日本・ソ連間の軍事衝突「ノモンハン事件」が発生した「日ソ国境紛争」の流れとは?

1930年代後半に日本・ソ連(ソビエト連邦)の間で発生した「日ソ国境紛争」。この国境紛争は途中期間にさまざまな事件も発生し、2次にわたる「ノモンハン事件」に発展・終結を迎えるまで続くことになりました。それではそんな「日ソ国境紛争」の間にはどのような事件が発生し、どのような歴史をたどったのでしょうか。

紛争の始まり・満州国成立

紛争の始まり・満州国成立

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日本とソ連(ソビエト連邦)が対峙するようになったのは1931年の「満州事変」から。
事変勃発から翌1932年9月15日には日本・満洲国の2国間で「日満議定書」が調印。
事変によって成立した「満州国」はこの議定書により成文化され、議定書前文で「日本側の既得権益」が確認されるなど,満州国は完全に日本の支配下に。

満州国が成立するとモンゴル軍による不法行為、国境侵犯が続くようになり、1935年にはモンゴル・満州国の国境をめぐる「ハルハ廟(びょう)事件」が発生。
この事件で貝爾湖(ブイル湖)・オランガンガ哨所(しょうしょ。
歩哨(ほしょう)の詰めどころ)に出現したモンゴル兵が監視兵を撤退させ、ハルハ廟や付近の土地占領を実施。
これに対して興安軍(こうあんぐん)は事件調査のため指導官を現地派遣、1月24日に軍派遣部隊の中尉がハルハ廟に接近を試みた際にはモンゴル兵の射撃を受ける事態に。

北警備軍騎兵第七団はモンゴル兵に対して「国境外への撤退」を要求しますがモンゴル兵は応じず、日満部隊はハルハ廟を包囲してモンゴル兵を追放。
日満側は解決のために「満州里会議」開催を満蒙2国間で決定しますが、会議は成果のないまま決裂することに。
早いうちに戦いを止めておきたいところではありますが、そううまくはいきません。

1年経たずに再び事件

1年経たずに再び事件

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1935年の「ハルハ廟事件」から1年が経とうとした1935年12月19日、再び事件が発生することに。
この日「ボイル湖(モンゴル・ドルノド県と中華人民共和国・モンゴル自治区フルンボイル市の国境にある湖)」西の国境付近を警備していた満州国軍は湖の南西「オラホドガ」の南西にある「ジャミンホドック」に監視哨(かんししょう。
敵の動向を見守るために設ける場所)を設置しようと偵察隊を派遣すると、そこに外蒙軍が攻撃を実施。
これに警備軍も応戦したことから戦いに発展。
両軍とも兵力を増強しながら戦いは続き、最終的には満州国軍が国境を死守。

翌1936年になっても外蒙軍の攻撃は続き、1月7日には軽爆撃機による偵察と並行して小部隊を越境させるなど攻撃を続行。
1月22日には日本軍・満州国軍の共同警備部隊が外蒙軍と交戦し、2月12日には日本の関東軍が出動させた「杉本支隊(杉本泰男中佐を司令官とする)」が外蒙軍を撃破。
軍が打ち破った後も外蒙軍装甲車部隊による追撃は続きますがその後装甲車の鹵獲(ろかく。
相手の武器などを奪い、戦利品を獲ること)に成功。
互いに引きません。

戦いの間にもソ連との国境に近い満州国密山県(現在の中国黒竜江省・鶏西市(けいせいし)にある密山市)の「金廠溝(きんしょうこう)」において満州国軍兵ら108人が日本人幹部を殺害後にソ連領へ向かう「金廠溝事件(きんしょうこうじけん)」が発生。
その後も日本陸軍第3師団の一部、満州国軍の部隊が追跡中に射撃を受け戦闘に発展、2月1日にも前線視察中の日本軍とソ連兵間で銃撃戦になるなど戦闘は止まる気配を見せません。
戦いはいよいよこじれた感じになってきました。

戦闘の中で結ばれた「ソ蒙相互援助議定書」

戦闘の中で結ばれた「ソ蒙相互援助議定書」

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こうして戦闘が発生している1936年、ソビエト連邦とモンゴル人民共和国の間ではある条約が締結。
これが「ソ蒙相互援助議定書(ソもうそうごえんじょぎていしょ)」と呼ばれるものです。

1931年の満州事変後に「満州国」が建国されると、1932年の「日満議定書」で日本軍が満州国に駐屯することが決まり、日本の勢力圏はソ連の国境に接することに。
その後満・蒙国境を巡る事件が続いたことでソ連はこれらを「日本による対ソ攻撃の前兆」と捉え、モンゴルとの関係緊密化・軍事力強化へ向かおうとすることに。

その際にモンゴル首相のペルジディーン・ゲンデンは議定書に対して慎重な態度を見せ、1935年暮れの「スターリン・ゲンデン会談」でスターリンが「ソ連・モンゴル相互援助条約の批准」を要求しても応じないことから首相・外相職を追われることに。
反対派は早くつぶしておかないといけないのでしょう。
そして1936年3月12日モンゴル・ウランバートルにおいて「ソ蒙相互援助議定書」に署名することに。
こうして「日本・満州国を仮想敵国」とする体制が整うことになるのです。

議定書締結から17日後「タウラン事件」

議定書締結から17日後「タウラン事件」

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ソ連とモンゴルの間で「ソ蒙相互援助議定書」が締結されて17日後の1936年3月29日、日本・満州国と外蒙古の間で軍事紛争が発生。
この日「オラホドガ」の南西「タウラン」で日本軍・満州国軍の協同偵察部隊が自動車で行動していたところ外蒙軍機から攻撃を受け、乗っていたトラックが大破・鹵獲(ろかく)されることに。
どこから攻撃されるかわかりませんから恐ろしいことですね。

これに対し渋谷安秋(しぶややすあき)が指揮する「渋谷支隊」が部隊をタウラン地区偵察に出動させると、外蒙軍側と渋谷支隊が交戦。
このときの外蒙軍兵力は渋谷支隊より優勢であり、渋谷支隊・軽装甲車隊が湿地に落ち込んだところで包囲攻撃、この攻撃により平本鈴雄少尉は戦死。

これに日本軍側は輜重兵(しちょうへい。
輜重(しちょう。
軍隊において前線に輸送する軍需品の総称)の輸送を任務とした兵)などによる攻撃で応戦、4月1日に航空隊を出撃させると戦車軍への襲撃を敢行。
この事件で日本側は13人の戦死者を出すことに。

ソビエト軍が満州の人々を追い払う「乾岔子島事件」

ソビエト軍が満州の人々を追い払う「乾岔子島事件」

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次に大きな戦闘が発生するのは事件から1年後、1937年(昭和12年)6月19日でした。
この日満州国とソ連の国境付近「アムール川」下流にある乾岔子(かんちゃず)島・金阿穆河(ちんあむほう)島にソビエト軍が侵入満州の人々を追い払って占拠。
この地域を担当していた軍隊は「第一師団」でしたが、師団から連絡を受けた関東軍は武力行使を視野に入れ部隊派遣を決断。
しかしその後武力行使の中止を決断、6月29日にはマクシム・リトヴィノフ委員が両島から派遣部隊を撤退、付近にいるソビエト軍の引揚げに同意することに。

しかし現場の軍は撤退する様子を見せず、6月30日にはソビエトの砲艦が満州国領江岸にいた日本・満州国の兵に発砲したことで日本側も応戦、ソビエトの砲艇を撃墜することに。
ここで下がっては「国の威信にかかわる」ということを考えたのでしょうか。
これに対して不快感を示した日本政府はモスクワ・重光熏大使を通してソビエト当局に抗議を提出。
これは先にあった同意が「口だけ」と言われても仕方ありません。

最終的には7月2日に両島のソビエト哨兵、付近にいる砲兵隊、艦艇の撤収を命令。
4日までに大半が撤収するに至ります。

激しい総攻撃が展開「張鼓峰事件」

日本側・ソ連側で軍撤退に合意したあとも事件は終わることがありません。
1938年(昭和13年)7月9日にはソ連軍が満州国東南端・張鼓峰(ちょうこほう)の頂上に出現、陣地構築を開始。
ソ連軍は7月29日に張鼓峰の北・沙草峰にも陣地構築を試みようとします。

日本は重光葵大使を通じ撤退を要求させますがソ連は拒絶, 7月31日に第1沿岸軍に戦闘準備を命令すると8月1日からはソビエト軍航空隊も出動。
8月6日からはソ連軍による張鼓峰頂上付近総攻撃、沙草峰での攻撃も展開。

8月10日に重光大使が停戦を申し入れ、8月11日にモスクワでの停戦合意を経て交戦状態のまま停戦することに。
この戦闘で日本側は戦死526・負傷者914、ソ連側は戦死792・負傷者2,752と両国から死者が出ることに。
どちらも引かない状態が多くの犠牲を払うことになりました。

戦闘は本格化「第1次ノモンハン事件」

戦闘は本格化「第1次ノモンハン事件」

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激しい戦闘を繰り返した日本・ソ連間の戦いはいよいよ本格化することに。
1939年5月4日にハルハ川を越えた「バルシャガル」を偵察していたモンゴル兵を満洲国警察隊が発見、ここでモンゴル兵2名を逮捕すると5月10日にはハルハ河沿岸の満洲国警察隊にモンゴル側が発砲。
その後5月12日には越境したモンゴル軍の騎兵700が満洲国軍国境警備隊と交戦、5月20日に日本軍はハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜、その後自国主張の国境を越えて川西岸陣地にも攻撃を加えることに。

これに対してソ連軍は装甲車中隊などに進出命令、指揮官には狙撃兵大隊のブイコフ上級中尉が任命(ブイコフ支隊)。
5月19日に増援を受けたブイコフ支隊はハルハ河に向かい、5月23日にモンゴル軍第6騎兵団も加わるなど充実の戦力を揃えることに。
一方日本・満州側も総勢1,701人の日本軍、満州国軍騎兵464人の混成部隊を出撃させ応戦しますが、数としては2,300名を誇るソ連・モンゴル軍よりも少ない人数。
歩兵主体の日本は戦車・装甲車などの部隊を送ったソ連軍に苦戦、敗退したのち5月31日に撤収することに。

第1次ノモンハン事件が終わると、ソ連は戦車・飛行機を擁する部隊の投入を決め、モンゴルも共同部隊として騎兵二個師団投入へ。
日本側も7月2日に第23師団が攻撃を開始しますが、当時の日本は日中戦争の最中。
大本営は事件が戦争に広がることを避けたいため、事件を拡大させないように考えていました。
日中戦争以外に戦いを行うのは「国の負担が大きすぎる」でしょうからね。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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