ボルジア家とは?

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それが、15世紀から16世紀にかけてイタリアで繁栄したわけですね。
ローマ教皇を2人輩出し、権力を握りました。
ちょうどこの頃は、ヨーロッパで花開いた芸術の時代・ルネサンスと同じ頃なんです。
ボルジア家が生んだ最大の権力者・教皇アレクサンデル6世と、その息子で軍司令官となったチェーザレが健在なうちは、ボルジア家の勢いを止められる者はいませんでした。
しかしこの2人が相次いで病に倒れたところから、ボルジア家は急速に衰退していくこととなり、あっけなくの座から転がり落ちることになるのです。
すでに述べたように、暗殺や謀略で政敵を蹴落としてきただけでなく、近親相姦という黒い噂が付いて回ったボルジア家は、「カンタレラ」という毒を用いて敵を毒殺してきたとも伝わっています。
その毒は、史料では「雪のように白く、快いほど甘美」とされるものでした。
ヨーロッパでは悪役として嫌われてきた感もありますが、やはりどこか惹かれるものがあるようで、ドラマの題材によく取り上げられています。
日本でも小説やマンガとなっていますよ。
史上最悪の教皇と言われた男・アレクサンデル6世

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その生涯は、肉欲と権力欲で占められており、およそ聖職者とはほど遠いものでした。
では、彼はどんな人物だったのでしょうか。
数々のタブーを冒す

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こうした親族登用主義はボルジア家の特徴で、後にロドリーゴ自身も息子たちや近しい人物を要職に任命しています。
また、ロドリーゴは、聖職者でありながら数々のタブーを冒していました。
狩りやダンスに夢中になり、その上、大の女性好きだったんです。
愛人が何人もおり、子供までもうけていたのですからびっくりですよね。
そんな様子ですから、時の教皇から直々に注意されるほどだったんですよ。
しかし、当時の世の中は乱れきっていたため、ロドリーゴのように聖職者に存在するわけがない子供が当たり前のようにいて、それをやむを得ず世間が黙認してしまうような状態だったんです。
教皇になってからもそれはおさまるわけもなく、40歳以上年下の、しかも人妻を愛人にして、あろうことか教皇庁に住まわせたのでした。
これには多くの非難の声が挙がりましたが、当たり前ですよね。
金で買った教皇冠

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そして、ついには本当に教皇になってしまったのです。
1492年、アレクサンデル6世の誕生でした。
ちょうどコロンブスが新大陸を発見した年です。
ただ、この教皇選びにも彼は汚い手を使ったようで、教皇冠を金で買ったと言われています。
相当な贈収賄が行われていたようですよ。
こんな人物が教皇になってしまうなんて…現代のローマ教皇と比べたらとんでもない話です。
アレクサンデル6世もまた、親族を多く登用しました。
その代表格が息子チェーザレです。
まだ10代の息子に、彼は大司教や枢機卿といった高い地位を与えました。
他の息子にも領地を与えようとして周囲の反発を食らったりもしています。
これには理由もありました。
ボルジア家はスペイン出身であり、イタリアには基盤がなかったためです。
自分の足元を固めるには、親族や友人に頼るしかなかったんですね。
また、足場を固めるために子供たちを有力な家と政略結婚させました。
これは日本の戦国時代と同じようなものですが、娘のルクレツィアは彼の政治の道具となり、何度もの婚約と破棄、結婚と離婚を繰り返させられることとなったんですよ。
息子チェーザレと共に家の悪名を高める

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アレクサンデル6世は専らその資金集めに奔走しましたが、そのやり方がボルジア家の悪名を高めることとなったのでした。
やり方はこうです。
誰かが資産を持っているという噂が立つと、その人物に何らかの罪を着せて告訴し、投獄・処刑した上で財産を没収したんですよ。
戦死した人物の財産も同様に没収しました。
そのため、このやり方は、ボルジア家が相手の財産を奪うために殺したのだと噂されたんです。
確かに、ちょっと怪しいなと思ってしまいますよね。
あっけない死

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チェーザレも同様でしたが、マラリアだったのではないかと言われています。
あるいは、毒を盛られたという話もありますが定かではありません。
そして一か月後、あっけなく彼はこの世を去ってしまいました。
ここから、ボルジア家の凋落が始まるのです。
後に教皇となったユリウス2世は、アレクサンデル6世の政敵だったため、残されたチェーザレを逮捕してしまいます。
逃れたチェーザレですが、やがて異国で戦死することとなったのでした。
美しく冷酷な貴公子チェーザレ・ボルジア

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聖職者とその愛人の間に生まれた子という、本来なら有り得ない存在でありながら、父親の右腕としてイタリアを席巻したそのモチベーションは、タブーの子であるという偏見を吹き飛ばそうと彼自身が望んでいたからなのかもしれません。