史上最悪の将軍から暴君などが揃う「個性的なエピソードを持つ日本の天皇・将軍まとめ」

長い日本の歴史において国の中央に立って日本を支えてきた天皇・将軍。そうした天皇・将軍たちは国の中心人物としてさまざまな功績を上げた誇らしいイメージもあるかと思いますが、中には個性的なエピソードを持つ人物もいます。今回は歴代の天皇・将軍から「個性的なエピソードを持つ日本の天皇・将軍」を見ていきましょう。


激烈エピソード多数「武烈天皇」

古墳時代に第25代天皇を務めた武烈天皇(ぶれつてんのう)は「暴君」と呼ばれるエピソードを持った人物。
名を小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)とする武烈は494年(仁賢天皇(にんけんてんのう)7年)に立太子(りったいし。
公式に皇太子を立てること)。

498年(仁賢天皇11年)に仁賢天皇が崩御、大臣として政治を司っていた平群真鳥(へぐりのまとり)が権力を得ようとした頃の皇太子は物部麁鹿火(もののべのあらかび)の娘・影媛(かげひめ)と結ばれることを望んでいましたが、彼女は既に真鳥の子・平群鮪(へぐりのしび)と関係を持っていました。
これに怒った皇太子は側近であった大伴金村(おおとものかなむら)と謀って鮪を乃楽山(ならやま。
平城山丘陵(ならやまきゅうりょう))において誅殺(ちゅうさつ。
罪をとがめて殺すこと)。
その後父である真鳥も討伐して親子を滅ぼすと、同年12月に武烈天皇として即位。

こうして天皇になった武烈はやりたい放題。
在任期間に行った蛮行としては「人の生爪を剥して山芋を掘らせる、人を登らせた木を倒して登った人を殺す、池の樋から人を流して矛で刺殺する、人を木に登らせて弓で射殺する、女性を裸にして目の前で馬の交尾を見せる」など、聞くだけでもおぞましく感じるエピソードが多数。
これらのエピソードは『日本書紀』に記されていたもので『古事記』には見られないものですが、事実であれば完全に「犯罪者」ですね。

これだけのエピソードを残した天皇は跡継ぎに恵まれず、御子代(みなしろ。
皇室の私有民「子代(こしろ)を敬って言った言葉」)として小長谷部氏(おはせべし)を置いていましたが、武烈天皇8年(507年)12月8日に帰らぬ人に。
わずか18歳の若さでした。

びっくり奇行の数々「冷泉天皇」

びっくり奇行の数々「冷泉天皇」

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日本(平安時代中期)の第63代天皇を務めた冷泉天皇(れいぜいてんのう)は村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔(ふじわらのもとすけ)の娘・安子(あんし)。
名を憲平(のりひら)と言いました。
生後2か月で立太子した憲平は967年(康保4年)、父・村上天皇の崩御を受けて18歳の若さで即位。
病弱であったことから藤原実頼(ふじわらのさねより)を関白(かんぱく。
天皇の補佐をする役職)につけることに。

冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったと言われていますが、その天皇は足が傷つくのも構わず1日中蹴鞠を続けたのを始め、父である村上天皇への手紙の返事として男性の「シンボル」が大きく描かれた絵を送りつけた、病気で床に伏した際に大声で歌っていた、退位後に住んでいた御所が火事になった際の避難で牛車に乗って大声で歌を歌ったなどの奇行を連発(大江匡房(おおえのまさふさ)が記した『江記』などによる)。
天皇は皇太子時代から精神に病を抱えていたとされていますが、天皇としての重圧が精神に負荷をかけ「崩壊状態」にしてしまったのかもしれませんね。

その後天皇は969年(安和2年)に弟・円融天皇に譲位、在任期間2年で退位することに。
譲位後は「冷泉院」と名乗って1011年(寛弘8年)に62歳で崩御。
天皇の座から早く解き放たれたことは長く生きられたことと関係しているのかもしれませんね。

冷泉天皇の息子も変わり者「花山天皇」

冷泉天皇の息子も変わり者「花山天皇」

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変わり者であった冷泉天皇の子どもも相当な変わり者でした。
冷泉天皇の第一皇子であった花山天皇(かざんてんのう)は第65代天皇を務めた人物で、969年(安和2年)に叔父・円融天皇の即位と共に生後10ヶ月足らずで立太子。
984年(永観2年)には天皇の譲位を受けて即位。
このとき若干16歳の若さでした。

若くして天皇に即位した花山天皇でしたが、その即位式で「ぶっ飛んだ」行動に出ます。
即位式の最中、ある女性を気に入った天皇は「高御座(たかみくら。
天皇の正式な所在を示す特別な玉座)」と呼ばれる場所へ女性を呼ぶと、そこで突然「性行為」を開始。
この場所はその後続く明治・大正・昭和天皇も即位式を行った場所。
天皇にとってはたいへん神聖な場所ですが、そのような場所で「こと」を始めてしまうわけです。
見ている側はどうしたらよいかわからないでしょうが、強すぎる欲の前には恥ずかしさなんてどこかに飛んでしまったのでしょうかね。

即位式から「トンデモ」エピソードを残した天皇ですが、寵愛していた女御・藤原忯子(ふじわらのてし)が亡くなったことなどを理由に986年(寛和2年)に18歳で退位。
突然出家してしまいます。
出家後は「花山法皇」を名乗って生活しますが、996年(長徳2年)には女性を巡って藤原伊周・隆家に矢で襲撃されることも。
これは伊周が通っていた藤原為光の娘・三の君と同じ屋敷に住む女性・四の君(藤原忯子の妹)のもとに法皇が通っていたために起こった事件で、伊周が「法皇も三の君のもとに通っている」と勘違いして襲ったと言われています。
この事件後法皇は閉じこもり事件について語ろうとしませんが、うわさが広まると伊周・隆家は大宰府・出雲国へ流罪に。

彼は絵画や和歌など文化面で才能を発揮しており「西国三十三所巡礼」を行った際に各霊場で詠んだ和歌は「御詠歌(ごえいか。
巡礼地を巡る人々を称える歌)」になるなど活躍、1008年(寛弘5年)2月に花山院の東対で崩御しました。

あまりに情けない最期を遂げた「四条天皇」

あまりに情けない最期を遂げた「四条天皇」

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歴代天皇の中にはあまりにも「マヌケ」な最期を遂げた人物もいます。
1231年(寛喜3年)2月12日に生まれた第87代・四条天皇は生まれてすぐ同じ年に親王となり、10月28日には後堀河天皇の皇太子に。
1232年(貞永元年)には父・後堀川天皇から位を譲り受け2歳で即位。
まだ周辺環境が何もわからないままの即位ということですね。

こうして若すぎる年齢で天皇となった四条は1241年(仁治2年)1月5日に元服(げんぷく。
成人になったことを示す儀式)、12月13日には九条彦子(くじょうげんし)を女御(にょうご。
天皇の寝所にいる女性)として迎えることに。
院政を敷いたのは父・後堀川上皇でしたが、2年後に上皇が亡くなると外祖父の九条道家らが政務を実行。
その後「彗星に祟られ」体調を崩しながらも祈祷により回復、12歳まで成長します。

事件が起こったのはその12歳のとき、1242年(仁治3年)のこと。
幼い天皇は近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうとして御所の廊下に滑石を置いていましたが、この仕掛けにはまったのは人々や女房ではなく自分でした。
誤って転倒した天皇は頭部を強打して脳挫傷を起こし、1月9日に亡くなってしまうのです。
いたずらの代償を「転落死」というあまりにも大きな形で払うことになってしまいました。

あまりにも若すぎる天皇の死により守貞親王(もりさだしんのう)の血統から皇位継承が可能な皇子は途絶えることになってしまい、死後11日間天皇の座は空位に。
最終的には混乱の末に後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が天皇に即位することになるのでした。

室町6代将軍は恐怖の独裁者「足利義教」

室町6代将軍は恐怖の独裁者「足利義教」

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室町幕府で第6代将軍を務めた足利義教は将軍になった成り立ちから個性的。
第3代将軍・足利義満の5男として生まれた義教は第5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)の陰で実権を握っていた兄・足利義持が後継者の指名を拒否したことから「くじ引き」で第6代将軍に選ばれることに。
くじ引きで人生が決まってしまうのですから恐ろしいものです。

こうして将軍に選ばれた義教は次第に恐ろしい「恐怖政治」を開始。
1430年(永享2年)に行われた「直衣初めの儀」の儀式中に笑い声を漏らした東坊城益長(ひがしぼうじょうますなが)の態度を見て「将軍を笑った」と激怒して所領没収・蟄居(ちっきょ。
自宅の一室に謹慎させる処分)としたのを始めに、前摂政・一条兼良邸で行われた闘鶏行列で義教の行列が通れないことに激怒して闘鶏を禁止。

義教の暴挙はこれにとどまらず、恨みを持っていた側室・日野重子の兄・日野義資の所領を没収して謹慎させ、1434年(永享6年)に重子が足利義勝を産んだ際に義資のもとへ祝賀客が訪れるとこれを気に入らない義教は客すべてを処罰。
義資は6月9日に何者かに斬殺されることに。
このほかにも「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった理由で庭師、料理人を罰するなどやりたい放題。
何かの曲に出てくる「触るもの皆傷つける」ような恐怖の行動は切れ味が鋭すぎますね。

こうした独裁を繰り返した義教は1441年(嘉吉元年)に播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)に襲われ命を落とすことに。
満祐は義教に疎まれたうえ弟・義雅が義教に所領を没収されており、不満は溜まっていたのでしょう。
義教の暗殺は「身から出た錆」なのかもしれませんね。

史上最悪の将軍・最高の文化人「足利義政」

史上最悪の将軍・最高の文化人「足利義政」

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恐怖の独裁政治を敷いた足利義教の息子・足利義政も個性的なエピソードを持っています。
室町幕府の8代将軍で会った義政は1436年(永享8年)に義教の3男として生まれ、元服した1449年(宝徳元年)に13歳の若さで8代将軍に。
当初は政治に意欲を見せていた義政でしたが、当時幕府の主導権を握っていた畠山持国などの重臣、義政の母・重子、10歳年上の側室・今参局(いままいりのつぼね)らの存在によって次第に政治への意欲を失っていくことに。

1455年(康正元年)に16歳の日野富子(ひのとみこ)を正室に迎えると、富子は政治に口出しをするように。
そうした中で義政は時期将軍候補を弟・義視(よしみ)とすることにしますが、1465年(寛正6年)に富子が義尚(よしひさ)を出産すると富子は義尚を将軍にすることを希望して義視と対立。
義視が管領・細川勝元(ほそかわかつもと)を頼ると、富子は義尚の後見を山名持豊(やまなもちとよ)に頼むことに。
こうした対立は山名持豊と細川勝元の対立へつながり「応仁の乱」へ変化。
義政は戦闘を中止するよう勧告を行いますが聴くものはおらず、戦いは11年間も続くことに。
これでは「将軍としての威厳が全くない」というしかないですね。

こうした大きな戦いの原因を作ってしまった義政ですが、文化面では大きな功績を残したことで有名。
庭師・善阿弥(ぜんあみ)、義政の造営した「東山山荘」の壁画を手掛けた狩野正信(かのうまさのぶ)や猿楽能役者の音阿弥(おんあみ)を生み出し、祖父・義満が建てた「金閣(鹿苑寺)」を模した「銀閣(慈照寺)」を建て「東山文化」と呼ばれる大きな文化を確立。
政治家としては「史上最悪の将軍」と言われることもある義政ですが、文化人として突出した才能を発揮したところを見ると「成功者」の部類に入るのかもしれないですね。

女好きの子だくさん将軍「徳川家斉」

時代は江戸時代に入ると、徳川将軍にも個性的な将軍が出現。
1773年(安永2年)に一橋家の当主・一橋治済(はるさだ)の長男として生まれた徳川家斉は1781年(天明元年)第10代将軍・徳川家治の養子になり、1786年(天明6年)に家治が50歳で亡くなると、1787年(天明7年)に15歳で第11代将軍に就任。
その後は徳川幕府で歴代最長となる50年もの間将軍の座を守り続け、1837年(天保8年)に息子の徳川家慶(いえよし)に譲りました。

そんな家斉は「女好き」で有名。
1789年(寛政元年)に島津重豪(しまづしげひで)の娘・近衛寔子(広大院(こうだいいん)とも言う)と16歳で結婚、正室として迎えていますが、それ以外に側室として迎えた女性もおり、その数は特定されるだけで16人。
あわせて17人の女性に囲まれているとは完全な「ハーレム状態」です。

それだけの女性を周りに迎えた家斉は子どもの数もとてつもなく、数にして男子26人、女子27人。
少子化が叫ばれる現代から見れば驚愕の数字です。
こうしたお盛んな面を見せる家斉はしょうが汁を毎日欠かさず飲んだり、精力剤として「オットセイの陰茎」を粉末にしたものを飲んだり、毎日増強に年心に取り組んだとのこと。
将軍在任期間にかかった病気は風邪だけであったと言われていますが、そうした健康の秘訣は毎日の努力あってなのかもしれません。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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