【島原の乱とは?】飢饉と重税とキリシタン弾圧が原因?宗教というものを考えさせられる…

みなさんは「島原の乱」についてどのくらいご存知ですか?

「キリシタンが蜂起し、天草四郎を担いで幕府と戦った」くらいではないでしょうか?

私もそうでしたが、実はその一言で語りつくせないほど、激しい戦いと、人々の宗教への思いがあったのです。

ここでは、島原の乱の詳しい戦況と、

なぜこの乱は起こったのか?

天草四郎とはどんな人?

などのことについて触れていきたいと思います。

島原の乱は何が原因で起こった?

乱以前の天草・島原でのキリシタンの取り締まりは?

乱以前の天草・島原でのキリシタンの取り締まりは?

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天草地方はかつてはキリシタン大名であった小西行長の領地でした。
豊臣秀吉は伴天連追放令で領主が住民にキリシタン信仰を強制することを禁止していましたが、秀吉に重用されていた行長の領国では大して意味を持たず、寺社がキリシタンによって破壊され、キリシタンに帰依しないものが処刑されたりしていました。

その後小西行長が関ヶ原の戦いで、石田三成に味方して破れて処刑された後の慶長6年(1601年)に寺沢広高が入部。
広高はキリシタン大名ではありませんでしたがキリシタン信徒の勢力を無視することはできず、容認する方針に。

しかし、広高は幕府の禁教令を受けてキリシタンに対する迫害を開始。
ただし、天草のキリシタンは数が多く厳重な取り締まりはできませんでした。

一方、乱より前の島原では、キリシタン大名有馬晴信が領民にキリシタンへ立ち帰るのなどキリシタン政策を推進し、宣教師に乗せられ、仏教など「異教徒」たちを迫害。

岡本大八事件で晴信が刑死すると実子直純が後継者となり、直純は晴信の時代から180度転換し、キリスト教を禁止。

直純が日向国へ去った後、元和2年(1616年)松倉重政が入部。
重政は当初キリシタンを容認しましたが、寛永2年(1625年)になると島原中でキリシタンの摘発が行われ、改宗を拒んだキリシタンが温泉山(雲仙岳)の「地獄」に沈められました。
マグマの中に放り込まれることを思うとゾッとしますね。
このキリシタン迫害により、キリシタンの勢力は大人しくなったそう。

飢饉による重税の苛政がキリシタンの蜂起へとつながった?

飢饉による重税の苛政がキリシタンの蜂起へとつながった?

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一方、キリシタンの隆盛と一揆蜂起の最大の原因は、島原・天草地方が当時見舞われていた深刻な飢饉と、それを顧慮せずに島原・唐津両藩で領民に重税を課したことが原因と考えられてきました。

重政の子・勝家は領民には取れる限りの税を課し、彼らはほとんど餓死寸前で木の根、草の根で命を保っていたそう。

また松倉家では未納の年貢を取り立てるために川の中に「水籠」というものを作り、年貢を納めない百姓の母親や妻子を捕らえて水籠に入れて拷問し、年貢を督促したといいます。

口之津村の大百姓与三左衛門の未進米30俵を取り立てるために、妊娠中だった与三左衛門の嫁が水籠に入れられ、嫁は死んでしまいました。

怒った与三左衛門は頭百姓と語らい、天草領にいた嫁の実父など親類などを加え700〜800人が同心。
天草でも年貢の取り立ては厳しく、天草領の百姓たちが加わり、さらに百姓の中にキリシタンが多かったため、残らずキリシタンとなって蜂起したといいます。

またこのキリシタンの蜂起は幕府への全面対決ではなく、むしろ幕府の役人に現状を訴えるための手段だと考えられていたそう。

島原での一揆勢ははどのように蜂起した?







島原のキリシタン達はどのように蜂起した?

島原のキリシタン達はどのように蜂起した?

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17世紀前期の寛永14年(1637年)、100年に渡って続いた戦乱の気配もようやく遠のき、江戸幕府の統治も安定を見せ初めていた時期に、九州の一角で突然起こったキリシタンの武装蜂起は、幕府や各地の大名をはじめ、多くの人々に強い衝撃を与えました。

まずこの乱は寛永14年(1637年)10月25日、肥前国高来郡(たかくぐん)島原領(現長崎県島原市・南高来郡)で蜂起したキリシタンにより、島原藩の大名松倉勝家(かついえ)家中の代官林兵左衛門(はやしへいざえもん)らが殺害されたことから始まりました。

有馬村では三吉・角内という2人の百姓が天草大矢野に行って益田四郎(天草四郎)に帰依(きえ)してキリシタンが礼拝する絵像を授与され、村に持ち帰り村人を集めて布教する会合を行い、そこでは700名の男女が「立ち帰った」(仏教などの他の教徒からキリシタンになること)といいます。

翌日松倉家中の代官がこの2人を捕らえ、島原城に連行して処刑。
しかし、キリシタンたちは集会をやめず「三吉・角内は天上し、自由の身となった」と称して礼拝。

25日、これを解散させるために向かった林兵左衛門をキリシタンたちは殺害し、蜂起。
キリシタンたちは村々に触れ状を回して「代官・僧侶・神官らを殺害せよ!」と蜂起を訴えたといいます。

これに呼応した村々のキリシタンの手により、口之津などで代官、僧侶、行きがかりの旅人までが斬殺されたり、磔(はりつけ)にされたり、馬に乗せられて村々を引き回された上斬殺されたという知らせが島原城に届きました。

領内を2分する内乱に

領内を2分する内乱に

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島原城下もかつてはキリシタンだった者が多く、無条件で藩方に味方したわけではなく、すでに家財を非難させ、妻子は一揆方に人質として送り、自分たちだけ家に残っている町人もいたそう。

一方城下町では町奉行の差配により町の別当(町役人)、乙名(おとな)たちを糾合し一揆に対する防備を固め、松倉家の武士たちに「味方するから武器を貸して!」と申し入れ、武士たちは彼らの人質を城に入れ、鉄砲・長柄(ながえ)などを貸し与え、味方に。

10月26日に島原藩の武士たちが深江村に総勢200人で向かい、さらに島原近くの安徳村を味方につけ(村の勢力は藩側にもキリシタン側にもどちらにもつく可能性がある勢力とみなされていました)、深江村の一揆勢を村の中に追い込み、激戦の末、藩方は村のあちこちに放火し島原城へ帰還。

しかし、すでに一揆勢は島原藩士たちの予測を超えて方々に広がっていました。
26日早朝、7ヶ村のキリシタンが蜂起し、城下へ押しかけ、島原城方は大手口4門を防いで籠城。

また、一揆の中には女性もいて、籠城態勢の島原城に放火しようとした一揆勢20〜30人の死骸がさらし者にされていた中に4人ほど女性がいたそう。

島原城は毎日毎晩のようにキリシタンの攻撃にさらされ、松倉家の家老田中宗夫らは豊後目付に事態を知らせ、熊本の細川家や佐賀の鍋島家に加勢を願いました。
また島原城下の村々も、場内に入って一揆勢と戦ったり、一揆勢に加勢したり様々だった模様。
領内を2分する内乱となったのです。

「この世ならぬカリスマ」天草四郎とは?

「この世ならぬカリスマ」天草四郎とは?

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三吉・角内のような布教集会は島原藩領の中でかなり広く見渡せる事件で、また城方となった人々が籠城している島原城で大量の「立ち帰り」キリシタンが摘発される事件も。

またこの26年前に追放された「伴天連」(バテレン、宣教師)が「今から26年後に『善人』が出現する。
文字に精通し、その出現が天にも現れる」と予言。

この「善人」が「習わないのに文字に精通する利発さ」で人々を驚かせた、小西行長に仕えていたと言われる牢人益田甚兵衛好次(じんべえよしつぐ)の子・益田(天草)四郎時貞とされたのです。

彼は稽古なしに読書をし、諸経の講釈を行い、空を飛ぶ鳩を手の上に招き寄せ、そこで卵を産ませた上、卵を割ってキリシタンの経文を出してみせたといいます。

この四郎の奇跡を聞き、キリシタンに帰依したものが集まり、一揆の人々は四郎を不死身だと信じ、この世ならぬカリスマとしてキリシタンから崇められていたといいます。

次のページでは『天草での戦いはどう展開した?』を掲載!
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