佐賀城の観光前に知りたい今・昔。水堀に囲まれた名城跡を訪ねて

JR長崎本線佐賀駅の南口を出てのんびり歩くこと30分。商店やオフィスビルが立ち並ぶ県道を南へ進むと、目の前に巨大なお濠が姿を現します。濠は幅が広くたっぷりと水を貯えていて緑豊か。川や運河と勘違いする人も多い、アルファベットの”G”の字を描くように残る巨大濠に囲まれた敷地内に天守閣は残っていませんが、日本100名城にも選ばれている佐賀城。濠や石垣は壮麗で見ごたえがあります。そんな佐賀城がどのようにして生まれ、歩んできたのか、歴史を紐解きながら、その魅力をご紹介してまいります。

佐賀城の歴史(1)築城から江戸時代まで

龍造寺氏の居城・村中城

龍造寺氏の居城・村中城

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現在の佐賀城跡周辺は、佐賀県庁を始め多くの公共施設や企業、住宅が立ち並ぶ佐賀市の中心地。
佐賀平野の中心付近にあたるこの場所は、有明海から脊振山地(せふりさんち)の麓沿いに東西縦に細長く福岡方面まで伸びる平地となっていて、古くから多くの人々の暮らしがありました。

7世紀末ごろになると、律令制下の国として肥前国(ひぜんのくに)と呼ばれるようになり、国府が置かれ、多くの領主たちが土地を治めるようになります。
時代が進んで戦国時代に入ると、その中のひとつ、龍造寺氏(りゅうぞうじし)という一族が一帯の有力領主たちを従えて戦国大名へ。
北九州方面へも勢力を広げる一方で領内に城下町を形成し、佐賀龍造寺城(村中城)を築きます。

龍造寺一族の最盛期を築いた当主・隆信(1529年~1584年)やその子孫たちが居城でもあった村中城。
1570年には同じく九州の有力大名大友氏の大軍による攻撃を受け、落城の危機に直面します。
龍造寺氏は籠城して抵抗しますが形勢は不利。
しかし龍造寺氏重臣、鍋島直茂が大友軍の本陣を夜襲して総大将の首を取り(今山の戦い)、大友軍を退けるという大役を成し遂げ、大友軍は退却。
息を吹き返した龍造寺隆信はこれ以降、九州北部を制圧すべく勢いを増していきます。

村中城から佐賀城へ

村中城から佐賀城へ

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九州北部を制圧すべく勢いに乗っていた龍造寺隆信ですが、1584年、島津、有馬軍との戦い(沖田畷の戦い)で、志半ばにして戦死してしまいます。
龍造寺本家は断絶。
隆信の嫡男で家督を継いでいた政家の後見人にもなっていた重臣・鍋島直茂が実権を握ります。
時の権力者・豊臣秀吉に認められ龍造寺氏に代わって国を治めつつ、関ケ原の合戦では先を見据えて東軍に参戦。
江戸幕府の政権下で佐賀藩主となった後の1602年(慶長7年)から村中城の改修を始めています。

現在の佐賀城跡には、天守台が残るのみで天守閣はありませんが、直茂の計画を引き継いで長男勝茂の代まで、10年近い歳月をかけ、外観4重内部5階建て、高さ38mにも及ぶ天守が建てられたのだそうです。
また、現在の佐賀城跡のシンボルともなっている幅80mにも及ぶ内堀も、このころに築かれました。

佐賀城は江戸時代に何度も火災にあっており、本丸をはじめ建造物の多くは焼失と再建を繰り返しています。
1726年(享保11年)の大火で天守を始めとする本丸建造物の大半が焼け、これ以後、藩政は再建された二の丸で執り行われるようになったのだそうです。
現存する門や櫓は1838年(天保9年)以後に再建されたもの。
残念ながら天守は再建されませんでした。

城主:鍋島直茂とは

城主:鍋島直茂とは

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地元佐賀では大変有名な鍋島直茂ですが、一般的な知名度はあまり高くないのかもしれません。

鍋島直茂(1538年~1618年)は戦国時代から江戸前期にかけて活躍した武将。
何度か改名しているため、他の名で呼ばれることもありますが、”直茂”と表記されることが一番多いようです。

『肥前の熊』と恐れられた龍造寺隆信は8歳年上。
主君と家臣の間柄であると同時に義兄弟でもあり、二人は強い絆で結ばれていました。
直茂は隆信の元で次々と武勲を立て、名を上げていきます。
特に1570年の今山の戦いでは、隆信が村山城に籠城する中、敵陣に夜襲をかけて敵を撃破するなど大きな手柄を立て、龍造寺の忠実な重臣・参謀・軍師という地位を不動のものにしました。
これ以後も直茂は龍造寺を盛り立て、隆信は”五国二島の太守”と言われるまでに成長していきます。

しかし、この関係は長くは続きませんでした。
強大な権力を手に入れた隆信は次第に傲慢で身勝手な振る舞いを見せるようになっていきます。
村中城から離れて別の居城に移り、酒に溺れ、憂いで諫め進言を繰り返す直茂を疎んで遠ざけてしまうのです。

隆信が戦死した後は龍造寺政家を補佐してお家の建て直しに尽力。
このときの働きは豊臣秀吉の耳にも届き、龍造寺氏内でも直茂に傾倒する者が増えていきます。
関ケ原の戦いで東軍勝利を確信し、徳川家康への忠誠を証明するべく久留米城や柳川城など九州の名だたる城を次々に降伏開城。
家康にも認められ、鍋島家は佐賀藩主へ。
ただ、龍造寺氏への配慮からか、直茂は藩主を名乗ることはなく、長男勝茂が初代藩主ということになっています。
1634年、龍造寺一族は龍造寺家の再興を江戸幕府に嘆願していますが叶わず、以後、佐賀藩と佐賀城は鍋島家によって受け継がれていきます。

波乱万丈の人生を送って来た鍋島直茂がこの世を去ったのは1618年(享年81)。
当時としては大変な長寿でした。







佐賀城の歴史(2)江戸~幕末~現代まで

江戸時代の佐賀城

江戸時代の佐賀城

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佐賀城跡の天守台跡の説明書きによれば、今は無き佐賀城の天守閣は”破風のない素朴ながらも実戦向きの建物”であったのだそうです。

”沈み城”との異名を持つ佐賀城。
敵の攻撃を受けた際、水をせき止めることで天守と本丸の一部を除く城下全体が水に沈んで敵の侵入を阻む設計になっているという、城の構造からその名が取られたと言われています。
しかし一説には、他の城の天守閣が遠く離れても高々とそびえて見えるのに対し、佐賀城の天守は少し遠ざかるとまわりの楠や松に隠れて見えなくなってしまうところから、そのように呼ばれるようになったとの説も。
徳川の時代、戦がなくなり城の役割が変わっていったことで、そのように言われるようになったのかもしれません。

1726年、四代藩主吉茂のときの大火で本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失。
本丸や二の丸御殿はその後再建されましたが、天守閣は再建されることなく、現在では天守台や付櫓(つけやぐら)の石垣が残るだけとなっています。
再建されなかった理由は定かではありません。

江戸幕府政権下の佐賀藩は、福岡藩と交代で長崎警備を命ぜられ、城下町に長崎街道が通ったことなどから、出島から入ってくる異国文化に触れる機会にも恵まれ、技術文化面でも大きく栄えていきます。
ただし、警備には莫大な費用がかかるため、藩の財政は決して豊かなものではなかったようです。
想像の域を出ませんが、もしかしたら、当時の佐賀藩にの人々は、飾りとしての豪華な天守閣より実務的な建物を必要とした…のかもしれません。

幕末動乱期の佐賀城(佐賀の乱)

幕末動乱期の佐賀城(佐賀の乱)

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”佐賀の七賢人”と称された十代藩主鍋島直正(なべしまなおまさ:1815年~1871年)の代になると、西洋技術の取り入れや財政改革などに積極的に取り組み、藩の財政も潤っていたといいます。

若くして藩主となった直正。
始めの頃は、先代の藩主で父親の斉直の取り巻きたちの前に屈する日々が続いていたようですが、1835年に起きた大火で佐賀城二の丸が焼けた際、斉直や取り巻きたちの反対を押し切って本丸に御殿を移転。
佐賀城の再建を敢行します。
これを機に、大幅な人員削減や大胆な財政の立て直し、陶磁器や茶など藩内の産業に力を入れるなど改革に従事。
さらに、長崎警備強化の際に幕府から支援を受けることができなかった経験から、蒸気機関や大砲の開発、製鉄所の整備など、藩独自に西洋の軍事技術の導入を進めるなど、佐賀藩を近代化へと導き、江藤新平、大隈重信、佐野常民など優秀な人材の輩出にも貢献します。
折しも日本全体が明治維新の動乱の中、大きく揺れ動いていた頃のことです。

1874年(明治7年)、江藤新平ら明治政府の開化政策に反対する佐賀の士族が挙兵し、反乱を起こします。
これが世に言う佐賀の乱(佐賀の役、佐賀戦争と呼ばれることもあり)。
佐賀城はこの反乱軍に一時占拠され、激しい戦闘に巻き込まれてしまいます。
反乱軍の数は3000名を超えたと伝えられていますが、武装した政府軍の前に1ヶ月経たないうちに鎮圧され敗走。
佐賀城の建物の大半は失われ、現存する鯱の門に残された弾痕が当時の様子を生々しく伝えています。

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