【織田信孝の歴史】信長の血を継ぎながら後継ぎになれず無念の死を遂げた武将とは?

歴史上の人物の中で特に有名な人物の1人とされる織田信長。日本の戦国時代に活躍した信長は現在まで「三英傑」の1人とされ「天下統一」に関わったことで知られますが、生涯で残した子どもは20人以上という「子だくさん」でもありました。今回はその信長の子どもから「織田信孝」を見ていきましょう。


若くして神戸氏の養子に

若くして神戸氏の養子に

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1558年(永禄元年)4月4日、織田信長の三男として家臣・岡本良勝(太郎右衛門)邸で誕生した織田信孝。
幼名は「勘八」。
上には1歳年上の兄・信雄がいましたが、生まれた順番については「母親の身分が低かったため」あるいは「信長への報告が遅れたため」に三男になったとの説が存在しますが、はっきりしたことはわかっていません。
こうして生まれた信孝は1568年(永禄11年)2月、信長の伊勢攻略時に降伏した北伊勢の国人領主・神戸具盛(かんべとももり)との和睦条件として具盛の養子になります。

こうして養子となった信孝ですが、1570年(元亀元年)頃から養父・具盛に冷遇されたことで関係がこじれ、これを聞いた信長は具盛を伊勢沢城に強制隠居、さらに近江・日野城に幽閉してしまいます。
これによって1571年(元亀2年)に神戸氏を継ぐことになった信孝は家督相続に反対した旧臣を粛清、120人の家臣を追放。

神戸家の家督を相続した信孝は1572年(元亀三年)に岐阜城で元服。
その後は信長の命令で「神戸検地(元亀2年頃)」と呼ばれる検地を実施、城下に「楽市・楽座(信長がおこなった)」や伝馬制(でんませい又はでんばせい。
使者や物資を馬で運ぶ交通制度)を敷くなどの政策を実施。
信孝が整備した神戸城下は伊勢参宮街道の宿場として繁栄することに。
「できる人」の雰囲気がありますね。

戦い・交渉事の両方で活躍

戦い・交渉事の両方で活躍

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神戸家の家督を相続、神戸城下を繁栄させるなど有能ぶりを見せる信孝はついに初陣を果たします。
初陣は1574年(天正2年)7月の「長島一向一揆攻撃」で、これを始めとして1575年(天正3年)の「越前一向一揆」、1578年(天正6年)4月には兄・信忠に従って大坂、5月に播磨国(現在の兵庫県南西部)に出陣するなど数々の戦闘に従軍。

こうして戦いにおいて活躍する信孝は交渉事でも才能を発揮しており、信長の側近として活動していた1580年(天正8年)には織田家の家臣・村井貞勝(むらいさだかつ)を補佐して在京、禁裏(きんり。
皇居のこと)との交渉に加わることも。
戦って良し、交渉能力も良し、跡を継がせるには最適な人材ですね。

こうした才能を見せる信孝を信長も評価していたのか、7月には本願寺教如が退去するに際して誓詞(せいし)を交わすために上京する信長に付き添い。
またこの年神戸城の拡張工事にも取り掛かり、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭を完成。
1581年(天正9年)の「京都馬揃え(信長が京都で行った大規模な観兵式)」では信忠、信雄、信包に続いて4番目に位置したとも言われており、信長も「こいつはやれるやつだ」と相当期待を寄せていたのでしょう。

信長から「四国攻め」の総司令官に抜擢

信長から「四国攻め」の総司令官に抜擢

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こうして才能を見せる信孝はさらに能力を見せつけます。
1582年(天正10年)正月15日には「左義長(さぎちょう。
正月15日に行う火祭り)」に連枝(れんし。
貴人の兄弟)衆として参加。
5月には信長から「四国攻め」の総司令官に抜擢されることになりますが、ここで指揮権を与えられた一門衆は信忠・信雄・信孝の3人のみ。
またこの時に信長が出した朱印状では「征服後には讃岐一国を信孝に与える」としており、信孝が三好咲岩の養嗣子として三好氏を継承、四国を治めることも予定されていたとのこと。
信長は信孝の才能を高く評価していたのでしょう。

こうして「四国攻め」の総司令官に抜擢された信孝は5月27日、14,000の兵を従えて安土に。
翌28、29日に軍勢が摂津国(現在の大阪府)に到着すると信孝は住吉に着陣。
こうして到着した信孝は四国(淡路)渡海の決行を6月3日と決定、いよいよ信孝にとって大きな戦いが始まろうとしていました。

運命を変えた「本能寺の変」

運命を変えた「本能寺の変」

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「四国攻め」の総司令官として戦いに挑もうとしていた信孝でしたが、その信孝のもとに飛び込んできたのは耳を疑う一報。
父・信長の死でした。
信孝の「四国攻め」が前日に迫った6月2日、京都・本能寺に滞在していた信長は家臣・明智光秀の謀反(むほん。
裏切り)によって襲われ、兄・信忠と共に命を落としてしまったのです。
こうした信長の死は一般人にまで知れ渡る大事件となり、知らせを受けた兵はほとんどが逃げてしまうことに。
目前に迫った四国行きだけでなく、父の敵討ちもこれでは難しいでしょう。

しかしこのような状況でも、父の敵討ちをしようという思いは変わりません。
6月5日になると丹羽長秀・蜂屋頼隆(はちやよりたか)と謀って大坂城千貫櫓(せんがんやぐら)を襲い、明智光秀の娘婿・津田信澄(つだのぶずみ)を殺害。
津田は信孝と共に四国へ向かう予定の人物でしたが、謀反が「信澄と光秀の共謀である」といううわさを聞いた信孝は津田の殺害を決意。
父の敵討ちをしたいという思いが強いのはわかりますが、噂が出ている程度で殺してしまうのは少し早まった感もありますね。

父の敵討ち「山崎の戦い」

父の敵討ち「山崎の戦い」

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こうして信孝が娘婿を始末した一方、信長の家臣・羽柴秀吉は素早い動きを見せていました。
このときの秀吉は「備中高松城の戦い」の最中でしたが、主君・信長の死を知ると対決していた毛利氏との講和を素早く取りまとめ、明智光秀を討つために約10日間かけて京都へ大移動してきたのです。
こちらも主君の敵討ちに並々ならぬ思いで挑もうとしていたのでしょう。

こうして秀吉が大移動で摂津国尼崎に着陣すると信孝は秀吉と会見。
この後の総大将として信孝が立てられることに。
こうして陣容が決まった後の13日、信孝勢は少し遅れて摂津国富田で合流して「山崎の戦い」で光秀を撃破、これによって父の仇を討つことに成功。
この戦いでは信孝勢4,000、秀吉勢が主力2万余を率いて全軍を秀吉が指揮(『太閤記』による)する形で戦いは展開。
これによって父の敵討ちは果たされることになったのです。

後継ぎに指名されず・秀吉との対立

後継ぎに指名されず・秀吉との対立

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見事父の敵討ちを果たした信孝ですが、ここから事件は起きます。
戦いが終了した6月27日に開かれた「清洲会議」では「信孝が天下の主となる(『耶蘇年報』による)」という噂が立ち、柴田勝家から織田家当主に推薦されることに。
しかし織田家当主として家督を継ぐのは秀吉が推薦した信長の嫡孫・三法師に決定、後継者になれなかった信孝は兄・信雄と共に三法師の後見役に。
兄・信忠の領地であった美濃国一国と岐阜城を与えられ家老にもなっていますが、この決定を聞いた際は「なぜ能力のある息子の自分ではないのか。
信じられない」という気分であったことでしょう。

後継ぎに失敗した信孝ですが、ただでは引き下がりません。
7月4日、信孝は本能寺に対して信長の御屋敷として造成された本能寺跡地を墓所とするよう命令。
家督問題を片付けた後、同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的配下に置くとこれによって秀吉と対立。
対立した信孝は柴田勝家に接近していくことに。
「秀吉め、勝手なことしやがって」信孝の怒りの炎は燃え盛っていたのかもしれません。

こうして信孝と勝家が手を組むと10月6日、勝家は堀秀政を介して「秀吉が清洲会議の決定に違反している」と通告。
すると秀吉はこれを無視して勝家を挑発しはじめ、大徳寺で行われた信長の葬儀の喪主を自身が務めることに。
この葬儀の際は信孝だけでなく織田家当主の三法師、信雄、信孝らは参列ることができませんでした。
父の葬儀にすら出られない信孝は「秀吉にメンツをつぶされた」と怒り狂っていたことでしょう。

無念の降伏・壮絶な死へ

無念の降伏・壮絶な死へ

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こうして秀吉と対立する構図になった信孝。
11月2日、勝家は前田利家を介して秀吉と和睦しましたが、一方の秀吉は雪で勝家が動けない期間を狙って挙兵。
信孝の岐阜城を囲んでしまいます。
この秀吉の行動に信孝は降伏せざるを得なくなり、母の坂氏や乳母、娘らを人質として供出することで和睦。
この戦いでは森長可(もりながよし)や稲葉良通(いなばよしみち)、与力(よりき。
有力武将に従う武士)の氏家行広、家老の岡本良勝、斎藤利堯もが秀吉側に寝返ってしまいます。
味方に家族、周囲の人間を失った信孝は厳しい状況に立たされましたね。

こうして秀吉の前に苦戦を強いられる信孝は1583年(天正11年)正月に伊勢で滝川一益、3月に柴田勝家が挙兵するとそれに反応して自らも挙兵。
こうして「賤ヶ岳の戦い」が始まると4月16日、秀吉は江北陣より美濃に入り岐阜城を包囲。
20日に「賤ヶ岳砦の戦闘」で勝家を破ると、勝家は24日に北ノ庄城で妻・お市の方と共に自害。
信孝は大きな後ろ盾を失い苦境に立たされます。

信孝に大きな痛手を負わせた秀吉は25日に再び岐阜城を包囲。
さらにここで登場するのは秀吉側に付いた兄・信雄。
信雄は信孝を欺き和議を持ちかけると岐阜城を包囲。
兄の攻撃を受けた信孝はもうなすすべがありません。
こうして追い込まれた信孝はついに力尽き、尾張国知多郡に向かった後野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)・安養院で信雄の命によって自害。
26年の短い生涯を閉じることに。
辞世の句として「むかしより 主をうつみの野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前」の一句を残しての無念の死でした。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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