18時間以上続く「世界一長いピアノ音楽」を生んだエリック・サティとは?

モーツァルトやベートーベンなど、歴史上において「天才」と評価されることも多い音楽家。彼らは並外れた感性を武器に数々の曲を生み出してきたことで知られますが、彼らの中には「個性的エピソード」を持つ人物もおり、そうしたエピソードの中には常人に理解しがたいものも多くあります。今回は個性的な音楽家から1800年代から1900年代に活躍したフランスの作曲家エリック・サティを見ていきましょう。

世界屈指の音楽学校「パリ音楽院」


エリック・サティは1866年5月17日、フランス・ノルマンディー地方の港町オンフルールで家運業を営む父親アルフレッド・サティ、スコットランド人の母親ジェインの長男として誕生。
サティが4歳の時に父親が事業をたたむと一家でパリへ移住、6 歳の時に母親が亡くなると祖父母の元へ預けられることに。
サティの音楽的素質に気づいた祖父の紹介で、聖カトリーヌ教会のオルガン奏者・聖歌隊長ヴィノーにピアノを学ぶことに。
その後12 歳の時に祖母が亡くなるとパリに住む父親のもとで暮らすことに。
幼少期から環境の変化が激しい中に身を置いていたのです。

そうした家庭環境で育ったサティの家庭では父がピアノ教師の女性ユージェニ・バルネシュと再婚、やがてサティはユージェニからピアノを学ぶことに。
そしてユージェニの勧めで13歳になった頃に「パリ音楽院」に入学。
ここではデコンプ(Émile Decombes)にピアノ、アルベール・ラヴィニャックに「ソルフェージュ(「楽譜を読むことなどを学ぶ音楽の基礎訓練」)」を学び、その後は1884年にジョルジュ・マティアスのピアノ科へ進むことに。
音楽キャリアを順調に進んでいるように見えますね。

びっくりな退学理由

びっくりな退学理由

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13 歳でパリ音楽院に入学したサティですが、20歳の時に突然学校を退学することに。
その理由は学校が「退屈すぎるから」という理由です。
7年という長い期間を経ての退学でしたが、のちに有名になるサティからしてみると「彼が授業についていけなかった」のではなく「授業が彼についていけなかった」ためなのかもしれません。

そのような形で学校を去ったサティでしたが交友関係には恵まれており、作曲家モーリス・ラヴェルと出会ったのはこの時代。
のちにラヴェルはサティの影響を受けてピアノ曲『グロテスクなセレナード(1893年頃)』や『古風なメヌエット(1895年)』、『亡き王女のためのパヴァーヌ(1899年)』などを作曲しており、この出会いはラヴェルにとっても有意義なことと言えますね。

こうしてパリ音楽院を退学したサティはなぜか軍隊へ志願して「アラス第三三歩兵連隊」に配属。
しかし軍隊にいるのが嫌になったサティは真冬の夜に裸で外出、その結果として気管支炎を患って除隊することに。
移り変わりが激しいですね。

軍隊を除隊したサティは1887年からシャンソン酒場のピアノ弾きになり、仕事で生計を立てながら作曲活動。
1888年には「ジムノペディ」を作曲。
この曲はのちに彼の代表曲となります。
「退学」という行動を起こしてからの次の動きは非常に早いものでしたね。

わずか半年の関係「シュザンヌ・ヴァラドン」

わずか半年の関係「シュザンヌ・ヴァラドン」

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サティの人生では親しい関係になった「シュザンヌ・ヴァラドン」という女性がいました。
1865年にフランス・オート=ヴィエンヌ県ベッシーヌ=シュル=ガルタンプの貧しい家庭に生まれたシュザンヌは1870年に母とともにパリへ移り住み、10代初めからサーカスのブランコ乗り、絵画モデルなどの仕事を経験。
やがてピエール=オーギュスト・ルノワールの「ブージヴァルのダンス」や「都会のダンス」のモデルを経験すると、自身も画家を目指すように。

そんなシュザンヌがサティと関係を持ったのは1893年。
この頃のシュザンヌはサティが住んだモンマルトルの家のとなりにのちに画家となる息子・ユトリロと共に暮らしていましたが、そんな彼女と関係を持ったサティはラブレターを約300通書くほど。
しかし交際は長く続かず、わずか半年で終焉を迎えることになってしまいます。

サティと別れたあとのシュザンヌは「フランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)」初の女性会員になり、1896年には資産家のポール・ムージスと結婚。
1909年には息子より3歳年下のアンドレ・ユッテルを恋人として、ユッテルをモデルにした「アダムとイブ」や「網を打つ人」など代表作となる作品を制作。
晩年の1937年には主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後にパリ国立近代美術館に所蔵されることに。

パリ音楽院のライバル「スコラ・カントルム」へ

パリ音楽院のライバル「スコラ・カントルム」へ

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一度は学校を退学したサティですが、作曲を学び直すために再び学校へ通い始めることに。
38歳になったサティが1904年から通い始めたのは「スコラ・カントルム」という学校。
この学校は1894年にヴァンサン・ダンディが設立した音楽学校で、ここは悪評が立っていた「パリ音楽院」に対抗した学校でした。
サティが「退屈」と言って去っていった学校に対抗して設立されたものですから、サティにとっては古巣に対抗するいい機会ですね。

こうして入学したサティは3年間ダンディに師事して最優秀で卒業。
古巣に対する反抗心はあったのでしょうが、それと同時に年を重ねてからも技術向上に取り組む努力家であったこともわかりますね。

聴き入らない音楽を作る『家具の音楽』

聴き入らない音楽を作る『家具の音楽』

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サティは自身が作曲した曲の聴き方に注文を付けたことでも有名。
1920年にサティが作曲した『家具の音楽(かぐのおんがく、musique d’ameublement)は「家具のように、そのその場所にあっても日常生活を妨げない、意識的に聴かれることのない音楽」を目指して作曲されたもの。

作曲した曲を披露しようと、サティは作曲家ダリウス・ミヨーらの協力を得てコンサートでの実験を実施することに。
この実験にあたってサティは「この曲は聴き入らないでほしい。
おしゃべりを続けてください」と前置きをしたうえで演奏を開始。
しかしその前置きがありながら観客は静かに聞き入ってしまうこととなり、これに怒ったサティは「おしゃべりして良いと言っているだろ」と観客に激怒。
観客にとってはしゃべってよいと言われても「騒いではいけない」という心情が働くでしょうから、あえて「聴き入るな」と言われてもそのようにするのは難しいものですね。

こうしたサティの考え方はのちに作られる「アンビエント(環境音楽)」や「BGM」といったジャンルの元となり、多くのアーティストに影響を与えることに。
サティの取り組みは当時失敗したものの、長い目で見れば音楽の方向性拡大に大きく貢献していたのですね。

仕事の依頼金額が高すぎると抗議

仕事の依頼金額が高すぎると抗議

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サティは「仕事の依頼金額が高すぎる」と抗議したエピソードもあります。
1913年に高級雑誌『ガゼット・デュオ・ボン・トン』を発行していたフランス・パリの「ルシアン・ヴォージュル社」社長が雑誌にデザイン画を寄せていた画家シャルル・マルタンの風俗画集に「1曲ずつの短いピアノ曲」を添える企画を考案し、最初にイーゴリ・ストラヴィンスキーに依頼しますが報酬額で合意せず断られることに。
その次に依頼がサティのもとにやってきますが、その報酬はストラヴィンスキーへ依頼した時よりも安い金額。
しかし金額を聞いたサティは「金額が高すぎる」と言って自分から報酬額を下げるように要請、最終的に下げた作曲することで合意。

こうして依頼を受諾したサティは1914年、20曲の小曲と1曲の序曲で構成される『スポーツと気晴らし』を造り上げ、酔ってしまいそうな船に乗る人々を描いた第15曲「ウォーター・シュート」、永遠に終わらない第16曲「タンゴ」など個性的な曲が盛り込まれることに。
金額が上がればそれだけ「責任」が伴うことも考えられますが、サティはそうしたものから解放され「自由に」作ることを望んでいたのでしょうかね。

同じフレーズを840回『ヴェクサシオン』

同じフレーズを840回『ヴェクサシオン』

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サティは音楽の歴史を変える「異色の曲」を残しています。
その中にある『ヴェクサシオン』は1893年から1895年にかけて作曲されたもので、意味は「嫌がらせ」「癪の種」というもの。
曲は52拍で構成される約1分の曲を「840回」繰り返すというもので、サティのノートには「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべき」と書かれているとのこと。

840回もフレーズを繰り返すこの曲の合計演奏時間は18時間から25時間とされ、「世界一長いピアノ音楽」として有名に。
この曲を実際に演奏するものは長い間出ることはありませんでしたが、1963年にアメリカの音楽家ジョン・ケージらが初めて演奏を実施。
このときは10人のピアニスト、2人の助っ人によって夕方6時から演奏が開始され、演奏が終了したのは翌日の午後0時40分。
ケージは全演奏時間が無音で構成される『4分33秒』や639年間(故意に行う)演奏される予定の『オルガン2/ASLSP』を作曲した人物で、そのような活動を展開したケージにはサティの気持ちが理解できたのかもしれませんね。

この曲は日本でも1967年(昭和42年)に実施されており、東京・アメリカ文化センターで大晦日の昼前から元旦朝までの年越し演奏として実施。
この曲が演奏されるときは演奏する側、聴く側両方にとって「耐久レース」のようなコンサートになりそうですね。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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