベス)」(1005年~1057年)をモデルとしているのは有名は話しです。

スコットランド王国とイングランド王国

スコットランド王国とイングランド王国

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マクベス王以降に取り入れられてきたキリスト教の影響とフランスやイングランドからの移民によって教会組織が作られケルト文化から徐々にキリスト教を基礎としたヨーロッパ的な封建社会へと発展していきます。
廃れていく古い文化と率先して取り入れられる先進文化の軋轢はハイランドとローランドの文化的な格差や差別なども生まれます。

戦争の絶えない時代だったこともあり、スコットランドの玉座も平和的な譲位とは言えない暗殺と陰謀によって多くの王が斃れては即位するを繰り返していたのです。

そんな頃にイングランドは何度も繰り返しスコットランドへの侵攻を繰り返し、フランスとの同盟を強化してはこれを撃退する事が何度もあり、エディンバラ城はその防衛拠点としてより堅牢に強化されていきました。

スコットランド王「アレグザンダー2世」(1189年~1249年)がイングランドの王女と結婚することで1236年のヨーク条約により不明確だったイングランドとスコットランドの国境を明確にし、息子の「アレグザンダー3世」(1241年~1286年)の代になると国内の平定と共にノルウェーへの進軍を行っていきます。

その後「アレグザンダー3世」の唯一生き残っていた直系の孫娘でノルウェー王家の血を引く「マルグレーテ王女」(1283年~1290年)が「マーガレット女王」として即位しますが、当時まだ3歳であったために父親のノルウェー王「エイリーク2世」(1268年~1299年)の元にとどめ置かれました。

この間にスコットランドは重鎮たちの合議制によって運営されていましたが、権力争いに発展し混迷を極める中、目をつけたのがヨーク条約によって宗主国となっていたイングランド王「エドワード1世」(1239年~1307年)です。
自分の息子とマーガレット女王との婚約を結びスコットランドの併合を画策しますが、残念ながらマーガレット女王は7歳にして崩御してしまいます。

その後様々な人が自分こそが正統な王の血筋だと名乗りを上げては争うようになり、内乱を恐れたスコットランド諸侯の嘆願によってエドワード1世が調停を行う事になりました。
ここを好機と見たエドワード1世により「ジョン・ベイリャル」(1249年~1314年)を王に指名し実質的な傀儡政権を樹立させたのです。

二度にわたるスコットランド独立戦争

傀儡政権によってイングランドの圧政に不満を持っていたスコットランドの人々は、1297年5月に起きた事件をきっかけに第一次スコットランド独立戦争へと発展させていきます。

この独立戦争のきっかけと中心となった「ウィリアム・ウォレス」(1270年頃~1305年)は国民感情を高めて「エドワード1世」によるスコットランド統治の体制を時には戦いで、時には呼びかけで独立を促しますが1305年8月5日に仲間の裏切りにあいイングランドに捉えられ、同年8月23日に大逆者として残酷な方法で処刑されてました。
その凄惨な処刑方法には恐怖によって独立の機運を高めていた民衆を鎮める意図があったとされますが、明らかにやり過ぎな方法だったこともあり逆に独立への士気を高め鼓舞することになり、「エドワード1世」の統治を崩す事となったのです。
現在でも「ウィリアム・ウォレス」は愛国の指導者の英雄として慕われており、彼を題材としたハリウッド映画『ブレイブハート』は様々なアカデミー賞を受賞しており、「ウィリアム・ウォレス」を演じた「メル・ギブソン」を模した銅像がスコットランドのスターリング市に設置され、彼が使っていた剣が『ナショナル・ウォレス・モニュメント』に展示されています。

第二次スコットランド独立戦争は1329年にスコットランド王「ロバート1世」(1274年~1329年)が崩御しその長男「デイヴィッド2世」(1324年~1371年)がわずか5歳で即位したことで、様々な権力者たちの権謀術数が渦巻き混沌とした状況へと陥っていきます。
同時期にイングランドとフランスの間で百年戦争が勃発したのも、スコットランドの権力争いを混迷化させていく要因の一つであり、第一次スコットランド独立戦争の際に当時のローマ教皇へと送った書簡文『アーブロース宣言』による「スコットランドの王位に就く者は民衆からの指示が必要」「イングランドに従属的な王は排する」という中世には珍しく王に権力が集中しない政治体制だった事も複雑になった一因と考えられます。

この頃イングランド王「エドワード3世」( 1312年~1377年)が戦死した事をきっかけに「デイヴィット2世」は王妃と共にフランスへ亡命。
彼と正統な王位を争っていた「エドワード・ベイリャル」(1282年~1364年)はイングランドへ逃亡と、スコットランドに王がいない状態となってしまい、「デイヴィット2世」の甥である「ロバート・スチュアート」( 1316年~1390年)が摂政として国を支える事になったのです。

1371年に「デイヴィット2世」が死去すると「ロバート・スチュアート」が即位し『スチュアート朝』を開き最後の王である「アン女王」(1665年~1714年)まで続く王朝となりました。

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