無音の曲・史上最長演奏時間の曲を生み出した「ジョン・ケージ」とは?

歴史上に残る名曲の数々を生み出す音楽家たち。その音楽家たちは常人に理解できない感性を武器に多くの作品を生み出していますが、その一方で変わったエピソードを持つ人物も多数おり、そうしたエピソードが創作活動に大きく関わってくることも。今回は歴史に名を残した音楽家たちから、1930年代から1990年代にかけて活躍した作曲家ジョン・ケージについて見てみましょう。


学業優秀であった少年時代

学業優秀であった少年時代

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ジョン・ケージことジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは1912年9月5日、カリフォルニア州ロサンゼルスに父ジョン・ミルトン・ケージ・シニアの下で誕生。
ケージの父は発明家として活動していた人物で、ケージが生まれた1912年には製造した潜水艦が13時間の潜航に成功して「潜水艦の潜航世界記録」を樹立。
音楽家としての素地は発明家であった父の姿から造られていたのでしょうかね。

そんなケージの一家は引っ越しが多い家庭でもあり、ミシガン州デトロイトなどに転居。
引っ越しを繰り返したケージは8歳の時に移ったカリフォルニア州サンタクララで両親に頼み込んでピアノのレッスンを開始。
その後ロサンゼルス・ハイスクールに進んだケージは南カリフォルニア弁論大会に学校代表として出場するなど目立つ存在であり、学業でも学校が開校して以来最高の成績で卒業。
そのままクレアモント(カリフォルニア州)のポモナ・カレッジに入学しますが次第に学業への興味を失っていき、ガートルード・スタイン(アメリカの詩人)作品を読む生活に。

作曲活動を開始・師匠との出会い

作曲活動を開始・師匠との出会い

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18歳になったケージは学業に見切りをつけフランス・パリへ渡ることに。
ここで1930年に建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのちスペイン・マジョルカで初めて作曲。
1931年にアメリカへ戻ったケージはピアニストのリチャード・ビューリックに作曲を学び、のちに作曲家ヘンリー・カウエルの紹介でオーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクに師事することに。
1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学ぶことになります。

ケージに対しシェーンベルクがケージに「音楽を書くためには、和声の感覚を持たなければならない」と言い、ケージは自分が和声の感覚を持っていないことを告白。
このときシェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になる。
通り抜けることのできない壁につきあたるものだ」と伝えると、ケージは「それなら私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げる」と回答。
音楽にかける情熱は大いに感じられますね。

次々に炸裂する個性的アイデア

次々に炸裂する個性的アイデア

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こうして本格的に音楽を学ぶケージは1933年から現存する最初の作品を作り始め、1937年の文章「音楽の未来 クレイド」では電気楽器の可能性、ノイズの重視などのアイディアを発表。
1940年にはグランドピアノの弦にゴム・木片などの異物を挟み、音色を打楽器風に変化させた「プリペアド・ピアノ」を考案、1938年の『バッカナル』で実際にこの楽器を演奏時に採用。
音楽家の商売道具である楽器にに細工を加えるのは怒られそうな気もしますが、ケージは「独創的なものが生まれるならやってしまえばいい」と考えたのでしょうか。

こうした画期的な取り組みを見せるケージは次第にアイディアが最優先する作品を増やし、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』などを作曲。
その後は1945年からの2年間はコロンビア大学で仏教学者・鈴木大拙(すずき だいせつ)に禅を学び東洋思想への関心も深めることに。

1951年にはハーバード大学で無響室を体験するとここで体内からの音を聴き「沈黙をつくろうとしてもできない、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴り続けるであろう」と考え、中国の「易」などを用いて作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」、1951年には貨幣を投げて音を決める『易の音楽』などを作曲。
音楽での「悟り」を開いた瞬間であったのかもしれませんね。

音楽界を驚かせる異色作『4分33秒』

音楽界を驚かせる異色作『4分33秒』

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ケージは音楽界を驚かせる「異色作」を生み出すことになります。
1952年にケージが作曲した『4分33秒』は第1楽章から第3楽章まで「TACET(音楽用語で「休みを意味する」)と割り振られたもので、演奏者は曲の演奏時間である「4分33秒」全く楽器を演奏しないというもの。
演奏者は演奏をしないまま時間の経過を待ち続けるというもので、ケージはこれを観客が発する音、コンサートホール内外から聞こえる音に意識を向けさせようとしたのです。

この作品については悪ふざけとみなすもの、画期的な作品と評価するものと賛否両論あったとされますが、このときのケージは「音楽は楽器を奏でて生まれる音だけを指すものではない。
生み出された音はすべてが「音楽」になり得る」と考えたのかもしれませんね。

この後もケージは42枚のレコードをテープに録音した『心像風景第5番(1952)』、ラジオを楽器に見立てた『ラジオ・ミュージック』(1958年)など画期的な作品を次々に発表。
楽器以外から生まれる音を「音楽」に変える才能は相当なものですね。

問題作『ヴェクサシオン』の演奏に挑戦

問題作『ヴェクサシオン』の演奏に挑戦

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1960年代に入ったケージはレコードプレーヤーのカートリッジを経由して音を拾い、増幅・加工した『カートリッジ・ミュージック』(1960年)、ひとりの演奏者が何をしても良いとされる『0分00秒(1962年)』、鑑賞者が自由に歩きまわりながら聴く『HPSCHD(1969年)』などを発表。

1963年にはアメリカ・ニューヨークでフランスの作曲家エリック・サティが作曲した『ヴェクサシオン』を上演。
この作品は「嫌がらせ」「癪の種」という意味の曲で、1分程度の曲を840回繰り返す構成。
サティのノートには「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう」と書かれており、演奏しようと思うものには心身ともに相当な勇気が必要でしょう。

このサティの「異色作」に挑んだケージらは夕方6時から演奏を開始すると、サティの指示通りに840回の反復を実施。
全フレーズを演奏終了したのは翌日の12時40分。
時間にして実に18時間の長丁場。
演奏する側にとって過酷なのはもちろんでしょうが、これを聴く側にとっても「耐久戦」ですね。
サティも相当な奇人とされていましたが、演奏しようと決意したケージは「サティの感覚」が理解できたからこそ演奏しようと考えたのかもしれませんね。

その後1975年の『エチュード・オーストラルズ』は南天球の星座図に線譜を引いて作曲。
ジェイムズ・ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』を基にした『ロアラトリオ』は小説に登場する音を集めた作品で、ケージの集大成的作品に。
日本とのかかわりが強調された『RENGA』、京都の「大雲山龍安寺」に感銘を受けて作曲した『龍安寺(1983)』も発表されています。

現在も奏でられる「史上最長の演奏曲」

現在も奏でられる「史上最長の演奏曲」

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ケージが次に挑んだのは「史上最長の演奏時間」を記録する曲の作曲でした。
1987年にケージが生み出した『Organ2/ASLSP』は「As SLow aS Possible=(できる限りゆっくりと)」を意味する曲であり、ケージが89歳の誕生日を迎える予定であった2001年9月5日からドイツ・ハルバーシュタットにあるブキャルディ廃教会で演奏開始。
演奏は教会にオルガンが初めて設置された1361年から演奏が開始された2001年までの年数「639年」行われることとなり、終了するのは2639年の予定。
この演奏が終わるころには現在生きている人々が誰も生存していないでしょうが。

演奏時間も特徴的ですが、演奏開始から1年半が経過した2003年2月までは持続的な休符による無音が続き、最初の音が鳴らされたのは2003年2月5日。
ピアノ版の演奏は20分から70分で完了すると言われていますが、それでは面白くないでしょうからね。

晩年のケージは演奏者の人数をそのまま題名とした「ナンバー・ピース」と呼ばれる作品を数多く発表。
独奏曲やアンサンブル曲、『101』や『103』、『108』など巨大編成のオーケストラ曲、1人のカメラマンに向けた映像作品『One11』のような幅広い作品を展開。

1989年には日本の稲盛財団により京都賞思想・芸術部門を授けられていますが、この受賞時に「正装は絶対にしない。
シャツとジーンズで出る」と言い張って譲らず、スタッフから「日本の羽織袴を着用してみれば」との提案に納得、実際にこの姿で授賞式に姿を現すことに。
音楽以外の面でも強いこだわりがうかがえますね。

晩年の展覧会構想

晩年の展覧会構想

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晩年のケージは自身が構想を練った「展覧会」の開催を考えていました。
ケージが考えた展覧会は「ローリーホーリーオーバーサーカス」と呼ばれるもので、「チャンス・オペレーション(偶然を利用してスコアを作成する手法)」を用いて1990年から取り組んだもの。
ロサンゼルス現代美術館が企画して内容はケージが担当、タイトルはジェイムズ・ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』に登場する「ローリーホーリーオーバー」という言葉と「サーカス」を組み合わせたケージによる造語に。
世界の変化(ローリーホーリーオーバー)と多様な出し物がさまざまな場所で生み出される(サーカス)を意味する言葉でした。

こうした展覧会を構想したケージですが、1992年8月12日、ニューヨークで79歳の生涯を終えることに。
ケージの生前に開催が叶わなかった展覧会は死の翌年1993年に実現し、日本では94年から95年にかけて水戸芸術館で開催されました。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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