江戸末期の言論弾圧事件「蛮社の獄」とは?

江戸時代の初期・第3代将軍家光の時代に始まった「鎖国時代」その鎖国時代は特定の国以外との交易・通商を断つ形で続き、数々の事件を経て1850年代に入るまで約200年以上続くことに。今回はそんな鎖国時代に発生した事件から、鎖国時代末期に起こった言論弾圧事件「蛮社の獄」を見ていきましょう。


やってきた外国船は追い払え「異国船打払令」

やってきた外国船は追い払え「異国船打払令」

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今回の「蛮社の獄」には「異国船打払令」という法令が大きく関係しています。
江戸時代から「鎖国体制」を敷いていた日本には時代後期になると通商を求めて外国船が日本近海に出没、数々の事件も発生するように。
1808年(文化5年)に長崎港で起きた「フェートン号事件」では、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦(比較的小型で高速の艦艇で、偵察任務などを主とする)「フェートン号」がオランダ国旗を掲げて入港、これをオランダ船と誤解した出島の商館員が拉致・連行されますが、長崎側は守護兵の不足などもあり対抗できず。
最終的には戦艦側から要求された食料などを提供。
無事に人質は解放されますが長崎側にとっては「何も反撃できずに要求だけ飲まされた」のですから大きな屈辱ですよね。

するとその後も外国船にまつわる事件は絶えず、1824年(文政7年)には水戸藩領・大津(北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸した「大津浜事件」、鹿児島・宝島にイギリス人が上陸した「宝島事件」も発生。
時代は変わろうとしていたわけですが、こうした動きを見た幕府は「これ以上良いようにやられてたまるか」と憤っていたのでしょう。

こうして1825年(文政8年)2月に出された法令は「日本沿岸に接近する外国船を見つけ次第砲撃、上陸した外国人については逮捕する」というもの。
それまでの外国船来航を経て成立したものですが、こうして文面を見ただけでも相当な強硬策であることは想像できますね。

打払令が招いた「モリソン号事件」

打払令が招いた「モリソン号事件」

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こうして幕府が「異国船打払令」を発令しましたが、それにかかわる大きな事件は12年後に発生します。
1837年(天保8年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したアメリカの商船・モリソン号は6月28日に浦賀(神奈川県)に接近。
船は漂流してマカオで保護された日本人漂流者の送り届け、通商を求めてやってきましたが、これを見た日本側は「異国船打払令」に従って沿岸から砲撃。
モリソン号は退去させられることに。
日本側は「さあ来た、何としてでも追い払ってやれ」ということが真っ先に思い浮かんだのでしょう。

その後の船は鳥羽来航にも失敗、鹿児島・薩摩山川港に上陸して薩摩藩家老・島津久風と交渉しますが「漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべき」として島津は通商を拒絶。
薪水と食糧を与えられて帰されますが、沖合に停泊しようとしたため空砲で威嚇射撃を受け、船は通称を断念してマカオに帰港。
このとき日本側は「モリソン号が非武装であり、攻撃するつもりがなかった」ことを知らず、幕府が事実を知ったのは翌年1838年(天保9年)6月に長崎のオランダ商館から報告を受けたとき。
攻撃するつもりではない船を撃ってしまったのですから「大きすぎるミス」ですよね。

高野長英による『戊戌夢物語』

高野長英による『戊戌夢物語』

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こうした幕府のまずい対応が行われる中、その対応を批判する書を発表したのが蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)でした。
1804年(文化元年)に水沢伊達氏家臣・後藤実慶の三男として生まれた長英は養父・玄斎が杉田玄白(すぎたげんぱく)から蘭法医術を学んだ人物で、その影響を受けた長英は幼いころから学問に強い関心を持つように。
1820年(文政3年)に江戸へ向かった後は杉田伯元や吉田長淑(よしだちょうしゅく)に師事、長淑から才能を認められるようになります。

その後父の反対を押し切って長崎に留学すると、出島のオランダ商館医をしていたドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの「鳴滝塾(なるたきじゅく)」で医学・蘭学を学び塾頭を務めるように。
その後1830年(天保元年)に江戸へ戻ると麹町(こうじまち。
現在の東京都千代田区)に町医者として蘭学塾を開業。
1832年(天保3年)からは紀州藩儒官・遠藤勝助の主宰する「尚歯会(しょうしかい)」に入り中心的役割を担います。

その長英は「モリソン号事件」が発生したことを知ると幕府の対応を批判。
打ち払いに反対する考えをまとめた『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆。
内容は前半で幕府の対外政策を肯定、後半は交易を拒絶した場合の報復について述べており、幕府はおかしいと考えながら「一方的な考えに偏らない」ようになっているのですね。

渡辺崋山も『慎機論』で幕府対応を批判

渡辺崋山も『慎機論』で幕府対応を批判

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高野長英が『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』によって幕府を批判したころ、同じ「尚歯会(しょうしかい)」に入っていた渡辺崋山(わたなべかざん)も幕府批判に関する著書を執筆します。
1793年(寛政5年)に田原藩(現在の愛知県東部・渥美半島にあった藩)士である父・渡辺定通と母・栄の長男として江戸・麹町の田原藩邸で誕生した崋山は父・定通が禄(ろく。
主君が家臣などに対して給与する食糧など)を削られたこと、病気がちで医薬品に多くの出費があったことから幼少期は貧しい生活。
弟や妹は奉公(ほうこう。
主人の家に住み込んで仕えること)へ出されてしまいます。

しかしそんな崋山は画家として有名になると、1832年(天保3年)には田原藩の「年寄役末席」に就任。
家格より役職を反映した「格高制」による優秀な人材の登用、藩士の内職として土焼人形の製造法などを伝えるなどの改革を実施。
1836年(天保7年)から翌年にかけての「天保の大飢饉」ではあらかじめ「食料備蓄庫」を築き対応手引き『凶荒心得書』をまとめるなどの対策を行い、藩で全く死者・餓死者を出なかったことから全国で唯一幕府からの表彰を受けることに。
頭の回転が速い敏腕政治家ですね。

こうした実績を残した崋山は「尚歯会」に参加すると、長英などと飢饉対策について話し合いをするように。
そして「モリソン号事件」を知ると彼も幕府の政策に危機感を持ち、幕府に反対する『慎機論』を執筆。
しかし彼は「田原藩の年寄」という立場であったことから著書を匿名で発表することはできず(内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた)、幕府の対外政策については批判できず。
藩での役職は自身の意見を表明するときの「足かせ」になってしまいますね。

裏で動いた男・鳥居耀蔵

裏で動いた男・鳥居耀蔵

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モリソン号事件をめぐって高野長英、渡辺崋山が幕府対応を批判する著書を執筆したころ、裏では鳥居耀蔵(とりいようぞう)という男が動こうとしていました。
1796年(寛政8年)11月24日、林述斎(林衡)の3男として生まれた鳥居は1820年(文政3年)、鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ2,500石を受ける身分に。
その後は11代将軍・徳川家斉の側近として仕えることになります。

その後「目付(めつけ。
老中の下に位置する役職で大名や朝廷を監視、謀反から幕府を守る)」に就任した鳥居は1841年(天保12年)には南町奉行を讒言(ざんげん。
事実ではないことを目上の人に告げ、その人を悪く言うこと)により失脚させ、自身が南町奉行に就任。
奉行としては「おとり捜査」を常套手段として厳しい取り締まりを実施したことから「蝮(マムシ)の耀蔵」や「妖怪」とあだ名をつけられることも。
人々ははっきり不満を言うことはできないでしょうが、その嫌われようは相当なものですね。

そんな鳥居は1839年(天保10年)、江戸防衛のために江戸湾調査を命じられ、副使の江川英竜と共に現地を回ることに。
しかし儒学を信奉していた鳥居は江川が「洋式測量技術」を用いたことで対立。
こうして鳥居は蘭学者を嫌悪するようになります。
そして鳥居は『戊戌夢物語』が1839年(天保10年)春ごろに老中・水野忠邦に達すると水野から「モリソン」という人物、そして『夢物語』の著者を探索するよう命を受けることに。
物事はいよいよ動こうとしていました。

弾圧本格化・高野長英や渡辺崋山を拘束

弾圧本格化・高野長英や渡辺崋山を拘束

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こうして老中・水野忠邦から探索を命じられた鳥居はいよいよ動き出します。
鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに命じて『夢物語』の著者探索、崋山の近辺について内偵するよう命令。
そして情報を提供した下級役人・花井虎一からの「密訴」という形の告発状を水野に提出。
人々に厳しい取り締まりを実施する鳥居の、その動きの速さは不気味すぎます。

こうした調査によって政治を論じた『慎機論』『西洋事情』などの草稿が発見された崋山、『戊戌夢物語』を執筆した高野は「政治誹謗」によって捕らえられることに。
こうして捕らえられた崋山、高野らは北町奉行・大草高好による吟味(ぎんみ。
罪を詳しく調べ確かめること)を受けることとなり、高野は「永牢」の判決を受けて伝馬町牢屋敷に収監。
崋山も陪臣の身で国政に「容喙(ようかい。
横から口を出すこと)」したことによって罪を受けることとなります。

こうした拘束に対しての波紋は大きく、崋山がそれまで交流を持っていた高官や儒学者らは「崋山と無関係である」ことを強調。
彼らは「自分たちの身に危険が降りかかるのは御免」ということでしょうかね。
しかしこうした中でも崋山の逮捕に反対する人は多く、崋山の画弟子・椿椿山が中心となって弟子・友人達が崋山へ差し入れ活動を実施。
弟子たちは「師匠を罪人扱いされてたまるか」の思いがあったのでしょう、崋山の出獄・減刑のために動いていきます。

崋山のその後・無念の最期

崋山のその後・無念の最期

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「蛮社の獄」によって罪を受けた崋山でしたが、その中でも活動を行います。
田原で蟄居(ちっきょ。
特定の場所に謹慎させられる刑)を受ける)の刑に処されることになった崋山は田原の池ノ原屋敷で厳しい謹慎生活を送りますが、1841年(天保12年)に一家の貧窮ぶりを心配した崋山の弟子・福田半香(ふくだはんこう)が屋敷を訪れると、福田の計らいで江戸において崋山の書画会を企画してもらうことに。
厳しい生活を送っていた崋山としては、どうにかして再起を図りたいところですからね。

しかしそうした動きがうまくいくことはありません。
崋山が「生活のために絵を売っている」ことが田原藩で問題視されていると噂が立つようになり、この噂で「藩に迷惑がかかる」ことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登(ふちゅうふこうわたなべのぼり)」との絶筆の書を遺すと池ノ原屋敷の納屋にて切腹。
49歳で自ら生涯を終えることに。
半香にとっては「師匠のためになる」と思って行ったことが師匠を死に追いやるとは、相当なショックであったことでしょう。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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