幕末の時代に多くの人材を輩出した教育者「吉田松陰」とは?

長きにわたった「鎖国時代」が終わろうとする江戸時代の末期に活躍した「吉田松陰(よしだしょういん)」。主に思想家・教育者として活躍した彼が開校した「松下村塾」は短い間に多くの人材を輩出し、ここから巣立った人物がのちの明治時代に「近代日本」の基礎を築くことに。そんな日本の歴史を変える優秀な人材を多く輩出した男・吉田松陰とはどのような人物であったのでしょうか。






貧しい中でもあふれる勉強意欲

貧しい中でもあふれる勉強意欲

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1830年(文政13年)8月4日、長門国萩(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として誕生した吉田松陰。
生まれた年が寅年であったことから幼名「寅次郎」と名付けられた彼の家は古い一軒家で、父親は下級武士であったことから幼少期の暮らしは自給自足の貧しいもの。

天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学(江戸時代の儒学者・山鹿 素行(やまがそこう)によって著された兵学)師範・吉田大助の養子となり兵学も習得しますが天保6年(1835年)に大助が亡くなり、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けることに。
ここでの玉木の指導は非常に厳しいものであったとされており、学習態度が悪ければ手を上げることも。
松陰はのちに当時を振り返り「よく死なずに済んだものである」と語っていることから、相当過酷なものであったのでしょう。
現代であれば大きな問題になっていたことでしょう。

玉木の厳しい教育を受けた松陰は父や兄・梅太郎とともに畑仕事をしながら四書五経の素読、文政十年の詔「神国由来」などを父が音読したあとに復唱するなど熱心に勉強。
この頃は「漢籍を読むか、筆を執るか」の生活で、外で遊ぶことはほとんどなかったとのこと。
こうした姿勢は玉木の教えが大きく影響していたのでしょうね。

弱冠9歳で藩校の講師に

弱冠9歳で藩校の講師に

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幼少期から熱心な勉強姿勢を見せた松陰は9歳のときに「明倫館」の講師である兵学師範に就任。
明倫館とは1718年(享保3年)に萩藩6代藩主・毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建した長州藩の藩校で、水戸藩(現在の茨城県)の「弘道館(こうどうかん)」、岡山藩(現在の岡山県)の「閑谷(しずたに)学校」と並ぶ「日本三大学府」の1つとされていました。
それほど巨大な学校の講師を弱冠9歳で務めることになったのです。

講師を務めるようになった松陰は才能を存分に発揮、11歳のときには藩主・毛利慶親の前で実施した「御前講義」の出来が称賛され、松陰の名は広く知れ渡ることに。
13歳のときには長州軍を率いて「西洋艦隊撃滅演習」を実施し、15歳で山田亦介(やまだまたすけ)から長沼流(ながぬまりゅう。
江戸時代の軍学者・長沼澹斎(ながぬまたんさい)によって生み出された兵学)兵学の講義を受け習得。
当時の兵学は山鹿流と長沼流の2つが兵学の双璧をなす存在とされていましたが、その両方を収めるところに天才ぶりがうかがえますね。

新たな学問を学ぼうと遊学へ

新たな学問を学ぼうと遊学へ

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当時を代表する兵学を習得した松陰は海外の兵学にも目を向けるように。
この頃は江戸時代の「鎖国体制」が末期を迎えようとしていた頃で、外国船が次々と日本近辺に出現していることから、これまでの方法では日本を守ることはできないと考えていました。

そうした考えを持った松陰は西洋兵学を学ぼうと決意、1850年(嘉永3年)になると九州へ遊学。
ここで海外の情報収集、アヘン戦争の漢文書物「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」読破を行い江戸へも進出。
兵法やオランダ語など多数の学問を収めていた松代藩士・佐久間象山(さくましょうざん)や安積艮斎(あさかごんさい)に師事し、九州幽学時に出会った肥後藩・宮部鼎蔵(みやべていぞう)とも交流。
先進的な考えはしっかり取り入れようとする姿勢が見えますね。

東北への旅行・脱藩で処罰

東北への旅行・脱藩で処罰

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新たなことを知ろうと動く松陰が次に計画したのは「東北への旅行」でした。
1852年(嘉永5年)に宮部鼎蔵らと東北旅行を計画することにしたのです。
旅行を計画した松陰らは長州藩に旅行の願書を提出、これが認められて旅行へ行くことが決まったのです(当時の日本では旅をする際に「通行手形」と呼ばれる証明書を発行してもらうことが必要であった)。

しかし旅行許可が出て以降長州藩の手形発行は遅れ、願書提出から5か月たっても手形は発行されず。
これに対して早く出発したい松陰は藩からの手形発行を待てずに脱藩することに。
「目的のためなら規則を破ることもいとわない」行動力が見えますね。

こうして「ギリギリ」の脱藩を図った松陰は水戸で藩士・会沢正志斎(あいざわせいしさい)と面会、会津では藩校・日新館(にっしんかん)の見学、秋田では「相馬大作事件(1821年(文政4年)4月23日に南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)らが津軽藩主・津軽寧親を襲った事件)」の現場を訪ねるなど精力的に活動。
5か月間の旅行を終えた松陰は江戸に戻った際に当然罰を受け、「士籍剥奪・世禄没収」の処分を受け藩士の身分を失うことに。
罰を受けようが「見たいものは見る」姿勢も見えますね。







黒船にも動じない

黒船にも動じない

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藩から罰を受けた後も松陰は行動することをやめません。
1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリーが浦賀へ「黒船」を率いて来航すると師匠・佐久間象山とともに遠望観察。
当時の人々は恐れて見に行くのもためらいそうですが、松陰には「進んだ文化を見てみたい」というなんでも見に行こうとする精神の方が勝っていたのかもしれません。
この黒船に衝撃を受けた松陰はその後宮部鼎蔵に「彼らは来年国書の回答を受け取りにくる、その時に我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記した書簡を送っており、「ギラギラ」した様子が見えますね。

この後も松陰の動きは止まることなく、長崎に寄港していたロシアの「プチャーチン号」に乗り込もうとしますが、ヨーロッパで「クリミア戦争」が始まろうとしていたことから船はロシアへ帰国、作戦は失敗しています。

黒船へ突入・投獄処分

松陰は1854年(嘉永7年)に入るとさらなる行動に出ます。
ペリーが「日米和親条約」の締結を求めて再来日すると長州藩士・金子重之輔と密航を企て、漁民の小舟を盗んで船に乗り込むことに。
ここでアメリカへの渡航希望を伝えますが叶わず、乗ってきた小船も流されたため下田奉行所に自首、投獄されることに。
しかしこのときの様子についてペリーは航海記に「日本の厳重な法律を破り、知識を得るため命を賭けた2人の日本人の激しい知識欲は興味深い。
日本人の志向がこのようなものであれば、この興味ある国の前途はなんと希望に満ちたものであるか」とつづっており、松陰らの行動を評価していたのですね。

幕府の一部では松陰を死罪にしようとする動きもありましたが、老中・阿部正弘が反対したために命は助かり、国許蟄居(自宅の一室に謹慎させられる刑)に処され長州へ送られたのち野山獄に投獄。
その後1855年(安政2年)に出獄を許されると生家で幽閉の処分。
幕府にとっては「何をしでかすかわからない要注意人物」に見えたのでしょう。

多くの有名人を輩出「松下村塾」の開校

多くの有名人を輩出「松下村塾」の開校

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幽閉処分を受けた松陰は1857年(安政4年)に自ら学校を開きます。
この年開いた「松下村塾」はかつて叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が主宰していた塾「松下村塾」を引き継いだもので、野山獄で出会った長州藩士・富永有隣(とみながゆうりん)を教授に迎えて開校。

この塾で学んだ門下生には多くの著名人がおり、長州藩における尊王攘夷派の中心であった久坂玄瑞(くさかげんずい)、長州藩を倒幕にまとめた高杉晋作らを輩出。
この塾では当時の主流であった「一方的に教える方式」ではなく松陰と弟子で意見交換、水泳や登山を行うなど当時としては珍しい教育を実施。
型にとらわれない教育方針は現代社会でも十分通用するものですし、後に活躍する人材を多数輩出することにつながっているのですね。

塾はのちに松陰が再投獄されるなどして中断したのち1866年(慶応2年)に再開、1871年(明治4年)に玉木が塾頭となり1880年(明治13年)頃からは松陰の兄・杉民治によって再開。
1892年(明治25年)頃まで人材教育の場として活用されました。

次のページでは『怒りの行動・大獄での処刑へ』を掲載!
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Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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