【長岡京の謎と歴史】わずか10年だけ存在した幻の都があった!

古代の都と聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、奈良の平城京や京都の平安京ぐらいでしょうか。教科書でもあまり記載がないのですが、飛鳥・奈良時代から平安時代までの歴史の中で、天皇が座し政治を行った都はいくつもありました。その中でも戦前は存在自体を疑われていた都のひとつが長岡京です。教科書でも一言程度しか記載のない「長岡京」。この都がどこにあって、いつの時代のものなのかをすぐに思いだせる方は少ないかもしれませんね。その存在すら知らない方も多いようです。
今回は奈良時代から平安時代の過渡期に存在した長岡京の疑問を紐解きながらその都の姿を見ていきましょう。

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長岡京ってどこにあるの?

長岡京ってどこにあるの?

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まず最初に長岡京はどこにあったのかを確認しましょう。

長岡京を造るのに選ばれたのは、京都の東を流れる宇治川と西を流れる桂川、そして木津川の河川が交わる場所の北側。

奈良の平城京から見て北北西、京都の平安京から見て南西の位置になります。

現在は阪急電車やJR東海の走る桂川の西の地域一帯に長岡京があった事が発掘調査で明らかになっています。

現在、その多くは市街地の下になっていますが、大極殿のあった場所は公園となっており、その姿の跡を偲ぶことができます。

長岡京の存在やその意義を覆す事になった発掘は戦後の1950年代になって本格的に始められました。

その発掘を始められた頃の考古学会では誰も興味を持ってる研究者は少なく、文献にはその名はあるが平安京へ遷都する前の仮宮や副都だとされており、歴史的に注目されていなかったようです。

この発掘のきっかけは長岡京市がまだ乙訓(おとくに)郡だった頃に、郡制が廃止になるのため、その歴史を記した乙訓郡史を作ろうとしたことから始まります。

担当したのは地元の小学校教師で地理歴史学者だった中山修一氏で、文献と街の道を調査し、長岡京の位置を仮定しました。

その仮説を実証するために発掘が始まったのです。

当時は戦後復興のために様々な場所で建設工事がはじまり、その過程で平城京や難波宮などの昔の都の姿が発掘されていました。

発掘すればするほど生まれる疑問

長岡京を造ったのは平安京を造り、それから長く続く事になる貴族政治と天皇制による治世の礎を築いた桓武天皇です。

私達の多くは奈良の平城京から京都の平安京へ遷都したと覚えているのではないかと思いますが、794年に平安京へ遷都する10年前の784年に長岡京へ遷都しています。

つまり日本の政治の中心は奈良から長岡を経て、京都へ動いたのです。

しかし、長岡京が都だった時代はたったの10年。

そんなに簡単に新しい都を捨ててまた新しい都を作るのはなんだか不自然ですよね。

古代のことですから、都を作るのに数か月では作れなかったでしょうし、費用もかかります。

そう考えていけばいくほど、この短い期間が元で様々な意見と疑問が生まれることになったのです。

ここで長岡京の疑問をいくつかピックアップしてみましょう。

第1の疑問・なぜ都を移したのか
第2の疑問・なぜこの場所に長岡京を造ったのか
第3の疑問・本当に都として作られたのか
第4の疑問・なぜ10年で平安京へ遷都したのか

これらを紐解くと歴史の中の長岡京が浮かび上がってきそうです。

第1の疑問・なぜ都を移したのか

第1の疑問・なぜ都を移したのか

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なぜ長岡京を造って遷都する必要があったのでしょうか。

まずは桓武天皇が即位するよりも前の飛鳥時代から平城京の時代をざっくりと振り返ってみましょう。

ずいぶんとさかのぼりますが、645年に中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿・蝦夷の暗殺事件が起こります。

これを「乙巳の変(おっしのへん)」といい、この後に「改新の詔」による大化改新が行われました。

内容はこれまでの主要な豪族氏一族で政治を支配することのないよう、官位や土地の所有などについての改革でした。

これにより、豪族たちの支配による政治ではなく、皇族中心の政治へと方向転換させたのです。

そして都は天皇によって難波、大津、飛鳥いった場所を転々とします。

壬申の乱の際には大津京から飛鳥の地にもどり、日本で初めての区画割りをした条坊制を敷いた都市である藤原京が作られました。

都があちこちに変わっていったことから、それだけ天皇中心の政治が落ち着かなかったことが分かります。

そして、中臣鎌足の子・不比等は徐々に皇室への姻戚関係を背景にその地位を高めていき、彼は天智天皇より賜った姓・藤原氏を名のる始祖となります。
藤原氏の台頭です。

激しい政権の奪い合いが繰り広げられた平城京

平城京へ移ったころから藤原氏と反藤原氏勢力の攻防が始まります。

まず、不比等が亡くなった後に政治の実権を握ったのは皇族の長屋王。

しかし、729年に長屋王の変により、長屋王が失脚。

代わって不比等の息子4人の藤原四子が政権を取ります。

この藤原四子は、後の藤原家四家(北家・南家・式家・京家)に分かれていくそれぞれの始祖となります。

その数年後、遣唐使が持ち帰ったといわれる天然痘により4人とも病死。
このことは長屋王の祟りとも言われました。

平城京の時代には天然痘が流行り、自然災害も多かったようで、その不安から仏教への信仰が篤くなっていきます。

そして不比等の娘の子・聖武天皇の時代、743年には東大寺建立の詔が布され、一気に仏教勢力が政治の世界に近づいてきます。

そんな中、元皇族の橘諸兄の政権がたち、それを藤原仲麻呂が政権をとり、その後には称徳天皇の庇護のもと権力を得た僧の道鏡が政治を行うようになります。

庇護者の称徳天皇が亡くなると道鏡は失脚。
代わって藤原式家が政権を握ります。

こうしてみると奈良時代の政治は藤原氏とその反対勢力の交代の歴史と言えます。

ここまで藤原氏と政権を奪い合っていたのは主に皇族の政権で、天智天皇の弟で壬申の乱で勝利した天武天皇の一族がでした。

称徳天皇が亡くなり、天武天皇の皇系は断絶。
その座は二転三転し、最も天皇の座から遠いと思われていた天智天皇の孫である光仁天皇に転がり込みます。

長岡京に遷都した桓武天皇の父親です。

光仁天皇が即位した当初には天武天皇の血筋を引く皇太子がいましたが、皇后・皇太子ともに相次いで廃位となり、山部王と呼ばれていた桓武天皇が皇太子となります。

その裏には式家の藤原百川の暗躍があったとも言われており、藤原氏の庇護があったと考えられます。

ここに天智天皇の皇系に政権が戻ったのです。

最大課題は仏教勢力からの離脱

さて、桓武天皇が即位した頃には疫病や自然災害のため、人身にすり寄る仏教勢力が強く、旧豪族と結びつき、政治へも影響するようになります。

この勢力から脱し元の貴族中心の政治にもどすことが大きな課題となっていました。

781年に即位し、まず2つの命令書が出されます。

1つは財政難を理由に新しい都を造ることはないため都を造る部署を撤廃します。

この3年後に長岡京へ遷都したため、この決定が後の研究者たちを混乱させることになります。

ついで、783年に都内に新しい私設の寺の造営を禁じます。

奈良には平城京を中心にたくさんの寺社が残されていますが、このいくつかは豪族や貴族たちが建てたものです。

これによって仏教勢力の拠点となる寺が増えないようにしています。

ここで誤解されるのが桓武天皇が仏教を禁止していたという点ですが、あくまでも政治に介入する仏教勢力を排除することが目的で、信仰などについて否定はしていません。

この2つからおそらく、桓武天皇は長岡京に遷都する前の布石を打ったと考えられます。

歴代の天皇は代が変わると遷都する事があったため、「新しい都は造らない」という姿勢を出すことで、反対勢力を油断させたのではないでしょうか。

そして、奈良には寺社が多すぎてこのままでは都は寺だらけになってしまうからこれ以上は造ることを禁じ、公が認めたものだけを建てると宣言します。

この命令書によって、都つまり平城京ではもちろん、その後の長岡京でも私設の寺社を建てることができなくなります。

実際、長岡京の遺構には寺社仏閣はありません。

この遷都前年に出された命令書ですから、このときには桓武天皇の中では長岡京への遷都が計画されていたのでしょう。

784年に遷都した翌年には、さらに僧尼の里舎への出入りを禁じます。
つまり僧尼が世俗の人間の家、檀家のような支援者の家に出入りすることを禁じたのです。

そうすることで遷都した長岡京へ仏教勢力が入り込めないようにしました。

そうまでして仏教勢力を排除したかった桓武天皇の意思を明確に感じることができますね。

なぜ都を移さなくてはならなかったのか。
それは反対勢力と仏教勢力を排除し、政治を安定させるためだったことが見えてきました。

第2の疑問・なぜこの場所に長岡京を造ったのか

第2の疑問・なぜこの場所に長岡京を造ったのか

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では続いて、長岡の地を新しい都として選んだのかを観ていきましょう。

おさらいですが、長岡京の場所は桂川と宇治川と木津川が合わさる場所の北側で、現在の桂川の西側でした。

この場所を選んだのには3つの理由があったと考えられています。

#1 旧勢力から距離がとれる!

1つ目は側近の藤原種継の地元であったことです。

種継からの強い推薦もあったことは想像できます。
種継が遷都の際に都造の責任者になったのには地元の者であったことが大きかったと考えられます。

そして、この地域には旧豪族の影響が少なく、帰化人達が多かったため、旧勢力との距離を取りたかった桓武天皇にとっては好都合でした。

また、藤原式家との結びつきもより強化されたことがはっきりとしてきます。

次のページでは『よりよくなった新規輸送ルートを活用できる!』を掲載!
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Writer:

旨いものとヨーロッパが大好きなアラフォー女子。背中に羽の生えたペガサスのようにジャンルを問わず様々なことに興味を持ってはアレコレと調べるクセがあります。 1人でも多くの方が、今まで見たことのない景色や面白さを感じていただけるような記事を書けるよう、精進の日々です。

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