江戸時代を代表する名俳人・小林一茶が歩んだ人生とは?

日本の江戸時代に登場し、俳句の説明に必ず登場することで知られる「小林一茶(こばやしいっさ)」。江戸時代を代表する俳人として活躍した彼が生涯で残した俳句の数は約2万区にものぼり、わかりやすく親しみやすい作風は「一茶調」と呼ばれることもあります。そんな独特な作品を数多く生み出した名俳人・小林一茶が歩んだ人生とはどのようなものであったのでしょうか。今回は生涯や残した俳句、ゆかりのスポットを見てみましょう。






一茶が送った生涯

一茶が送った生涯

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波乱は幼少期から始まる

小林一茶は1763年(宝暦13年)、北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農(ちゅうのう。
ある程度の領地を所有して農夫を使い、自身も耕作を行う農家)の長男として誕生。
3歳の時に母を亡くした一茶は8歳の時に継母を迎えますが、その継母にはなじむことができず。
14歳を迎えた1777年(安永6年)になると江戸に奉公(主人の家に住み込んで仕えること)へ出かけることになり家を去ることに。
新しい家族となじめなかった一茶は「家庭での居場所がなかった」と感じたのかもしれませんね。

その後奉公先を変えながら過ごした一茶は20歳の頃から俳句の道を目指すようになり、25歳の頃からは二六庵竹阿(にろくあんちくあ。
小林竹阿とも言う)、溝口素丸(みぞぐちそまる)、今日庵・森田元夢らに師事して俳句を学ぶように。
俳句を学ぶようになると「い橋・菊明・亜堂」といった俳号を名乗るようになり、やがて一茶の俳号を用いるようになります。

俳句活動の始まり

俳句を学んだ一茶は1791年(寛政3年)になると故郷へ帰郷、翌年から36歳まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊するように。
この頃は多くの俳人と知り合い、この頃交流した作品は句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版することに。

1801年(享和元年)に再び帰省すると病気を患った父の看病を行いますが、約病1ヶ月後に死去。
この頃は遺産相続をめぐって継母と争うようになり、この争いは12年間続くことに。
なじめなかった継母と争いになってしまっては、創作活動どころではありません。
こうした中でも一茶は創作活動を行い、父の発病から亡くなって初七日を迎えるまでの経緯は『父の終焉日記』として発表、これが私小説の先駆けに。

父の遺産争いについては1808年(文化5年)に進展が見られ、畑3反歩など遺産の半分を受け取ることに成功。
家族と争う形で得るのは不本意でしょうが、これは仕方ないですね。

家族との争い・名俳人へ・晩年

遺産争いに進展が見られた後の一茶は1812年(文化9年)に郷里・柏原村に戻ることに。
しかしここでも家族との遺産争いは終わることなく、1813年(文化10年)には弟との間に取り交わした「熟談書付」の事にある家屋敷分譲の実行、1807年(文化4年)以前の収入と利息を払うことを巡って激しい争いに。

その一方で俳人・夏目成美(なつめせいび)の句会に入って指導を受けたり房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導したりして生計を立てる生活を送り、俳人としての評価を高めていきます。
精神的には苦しい中であったかもしれませんが、その中でも創作意欲は衰えませんね。

激しい遺産争いを経た一茶はようやく家庭をもうけることになり、1814年(文化11年)に28歳の女性・きくと結婚。
きくとの間に3男1女をもうけますがいずれも幼くして他界、妻きくもその後37歳の若さで亡くなってしまいます。
妻を亡くした後の一茶は1人の女性を経て別の女性・やをと再婚、彼女との間には次女・やたが誕生(生まれたのは一茶の死後)。

そんな一茶でしたが1827年(文政10年)6月1日、柏原宿の大半を焼く火事に見舞われ、母屋を失うことに。
母屋を失った一茶は焼け残りの土蔵に移り住むこととなり、この年の11月19日に65歳で生涯を閉じることに。
俳人として高い評価を受けながら家族関係に恵まれなかった一茶の人生は、最後まで波乱続きのものでした。







50を過ぎてから派手な女性関係

50を過ぎてから派手な女性関係

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江戸時代を代表する俳人として活躍した一茶ですが、そんな一茶は歴代妻との関係で驚愕のエピソードを残しています。
50歳の時に最初に結婚した妻・きくとは毎日のように性行為に及んでいたとされており、日ごとの回数を記した記録の中には1日に昼夜で4回も行っていた日も。
一茶は50歳で結婚するまで女性との行為に及んだことがないと言われており、それまで溜まった欲望が年を重ねて爆発してしまったのでしょうかね。

それだけ激しい行為を毎日のように行っていたことから、体が耐えられなくなったきくは37歳で他界。
性行為のし過ぎから来る痛風が原因とも言われています。
その後62歳で2番目の妻・田中雪)を迎えながら半年で離婚。
64歳で3番目の妻・やをと結婚することに。

晩年から女性関係が派手になった一茶は脳卒中で半身不随になったり、言語症を起こしたりしても行為への意欲がとどまることはなく、妻が妊娠しているときに行為を行ったことも。
彼は若いころに経験できなかったことを人生後半にして「人生の遅れを取り戻そう」としていたのでしょうかね。

桜を詠んだ俳句

桜を詠んだ俳句

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生涯で2万にものぼる俳句を残したとされる一茶は桜に関係した俳句を多く残しています。
その1つである「桜咲く大日本ぞ日本ぞ」は言葉そのまま桜が咲きたての風景を想像できそうな一句。
ようやく春が訪れたという喜びが伝わってきそうな一句ですね。

「茶屋むらの一夜にわきし桜かな」の句にある「茶屋村」はお花見のために作られた屋台のことを指し、一夜にして「屋台と桜が両方わいた」ことを意味するもの。
こちらも桜の開花で賑わう人々の姿が浮かんできそうな一句。
「花の陰あかの他人はなかりけり」はその場所に来ている人々は知らない人でも「みな桜を好む人」であり、そのように考えれば全くの他人ではないという意味を含んでいる一句。
現代であれば開花の時期に桜の下で花見、盛り上がる人々の様子が真っ先に浮かんできそうですね。

このほか48歳から56歳までの9年間にわたる句日記「七番日記」には「夜桜や大門出れば翌の事(よざくらやだいもんでればあすのこと)」という一句も残されており、春の季節には一句思い浮かべて風景に見とれてみたいところですね。

代表的な俳句集「おらが春」

代表的な俳句集「おらが春」

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一茶が残した俳諧俳文集「おらが春」は一茶が57歳を迎えた1819年(文政2年)、1年間の出来事に寄せて読んだ俳句・俳文を一茶没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が自家本として刊行したもの。
書名は巻頭の一文中にある「めでたさも中くらゐなりおらが春」により名づけられたもの。

一茶の代表的著作とされており、前年に生まれたばかりの長女・さとの死を中心に発句ほっくを交えて日記風にした構成。
代表的な句である「我と来て遊べや親のない雀」は「こちらに来て、母を亡くした私と遊ぼうよ。
巣から落ちて親と離れてしまった子雀よ」という意味で、若くして母を亡くし継母になじめない中で過ごした一茶の少年時代を表現。

「ともかくもあなた任せのとしのくれ」は「あれこれ考えたところでどうにもならない。
この年の暮れも、すべてを仏さまにお任せするよりほかにない。」という意味で、「裕福でも貧乏でも、ありのままに年を越していきましょう」というもの。
波乱の多い人生を歩んできた一茶ならではと言える一句ですね。

次のページでは『死の間際に残した辞世の句』を掲載!
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Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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