恐ろしい黒魔術師から血を求めた者まで「歴史上に残るヨーロッパの個性的な女性・悪女たち」まとめ

長い歴史の中で名を残してきた有名な人物には多くの女性たちが存在しています。こうした女性には社会に大きく貢献、現在まで尊敬を集め続けている偉大な人々が多くいますが、中には個性的なふるまいを見せたり「暴君」ぶりを発揮したことで名を残してきた人物も多くいます。今回は歴史上に残る個性的な女性・悪女たちの中から、ヨーロッパの歴史に残る人物を見ていきましょう。

気に入らないものは処刑「ウァレリア・メッサリナ」

ウァレリア・メッサリナはローマ帝国の第4代皇帝・クラウディウスの皇妃であった人物で、彼女の名前が「強欲さ・冷酷さ」の代名詞として使われるほどの悪女。
38年に18歳の若さでクラウディウスと結婚した彼女は41年にクラウディヌスが皇帝の座に就くと皇妃となります。
しかしそれからの彼女は数々の横暴なふるまいを見せるようになり、夫・クラウディヌスをそそのかして自分を不快にさせた者、自分に敵対する者を処刑。
すでに怖い雰囲気がプンプンしていますね。

恐ろしいふるまいを見せるメッサリナは通常の皇妃が出入りしないいような場所にいることもあり、自分の欲望を持て余した際には名前を「スキッラ」と名乗って売春宿で働き始めることも。
ここでは一晩で最高25人の男性と「性的な行為」に及んだこともあり、これだけの男性を相手しながら満足を得られなかったとのこと。
強烈な欲望の前には自身が「皇帝の妃である」ことなど頭から消えていたのかもしれませんね。

そのような生活を送るメッサリナは48年に愛人の1人であった元老院議員ガイウス・シリウスをそそのかして夫・クラウディウスの殺害を計画。
しかしこの計画はクラウディウスの側近の耳に入りシリウスその取り巻きは即刻処刑、メッサリナも最終的には処刑されることに。
夫・クラウディヌスは食事中に処刑の報告を聞いたとされていますが、その時に彼が発した言葉は「もっとワインが欲しい」。
クラウディヌスの言葉は「悪妻から開放され安堵感」から出たのかもしれませんし、ワインを求めたのは「今までの憂さ晴らし」をしたかったからなのかもしれませんね。

夫と共に独裁政権に関与「エレナ・チャウシェスク」

エレナ・チャウシェスクはルーマニア社会主義共和国の元首で、ルーマニア共産党政権を取り仕切ったニコラエ・チャウシェスクの妻。
1919年にルーマニア・ワラキア地方で生まれたエレナは小学校を4年生で中退したのち、1930年代中盤にルーマニア国民共産党に入党して1946年にニコラエと結婚。
1965年に夫が党の中央書記長に就任すると毛沢東夫人・江青から「指導者の妻はもっと政治に関わるべきだ」とアドバイスを受け政治的な活動を行うように。
このアドバイスが後に良からぬ方向に向かっていくとは、誰が思っていたでしょう。

その後のエレナは秘密警察を使って反対勢力や国民を弾圧、他人に書かせた100以上の論文を発表して名誉博士号を収集するなど。
さらに国家政策として女性の避妊・妊娠中絶を禁止、女性に5人以上子どもを産む清作を実施するなどの暴君ぶりを発揮。
加えて離婚に大きな制約を加えたことから街には捨てられた子どもがあふれ、ストリートチルドレンになる子どもや「エイズ」に感染する子どもが増加してしまい、そうした子どもは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれるように。

こうして国民が苦しい生活を強いられる中、チャウシェスク夫婦は息子が惚れた体操選手ナディア・コマネチを連れてこようと秘密警察を利用しようとしたり、贅沢の限りを尽くした豪邸「国民の館」を建設したり豪勢な生活を堪能。
苦しい生活を敷いていながら「国民の」とは名ばかりですね。
こうした横暴の限りを尽くした夫婦は1989年の「ルーマニア革命」で拘束され、最終的には「大量虐殺と不正蓄財などの罪」で起訴。
12月25日に銃殺刑が確定すると即日執行で夫とともに銃殺。
国民は憎きトップの死にざまをスカッとした思いで見ていたのでしょうか。

裏の顔は恐ろしき黒魔術師「ラ・ヴォワザン」

ラ・ヴォワザン(旧姓カトリーヌ・デエー)は17世紀のフランスで黒魔術師として有名になった女性。
彼女は宝石商を営む夫、娘の3人暮らしであり、表向きは豪邸に客を招いて宴会を開く生活を送る女性でした。
この情報だけ聞いていれば「悪女」という側面は全く見えませんね。

しかしそのようなヴォワザンは裏で恐ろしい一面を持っていました。
普通の生活を送っているように見えたヴォワザンは毒薬の実験や製造、悪魔崇拝の儀式を裏で行なっており、黒ミサ(ローマ・カトリック教会に反発するサタン崇拝者の儀式)についての活動も実施。
夫が亡くなったあとも表向きは占い師・助産師という「普通の女性」として生活しながら毒薬販売、堕胎業、黒魔術にかかわる活動を行っており、ヴォワザンが販売していた毒薬などを国内の貴婦人が身分を隠して購入。
こうしたこともあってヴォワザンは莫大な収入を得ることに。
善人のように見える表の顔と裏の差があまりに大きすぎます。

こうした怪しい活動を続けるヴォワサンでしたが、1679年にある女占い師が毒殺商売の罪状で逮捕されると、彼女の自白によりヴォワザンも逮捕。
この逮捕によってヴォワサンは拷問の末に全ての悪事を自白。
こうして悪事のすべてを暴かれたヴォワサンはフランスで設置された「火刑裁判所」で火刑に処されることとなります。

ヴォワサンが処刑された後も問題は収束することなく、今度はフランス国王・ルイ14世のお気に入りであったモンテスパン侯爵夫人がヴォワザンの顧客であったことが判明。
モンテスパンはヴォワサンからルイ14世と愛人を殺す方法を伝授されており、これに驚いたルイ14世は火刑裁判所を閉鎖、事件の関連品をすべて処分してしまい事件は闇の中へ。
王もまさか自分の身に「魔の手」が忍び寄ろうとは考えていなかったでしょう。

若い女性の血を求め続ける「エリザベート・バートリー」

1560年にハンガリー・小カルパチア山脈に囲まれた奥深い城中で生まれたエリザベート・バートリー。
彼女が生まれた家は由緒正しい名門とされる「バートリ家」で、若いころからたいへん美しかったエリザベートは華やかな毎日を送ります。
その後15歳で軍家のナダスティ家に嫁ぐことになったエリザベートでしたが、そこは彼女にとって地獄の環境。
嫁ぎ先は何もない田舎で軍人の夫はほとんど家に帰ってこず、厳しい姑の存在もあって自室にこもる生活を送るように。
そこでは鏡の前で宝石を身につけるなど、自身の美しさを確認する以外にやることが見つかりません。

その後夫との間に6人の子どもを産んだエリザベートでしたが、その頃には自慢の美貌に衰えが見えるように。
そんなある日、彼女についていた若い侍女がエリザベートの髪をとかしていた際に不注意があり、それに激怒したエリザベートが侍女を殴打。
その際に返り血を浴びるとその地によって「肌が輝いて見えた」と感じたエリザベートは若い女性の血に執着を見せるように。
どんなきっかけでも良いから、若さを取り戻すものを求めていたのですね。

こうして血に目覚めたエリザベートは村の貧しい家の娘を城に集め、彼女たちを拷問によって殺した血を浴びるのです。
その中でも「鉄の処女」と呼ばれる鋼鉄の拷問器具を用いた拷問はたいへん有名なもので、この器具を用いて殺した女性の血液を浴槽へ溜め、その浴槽にエリザベートは入浴していました。
彼女は失われた若き日々、美しさを取り戻すのに必死になっていたのかもしれません。

しかしこうしたエリザベートの悪事はやがて公に知られることに。
村の娘を集められなくなったエリザベートは貴族の娘にも手を出すようになり、ここから問題が発覚。
捜査当局が城に捜査へ向かうとそこに残るのは多くの犠牲者とわずかな生存者の姿。
裁判にかけられたエリザベートはチェイテ城の一室に閉じ込められ、そこで3年間過ごしたのちに亡くなります。
彼女が人生で失ったものはあまりにも大きすぎましたね。







生涯の愛人は数十人から数百人「エカテリーナ2世」

1729年に北ドイツで生まれたエカテリーナ2世ことゾフィー・アウグスタ・フレデリーケは貧しい貴族の出身でありながら1744年6月29日にはのちに第7代ロシア皇帝となるピョートル3世と婚約、皇太子妃となります。
夫婦はピョートル3世の「性器能不全」により約8年間は性的関係を持たない生活を送っていましたが、この時代は「世継ぎを生まなければいけない」という考えが一般的な時代であったため、必ず子どもを産まなければいけません。
そこで「愛人」の存在を進められたエカテリーナは愛人セルゲイ・サルティコフとの間に無事子どもを出産。

しかし初めての愛人を作ったエカテリーナは「それまで溜まったもの」が一気に爆発したかのように愛人を作り始めることに。
その後はポーランド国王になるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ、グリコリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ(ロシアの名家・オルロフ家の「オルロフ4兄弟」次男)、グリゴリー・ポチョムキン(ロシア帝国の軍人)など多くの愛人を作り続け、夜ごとに相手を変えて寝室をともにしたことも。
世継ぎを残すために愛人を作り始めてからは事がどんどん進みますね。

こうしてエカテリーナの作った愛人の数は12人から21人、または数百人とも言われており、彼女の孫にあたるニコライ1世はエカテリーナを「玉座の上の娼婦」とまで酷評。
しかしこうしてみると彼女の振る舞いは当時の時代背景も絡んでおり、彼女の振る舞いは時代に影響されたと言えなくもないでしょうね。

稀代の悪女「カトリーヌ・ド・メディシス」

1519年にイタリア・フィレンツェで生まれたカトリーヌ・ド・メディシスは、ルネサンス期のフィレンツェを実質的に支配した「メディチ家」の一員。
そんなカトリーヌは1533年に当時のオルレアン公アンリ(のちの第10代のフランス王アンリ2世)と結婚しますが、ここで夫に20歳年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワティエがいることが運命を狂わせます。

ディアーヌは「絶世の美女」と言われるほどの美貌を持っていましたが、それに対してカトリーヌはあまり美しい容姿とはいえず、夫はカトリーヌに見向きもしません。
アンリは国王に即位した際の即位式でディアーヌのイニシャル、紋章を縫い取った式服を身にまとったり「シュノンソー城」を送ったりするほどディアーヌを寵愛しますが、カトリーヌにはわずかな王室費が与えられただけ。
おまけにカトリーヌが生んだ子どもの養育主導権もディアーヌに渡ってしまい、カトリーヌは過酷な冷遇生活を送ることに。
これは確実に精神がむしばまれますね。

しかし馬上槍試合に出場したアンリ2世が相手の槍を受けて亡くなると、カトリーヌは自身の王子をフランソワ2世として即位させ自身は摂政の座に。
権力を得たカトリーヌはアンリ2世がディアーヌに贈った宝石を全て返還させ、シュノンソー城からディアーヌを追放。
幾多の屈辱を受け続けた日々、溜まり続けた恨みをここに晴らしてやろうということですね。

こうして恨みを晴らしたカトリーヌはそれ以後アンリ2世を追悼する黒い衣装しか着なくなり、幼いシャルル2世が即位すると政治の実権を握るように。
そしてフランス国内でカトリックとユグノー(フランスのカルバン派教徒)との「ユグノー戦争」となっていた時期には融和を図るためにユグノーの指導者・ナバラ王アンリと王妹マルグリットを結婚させますが自体は良い方向に向かわず、ユグノーの中心人物・コリニー提督が狙撃されると「サン・バルテルミの虐殺」に発展。
人生最後の最後で大きな事件にかかわることになってしまいましたね。

人生の教訓として記憶にとどめておきたい

今回取り上げた歴史に残る女性たちの中には「黒魔術師」や「独裁」など恐ろしい一面を見せた人物、派手な愛人関係が有名な人物とおり、個性的・悪女と言ってもさまざま。
彼女たちがこのようになったところには、過酷な環境によってそうせざるを得なかった例もあります。
通常の生活でこれほど個性的な人物・悪女に出会うことはないかもしれませんが、人生の教訓として記憶にとどめておくのは良いかもしれません。
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