もうすぐ公開!映画『関ヶ原』を見る前に、「日本のいちばん長い日、関ヶ原の戦い」をおさらいしませんか?

戦国時代を率いた名だたる大名が、東西に分かれ激闘を繰り広げた「天下分け目の関ヶ原」と称される、関ヶ原の戦いが8月26日より映画公開されます。これまでドラマはあったものの、戦いそのものを題材にした映画は初めてとか。今回は、関ヶ原の戦いでどんな駆け引きがあったかを、時系列を追ってご紹介したいと思います。

義と理を問う!映画『関ヶ原』の見どころ


映画『関ケ原』の題材は、約50年前に人気歴史小説作家の司馬遼太郎氏が執筆し、590万部を突破する超ベストセラーになった作品です。
このわずか6時間で日本の未来を決した「関ヶ原の戦い」を、原田眞人監督が、主人公石田三成に岡田准一、徳川家康に役所広司をキャスティングし映画化しました。

寺小姓だった石田三成の利発さを見抜き、自らの死後五奉行の一人になるまで育ててくれた豊臣秀吉への忠義と愚直なまでの性格が災いをもたらしてしまった運命や、その三成を陥れて天下取りの野望を現実のものとする徳川家康の人間模様も垣間見られます。
また、豊臣時代に起こったさまざまな出来事が、関ヶ原に発展させた史実も盛り込んでいるようです。
石田三成VS徳川家康と、彼らを取り巻く武将たちの一大スペクタルを体感できそうで楽しみな映画ですね。

西軍は負けるべくして負けた?

西軍は負けるべくして負けた?

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たった6時間で関ヶ原の合戦は、決着しました。
ドイツの戦略家メルケルは、関ヶ原合戦の朝における西軍東軍の配置を見て、「西軍必勝!」と述べたという説があります。
諸説ありますが、東軍の兵力は約7万4000人、一方西軍は8万人だったようです。

西軍の陣形は、三成自身に地の利があった事から、東軍を取り巻くように有利な高い場所に陣を敷くことができ「鶴翼」という形で配置していました。
関ヶ原に実際に行ってみると、東軍は関ケ原駅を中心に街中にほとんどの陣跡が集まっており、西軍はクマが出るような山の中に陣跡があります。

秀吉の死後の動き

秀吉の死後の動き

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関ケ原まで後760日の慶長3(1598)年8月18日に秀吉が死去しました。
その10日後には、三成とその同僚奉行衆の、増田長盛、前田玄以、毛利輝元などが、「豊臣秀頼を守りたてて行こう」と毛利文書を提出するなど、既に、色んな所で分裂と対立が始まっていました。
秀吉が生前決めた、五大老、五奉行の中でリーダーとなる人物が必要と、家康が選ばれましたが、奉行衆は許容できませんでした。

625日前には、秀吉の遺言により三成は淀殿(秀頼の母)の時期早々との反対を押し切り、秀頼を伏見から大阪城へ移しました。
これには、朝鮮出兵での論功行賞などでの大名による反発から秀頼を守るために、切れ者の三成が「今がその時」と判断したからでした。
これには、東国の家康と近しい大名を大阪城へ送り、西国の大名を伏見に残し家康を監視すると共に孤立させる狙いがありました。
しかし、家康は、五大老、五奉行のご法度を犯してまで行った婚姻などにより、益々力を付けます。

三成隠居から関ヶ原まで

三成隠居から関ヶ原まで

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婚姻などによる騒動は、一先ず家康が許しを請う事で一段落しました。
徳川家安泰のために奔走する家康に更に五奉行が反対策を講じたため、家康は徳川家を残すには、政治改革を推進し、反対派を強硬手段で排除するしかないと、策略を練るようになります。

関ヶ原まで後550日の時に、家康より年長で力を持っていた前田利家が亡くなりました。
その後、加藤清正ら武断派の7武将が三成の屋敷を襲撃しました。
三成は無事でしたが、これにより、豊臣政権の「武断派」と「文治派」の対立が露出したのです。
仲立ちに入る名目で、家康が介入し、まんまと三成を佐和山城へ隠居させました。

上杉討伐へと向かう家康と家康に挙兵を決意する三成

上杉討伐へと向かう家康と家康に挙兵を決意する三成

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会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて、上洛し弁明せよと要求。
景勝は応じず、家老の直江兼続に自分の思いを託しました。
兼続は「直江状」を送り、逆に家康を怒らせました。
激怒した家康は討伐を宣言したのです。
6月17日に家康は、大阪から上杉討伐に出かけました。
その時動いたのが、三成です。
機会を伺っていた三成は、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行に、家康の専横における糾弾文を7月16日に作成させました。

この時、上杉征伐に向かう途中に大谷吉継は、長年の友だった三成の隠居所を訪れました。
三成から家康を討つとの決意を聞いた吉継は、「挙兵は無謀だ!」と再三止めましたが、三成の意志は固かったのです。
それどころか、三成の秀吉への忠誠心に心打たれ、味方する事を決意。
大谷吉継は、家康とも仲が良かったため、かなり悩んだようです。
しかし、この時、既に三成が負ける事を予期していましたが、吉継自身が病に冒されており先は長くないと悟っていた事もあり参戦したとの説も残っています。

伏見城と岐阜城の陥落

伏見城と岐阜城の陥落

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上杉討伐に出かけていた、家康に三成挙兵との報告が入ったのは、7月23日の事でした。
上杉討伐を断念し、西軍を討つために引き返したのです。
しかし、既に伏見城は落城していました。
この時、関ヶ原まで後2ヶ月でした。
でも、伏見城は、秀吉が建てた難攻不落の城だったため、宇喜多秀家や小早川秀秋、毛利元就ら4万の兵に対して、鳥居元忠ら2000人しかいなかった城を落とすのに、10日以上かかってしまいました。

城が落ちたのは8月1日の事でした。
家康の本拠地伏見城を落とされた家康率いる東軍は、織田秀信の城を攻撃しました。
秀信にはわずか6000の兵力しかなく、籠城するのみでした。
残念な事に、岐阜城は8月23日14時ごろに東軍に明け渡されました。

関ヶ原の戦い前日に起こった杭瀬川の戦い

関ヶ原の戦い前日に起こった杭瀬川の戦い

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慶長5年9月14日に、家康が上杉討伐から引き返し美濃赤坂に着陣しました。
これは関ヶ原の前日の事です。
西軍は、家康が戻ってきた事を知らなかったため、一気に士気が下がりました。
これではまずいと、三成の片腕「島左近」が、杭瀬川の戦いを仕掛けます。

左近の演技交じりの戦略にまんまと乗ってしまった、東軍の中村一栄勢は一網打尽にされており、慌てた家康は本多忠勝に命じて、兵を引かせました。
もちろん、石田三成率いる西軍の士気はぐんぐん上がりました。

ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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