「一休宗純」とは?一休さんのモデルは反逆のカリスマだった

誰もが1度は聞いたことがあるであろう「一休さん」。かつてテレビアニメで放映されたことから有名になっている「一休さん」のモデルとなっているのは、室町時代に活躍した「一休宗純」。そんな「一休さん」のモデルとなっている「一休宗純」とはいったいどのような人物であったのでしょうか。






幼少期から波乱が起こる

一休宗純は1394年(明徳5年)に京都で誕生。
父は室町時代北朝最後の第6代天皇・後小松天皇、母は伊予の局(つぼね)とされていますが、将軍に敵対していた藤原一族・日野中納言の娘であったことから宮中を追われることとなり、伊予は一休が争いに巻き込まれることを恐れて5歳で臨済宗・安国寺に入れ出家させられることに。
安国寺に入った千菊丸(一休の幼名)は住職・像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒して「周建」と名付けられます。

幼少期から激動の人生を歩むこととなった千菊丸でしたが才能は抜けており、8歳の時には「このはし渡るべからず」、将軍・足利義満に屏風の虎の捕縛を命じられた際には「将軍様、屏風から虎を追い出して下さい」と告げるなど、現代まで伝わる「トンチ話」を残すことに。
少年にして言葉を自在に操る力、頭の回転の速さを見せるとは「早熟の天才」ですね。

少年期から才能を示した千菊丸は「漢詩(中国の伝統的な詩)」を創り出すように。
1406年(応永13年)には13歳で『長門春草』、1408年(応永15年)には15歳で『春衣宿花』を生み出します。
1410年(応永17年)には17歳で西山西金寺の僧・謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を「宗純」に改めることに。
一休は謙翁をたいへん慕っていたとされており、1414年(応永21年)に謙翁が他界した時は自ら命を絶とうと瀬田川に入ろうとしたことも。

師匠から授かった「一休」の名

師匠から授かった「一休」の名

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師匠の死から自ら命を絶とうとした一休でしたが助けられ、1415年(応永22年)に京都大徳寺の高僧・華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子になると「洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)」と呼ばれる公案を出されることに。
これは洞山(とうざん)という僧が長い旅の末に雲門禅師の所に着き入門を乞うた話で、禅師の問いに正直に答えたところ「お前を三頓の棒(「一頓」が20発、「三頓」で 60発。)で叩きのめす」 と言葉を投げ掛けられ、考えながらわからない洞山は翌日も雲門の所へ行き、「私のどこが間違っていたのか」と問うと、雲門は、「江西湖南(禅の盛んな場所)を廻りながら何をしていたのか」と一喝した話。

「正直に答えたにもかかわらず、なぜ打たれるのか」という公案に対し一休が出した答えは「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」というもの。
ここでの「有漏路」は煩悩にまみれた世界、反対に「無漏路」は煩悩のない世界のことを指し、言葉の意味としては「現世は前世から来世に行くわずかな一休みの間であり、雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」というもの。
この答えは師匠を感心させることとなり、華叟より「一休」の道号を授かることに。

師匠からの称号授与を拒否

師匠から「一休」の称号を授かった一休はさらに才能を発揮します。
1420年(応永27年)5月20日の夜、座禅をしていた一休はカラスの鳴く声を聞いて悟りに至ることに。
これに対して師匠・華叟は一休を後継者と認め「印可(いんか。
真言密教で奥義の秘法を師から相承すること)」を授けることに決めますが、これを一休は「馬をつなぐ棒杭と同じで邪魔物」として拒否。
師匠からの申し出を断るというのは「とんでもない」ことに見えますが、一級から見れば「権力なんて知ったことではない、自分にはいらない」ということでしょうか。

こうした「反逆的」な行動に出た一休でしたが僧籍が取り消されることはなく、その後は「狂雲子(きょううんし)」と名乗って活動を行うことに。
一休の「反骨精神」がここから見えていくのでした。

法要に粗末な服装で登場

自らを「狂雲子(きょううんし)」と名乗った一休は、僧侶とは思えないような「パンク精神」全開の行動を見せていきます。
28歳になった1422年(応永29年)には大徳寺7世・言外宗忠(げんがいそうちゅう)の33回忌追悼法要に登場しますが、このときにまとっていたのは粗末な着物。
この行動からやがて「奇人和尚」噂され始めるようになります。
思想は「見てくれでは決まらない」という姿勢を見せようとしていたのでしょうか。

1428年(生長元年)に師匠・華叟が亡くなると「仏教の教理」を説くために近畿一円を説法行脚することに。
「知ってもらうためにはこちらから歩み寄らなければ伝わらない。
お高く止まるな」ということでしょうか。
1437年(永享9年)には師匠・華叟の印可状を渡されながら火中に焼き捨て。
ここでも「信条は曲げない。
俺は権力にすがらない」ところを見せたかったのかもしれません。







ある事件で死を考える

ある事件で死を考える

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反骨ぶりを見せていた一休に事件が起こるのは1447年(文安4年)。
大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され自ら命を絶つものが現れた事件に落ち込んだ一休は、譲羽山へ向かいここで断食死を試みることに。
一休が命を絶とうとしたのは師匠が他界した時以来で人生2度目のことでしたが、この時は天皇の説得(親書)を受けて思い留まることに。

生き延びた一休は1456年(康正2年)、200年前に臨済宗の高僧・大応国師(南浦紹明(なんぽしょうみょう)ともいう)が創建した妙勝寺を約20年以上かけて修復。
新たに国師の木像を設置して「酬恩庵(しゅうおうあん)」を建立。
この庵は一休が亡くなるまで過ごす場所となり、活動の中心地として多くの文化人が来訪するように。

蓮如との交流・ある女性との出会い

蓮如との交流・ある女性との出会い

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1461年(寛正2年)にはある人物と交流を果たすことになります。
この年蓮如(れんにょ)が営んでいた親鸞200回忌に参列した一休は19歳年下の蓮如と宗派、年の差を超えた親交を持つことに。
このとき一休は「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理に向かう道は多くあるが、目指している悟りは同じである)」という一句を残しています。
「考え方は違えど同じ道にいる人間、同じ世界にいるのならいがみ合う意味がない」と考えていたのでしょうね。

そんな一休でしたが1467年(応仁元年)に「応仁の乱」が勃発。
一休は戦火を避けて東山虎丘庵に逃れ、1470年(文明2年)に盲目の旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会います。
当時の一休は77歳の高齢、森侍者は20代後半と50歳以上の年の差がありましたが、彼女の姿を見た一休は一目ぼれ。
2人は翌年から一休が亡くなるまで酬恩庵で同棲生活を送る関係になります。
一休はこのときの様子を漢詩集『狂雲集』に残しており、「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり。
楊貴妃かくあらん」と表現。
年老いても自身の感じるまま動く姿勢は変わらないですね。

晩年の大仕事・亡くなるまで

晩年の大仕事・亡くなるまで

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晩年に差しかかろうとしていた一休に1474年(文明6年)、天皇からの勅命がやってきます。
1453年(享徳2年)の火災、応仁の乱(1467–77年)で炎上した大徳寺の復興を頼まれたのでした。
この勅命に対して一休は豪商が集まる街・堺へ再建のための寄進を求めて向かい、これに対して豪商や庶民、武士とさまざまな人が協力。
これは堺の街で一休が絶大な人気を誇っていたことから実現したものとされ、一休の「カリスマ性」が実現させたものかもしれませんね。

こうした人々の協力を得た一休は5年後の1479(文明11年)に大徳寺大用庵、如意庵、法堂を建立。
住職になった一休でしたが寺には住まず酬恩庵から通っていました。
権力にすがらず、求められた時に大きな仕事を成し遂げる姿は「一匹狼」のようでもあります。
大仕事を成し遂げた一休は1480(文明12年)、弟子の墨済に命じて自らの像を彫らせ、そこへ抜いた髪や髭を植え付け。
これは「禅僧は髪を剃るもの」という風習に反対する意思を表明するために植えたとされています。

破天荒、型破りな人生を歩んだ一休は1481(文明13年)、87歳でその人生に終止符を打つことに。
一休は生涯を終えるにあたって「一休の禅は、一休にしか解らない」など辞世を残し、臨終の言葉は「死にとうない」。
人生の最後まで「反逆のカリスマ」としての思想を貫いたのでした。
その後葬られた一休の墓は酬恩庵の「慈揚塔」にありますが、一休が天皇の子どもということから宮内庁が「御廟所」として管理、一般の立ち入りや参拝はできないようになっています。

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Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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