【諸葛亮孔明】赤壁の戦い、天下三分の計、数々の発明…天才軍師の歴史ざっくり復習

中国は後漢(25年~220年)の時代、その末期に多くの英雄による戦いが繰り広げられました。そして魏・呉・蜀と3つの国が建国され、その歴史を三国志としてまとめられたのです。今回はその1つの国である蜀に仕えた「諸葛亮(しょかつりょう)」についてです。あらゆる書物では天才と記載され、諸国を放浪していた主君を、1国の王にさせた人物です。自ら君主になれる才能を持ちながらも、蜀王の臣下として一生を遂げた「諸葛亮」。その人物について簡単にまとめてみました。

伏龍・臥龍と呼ばれた男

後漢末期の争いごとに巻き込まれていた「諸葛亮」

後漢末期の争いごとに巻き込まれていた「諸葛亮」

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「諸葛亮」は181年、徐州琅邪郡陽都に戸籍が置かれていますが、出生地は不明。
字は孔明。
父は「諸葛珪(しょかつけい)」。
「諸葛珪」は、前漢の政治家であった「諸葛豊(しょかつほう)」の子孫であり、「諸葛珪」も泰山郡の副長官を務めた優れた人物であった。

しかし「諸葛亮」が幼い時に、父「諸葛珪」と母が亡くなり、苦難が訪れることになったのです。

父母とも亡くしてしまった「諸葛亮」は弟である「諸葛均(しょかつきん)」と共に、従父である「諸葛玄(しょかつげん)」に連れられ南方に移住、「諸葛玄」は「袁術(えんじゅつ)」により豫章太守に任命され安息の地を得ることに成功したかのように見えましたが、すぐさま後漢の朝廷から正式に豫章太守として来た「朱皓(しゅこう)」と争うことになってしまったのでした。
その間「諸葛亮」は「劉表(りゅうひょう)」の保護を受けるため、弟と荊州に移動。
しかし「諸葛玄」は勢力争いに敗れ、殺されてしまったのでした。

このような戦乱に巻き込まれたからか、その後「諸葛亮」は弟と共に荊州の奥地に住み、晴耕雨読の生活を送ることにしたのでした。

主君となる「劉備」

主君となる「劉備」

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「諸葛亮」がそのような生活を送っていた時、「劉表」を頼って落ち延びてきた人物が居ました。
その名は「劉備(りゅうび)」。
黄巾の乱から20年あまり、各地で戦果をあげながらも、自らの所領を獲得することができず、荊州に来たのでした。

「劉表」は「劉備」を可愛がり、新野城を与え、「劉備」もその期待に応えるように、対立していた「曹操(そうそう)」の軍を打ち破り、荊州侵攻を食い止めたりしたのでした。

しかし「劉備」が活躍すればするほど、猜疑心の強い「劉表」は「劉備」を疑うようになり、また「劉表」自身外征に消極的であったため、「曹操」を打ち破るという目標がある「劉備」と次第にすれ違うようになってしまったのです。

戦場を駆けずり回っていた「劉備」が、荊州は比較的平和なため馬に乗ることがなくなり、トイレに行った際に自分の太もも贅肉を見て、さらに年齢だけを重ねてしまい、何の功績も上げていないと涙したエピソードがありました。

「劉備」が「関羽(かんう)」や「張飛(ちょうひ)」といった豪傑を従えながらも、1国の主になることができないのは、戦略を組み立てたり、情勢を見抜く力に優れている軍師が居なかったからでした。

三顧の礼

三顧の礼

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軍師に据えることのできる人物を探していた「劉備」は一人の人物と出会ったのでした。
その人物は「徐庶(じょしょ)」といい、少し話しただけでその人物の聡明さに感服、軍師として採用し期待に応え活躍したのですが、敵である「曹操」は「徐庶」を味方に引き入れるべく、母を人質として捕えたのです。
母を捕えられた「徐庶」は助けるべく、泣く泣く「劉備」の元を去ることに、去り際に「諸葛亮」を推挙したのでした。

「劉備」は最初20歳近く年が下な上、天下に名がとどろいていない「諸葛亮」に対し、呼び寄せようとしましたが、「徐庶」に「諸葛亮」はこちらから会いに行けば会ってくれますが、連れてくることはできませんといわれたため、会いに行くことにしたのです。

しかも「劉備」が「諸葛亮」の元を訪れたのは一度のことではありませんでした。
一度目は不在、二度目も不在。
またいつ帰ってくるかは不明なため、次の日程の予定を立てることすらできないと留守を頼まれていた人物にいわれたのでした。
そのような中でも三度目の訪問をおこなった「劉備」はようやく会うことができたのです。
しかしその三度目も「諸葛亮」は昼寝をしていたようで、周りの者が起こそうとしたのですが、「劉備」は「諸葛亮」が目覚めるまで待っていたのでした。

「諸葛亮」は、無名の私にそこまでの行動をおこなってくれた「劉備」に感動し、策を授けたのです。
その策とは、北は「曹操」南は「孫権(そんけん)」が巨大な力を持っているため、いきなりは衝突することは避け、荊州・益州を領有し、その後に天下を争う天下三分の計でした。

この策を聞いた「劉備」はいたく感動し「諸葛亮」を軍師にスカウト、「諸葛亮」も「劉備」の人柄や度量に感動し、生涯仕えることを決意したのでした。

表舞台に突如現れた天才「諸葛亮」

表舞台に突如現れた天才「諸葛亮」

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突如表舞台に現れた「諸葛亮」が「劉備」の軍師として登場した時、荊州では激しいお家騒動がおこなわれていました。
「劉備」を保護していた「劉表」が不治の病に冒され、その跡継ぎ争いとして兄の「劉琦(りゅうき)」と弟の「劉琮(りゅうそう)」が争っていたのです。

形勢は「劉表」の正室の子であった「劉琮」が跡継ぎとなることがほぼ決定的になり、命までとられかねない状況になった「劉琦」は一つ計略を仕掛けたのでした。

天才と言われる「諸葛亮」の知恵を借りようと。
そのために「劉琦」は「諸葛亮」に助言を求めたのでした。

「諸葛亮」は「劉表」の跡継ぎ争いに「劉備」共々巻き込まれたら災難として今まで上手くかわしてきたのです。
しかし「劉琦」の必死の願いに心を打たれたのか、一つ方法を伝えたのでした。

それは昔中国の春秋時代の王である文公の故事を例に、「劉琦」に「劉表」の近くから離れるように勧めたのです。
そして行き先として江夏を勧め、そこで身の安全を守るようにと助言したのでした。

感服した「劉琦」はすぐさま「劉表」に「江夏の守りに就きます」と進言、受け入れられた「劉琦」は江夏の太守として「劉表」の元を離れ、身の安全の確保に成功したのでした。

主君を王とするために

最大のピンチであった長坂の戦い

最大のピンチであった長坂の戦い

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「劉琦」が江夏へ移動して間もなく「劉表」が亡くなったのです。
そしてすぐに「劉琮」が即位、ただ幼少だったため、実権は「劉琮」の母である「蔡氏(さいし)」とその弟である「蔡瑁(さいぼう)」が握ったのでした。

「劉表」死す。
その言葉を聞いたのは「曹操」も同じでした。
今がチャンスとばかり、大軍を率いて荊州に侵攻してきたのです。
そして「劉琮」一派には降伏を勧めたのでした。

寄せる「曹操」の大軍に「諸葛亮」は一計を案じ、見事撃退。
その作戦とは新野城を空城に見せかけ、いったん占領させ、油断したところを伏兵で攻撃させるものでした。
まんまと作戦を成功させた「諸葛亮」ですが、「曹操」の足止めくらいにしかならないと判断、「劉琮」の籠る襄陽城に退却、援軍を依頼したのでした。

しかし「曹操」と徹底抗戦を望む「劉備」と「劉琦」の意向は無視していた「劉琮」一派は先に「曹操」に降伏してしまい、襄陽城に近寄ってきた「劉備」に矢を射かけてきたのでした。

「劉琮」と「曹操」に挟み撃ちにされる形になってしまった「劉備」ですが、「諸葛亮」はすぐさま一計を案じたのです。

いったん主君は江陵をめざし、自身は江夏に籠る「劉琦」の援軍を連れてきますと。
そして自らは江夏を目指したのでした。

領民思いであった「劉備」の軍には、兵だけでなく新野城の民までがついてきました。
そのため行軍が遅く「曹操」軍による攻撃で大きな被害を受けたのでした。
その被害は「劉備」の妻や子たちが一度は「曹操」軍に捕らわれ、そして足手まといになることを恐れた「劉備」の妻が自殺するほどでした。
「劉備」の子は配下であった「趙雲(ちょううん)」の活躍により奪還することに成功しましたが、いつ殺されても問題ない状況でした。

何とか「曹操」の追撃をかわせた「劉備」の元に、「諸葛亮」が「劉琦」の軍を連れて戻ってきたのです。

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