【野球の歴史】国民的人気スポーツ・野球が歩んできた歴史とは?

日本に伝わってから200年以上の歴史が経ち、現在では国民的人気スポーツの1つになった「野球」。現在では春夏の「高等学校野球選手権大会」や大学野球、プロ野球、海外の「メジャーリーグ」などさまざまな形で観戦、プレーが楽しめるようになりましたが、その野球はここまでどのような歴史をたどってきたのでしょうか。今回は歴史や人物、関係スポットを見てみましょう。






野球の誕生・ルール確立まで

先行人類の時代に始まっていた

先行人類の時代に始まっていた

image by PIXTA / 31095877

野球の歴史ははるか昔、先行人類の時代には始まっていたとされています。
この時代の人々は足の速い動物を仕留めるために石を投げていたとされ、アフリカ地中海沿岸地域からは当時使用していたとされる石が多数発見。
当時の石は現在の野球ボールと同じ大きさの石を使用していたとされ、この大きさの石が使用されたのは命中率、威力を兼ね備えたちょうどいい大きさであったためとのこと。
人類が生活するために生み出されたのですね。

その後古代エジプトなどでは王が棒で打った球の飛び方で「農作物の出来を占う」占いが流行。
先行人類の時代でもそうですが、この頃も「遊び」というより「自分たちの生活を占う」重要なものであったわけですから、現代の野球とは見る目的が全く違っていますね。

ヨーロッパで生み出されるスポーツ

ヨーロッパで生み出されるスポーツ

image by PIXTA / 17475606

時代が進み12世紀頃になると、ヨーロッパで野球につながる新たなスポーツが生み出されます。
12世紀頃のフランスで生み出された「ラ・シュール」というスポーツはあらゆる球技の起源とされるスポーツで、2チームで足や手、棒などを使い敵陣にある2本の杭の間にボールを通すゲーム。
当時は非常に人気の高いスポーツでしたが、一方で死傷者が出ることもあったとされています。
足や手が出るわけですから「格闘技」のようなイメージもできますね。

この「ラ・シュール」はイギリスに渡ると牛や豚の直腸、膀胱を使ったボールを敵陣内のゴールまで運ぶ「ストリート・フットボール」に発展。
その後は石に草の茎、糸を巻き付けて作ったボールを使うスポーツが流行し、「ラウンダーズ」、「ワン・オールド・キャット」といった名前を付けて発展。
前者は小石を詰めた靴下などのボールを打者が船の艪(ろ)などのバットで打ち返すもの、後者は打者が棒で打った打球をノーバウンドまたはワンバウンドで捕球した者が次の打者になるものでした。
当時の人々は周りにある物を利用、工夫しながらスポーツを発展させていたのですね。

こうしたスポーツはルールを変えて遊ばれて、「投手が打者に投球、打者は打ち返す」「フィールドにいる野手が打球を捕球、打者走者にぶつければ打者アウト」「走者が4つの塁をすべて回って本塁に帰れば得点」といったルールが見えるように。
明確なルールはないものの、現代のルールとほぼ変わらなくなってきました。

アメリカへ・野球の基本ルール確立

アメリカへ・野球の基本ルール確立

image by PIXTA / 16901196

少しずつ現代のようなルールが見えてきた中、1800年代に入るとアメリカに「ラウンダーズ」が渡ってきます。
1834年にアメリカで発行された『スポーツの本』という本で「ラウンダーズ」が「ベースボール」として紹介。
その後1842年に入るとニューヨーク・マンハッタンでボランティア消防団を創設したアレクサンダー・カートライトが団員の結束強化、運動不足解消をねらいとして消防団からメンバーを募ったスポーツ団「ニューヨーク・ニッカーボッカーズ」を発足。

スポーツ団を発足したカートライトが次に乗り出したのが「明確なルールの確立」でした。
この頃はまだ明確なルールが決まっておらず、時によってルールが変更されることもあり、カートライトはそれ解消しようとしたのです。
ルールが毎回変更されていては混乱してしまいますからね。
ルール確立を狙ったカートライトは団員と議論しながら意見をまとめ 、1845年に新たなゲーム案をまとめることに。

ここで策定されたルールは「チーム人数を攻撃、守備ともに9人。
一方のチームは攻撃中、もう一方は全員フィールドに散らばり守備。」という人数ルール、アウトルールでは「打者が3球空振り、最後の球を捕手が捕球したとき。
打球がノーバウンドまたはワンバウンドで捕球されたとき。
3アウトで攻守交代。」など。

ここに「21点先取したチームが勝ち」であることも明記され、1846年6月19日にはニュージャージー州・ホーボーケンでニッカーボッカーズとニューヨーク・ナインによる最初のベースボールの試合が開催。
ニッカーボッカーズは1-23と大敗しますが、この日は野球の基本ルールで初めて試合が行われた「ベースボール記念日」と呼ばれるように。







繰り返されるルールの変更

繰り返されるルールの変更

image by PIXTA / 1338241

野球のルールはカートライトによって確立された後も、「試合時間の短縮化」や「試合のスリリング化」を目指して細かな変更を繰り返してきました。
試合進行については「21点先取制」では時間が長引いてしまうとの理由から1857年に「9回終了時に多くの得点を奪ったチームを勝ち」とするルールに変更、守備でも1864年に「ノーバウンド時のみアウト」へ変更されます。

投球についてもルール確立当初は「投球は下手投げのみ」「打者は投手にコース指定が可能」が存在してましたが変更。
投球方法が限定されるうえに打者からコース指定されては、打者が「打ち放題」になることもあり得ますよね。

出塁では1879年に「9ボール」で一塁へ出塁と定められてから1880年には「8ボール」、1882年に「7ボール」と減らしていき、1889年には現在見られる「4ボール(フォアボール)」に。
最初のルールでは投手が8つまで「ボール」を投げても出塁を許さないものですから、明らかな投手有利になってしまいますからね。

日本に伝わる野球

野球を日本へ伝えた人物

野球を日本へ伝えた人物

image by PIXTA / 7519995

古代から始まりその後ヨーロッパ、アメリカと渡ってきた野球は明治時代に日本へとやってきました。
日本で野球を最初に教えたとされているのが、1871年(明治4年)に来日したアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンで、当時の東京開成学校予科(その後の旧制第一高等学校、現在の東京大学)で生徒に野球を伝えると野球人気は日本全国へと広まることに。
ウィルソンは2003年(平成15年)に野球を日本に伝えた功績を称えられ「日本野球殿堂」入りを果たすことに。
日本に野球を伝えたのは教育に関わる人物であったのです。

その後1878年(明治11年)には平岡ひろし(日本初の民間鉄道車両メーカー・平岡工場の設立に携わった人物)が日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立、4年後には駒場農学校(現在の東京大学農学部にあたる)と日本初の対抗戦を実施。
1896年(明治29年)には青井鉞男が投手を務めた「旧制一高ベースボール部」と「横浜外人クラブ(現在の横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)」が横浜外人居留地運動場(現在の横浜公園)で対戦、旧制一高が29対4で大勝。
日本でも野球人気は高まる一方でした。

次のページでは『人気高まる中での「野球害毒論」』を掲載!
次のページを読む >>
Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方
苦節55年!?日本を代表する近代建築・国会議事堂は誰が建てた?
落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?
秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ
公家趣味が彼を滅亡に追い込んだ?大内義隆を殺したのは、かつての愛人だった…!?