【岩倉具視の歴史】倒幕と明治維新に貢献した「維新の十傑」の1人を追う

江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した政治家「岩倉具視(いわくらともみ)」。日本の「500円札」デザインにも採用された彼は倒幕と明治維新に貢献した「維新の十傑(いしんのじっけつ)」の1人に数えられ、近代国家の形成に大きく関わった人物そして知られています。そんな倒幕と明治維新に貢献した「維新の十傑」の1人・岩倉具視とはどのような人物であったのでしょうか。


容姿・言動で異彩を放った幼少期

容姿・言動で異彩を放った幼少期

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1825年(文政8年)に公卿・堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に誕生した岩倉具視。
幼少期は「周丸(かねまる)」と名乗っていましたが、異彩を放つ容姿や言動から「岩吉」と呼ばれることも。
歴史に残る人物は幼少期から変わったところがありますね。

その後成長した岩倉は朝廷儒学者・伏原宣明(ふせはらのぶはる)のもとに入門。
弟子を迎えた伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、公家の岩倉家へ養子縁組を推薦。
身分の低い公家へ容姿に入った岩倉は朝廷へ出仕するようになると関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)へ歌道入門。
当時は身分制度が厳しく大くの下級公家が朝議(ちょうぎ。
朝廷の会議)に出席できない時代でしたが、それでも岩倉は朝廷改革の意見書を政通に提出。
意見を聞いた師匠・鷹司は意見書にうなずきながらも即答は避けますが、このとき「歴史を変えそうなすごいやつが来た」と思っていたのかもしれません。

修好通商条約への抗議活動・天皇へ政治意見書

修好通商条約への抗議活動・天皇へ政治意見書

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岩倉が発言力を強めた頃、日本の状況は大きく変わろうとしていました。
時は1858年(安政5年)1月、当時の老中・堀田正睦(ほったまさよし)は「日米修好通商条約」の勅許(ちょっきょ。
天皇からの許可)を得るために上京。
これに対して関白・九条尚忠(くじょうひさただ)は「勅許を与えるべき」と主張しますが、これに多くの公家が反対。
岩倉も条約に反対の立場を取り、反対派の公家を集めると公卿88人を集め抗議活動。
これは「廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)」と呼ばれる大きな事件に発展しており、こうした動きもあって勅許は与えられず。

勅許阻止に大きく関わった岩倉は2日後の3月14日、政治意見書を孝明天皇に提出。
意見書では「日米和親条約には反対の立場を取るが、開港場所が1か所限定であれば良い。
外国人が開港場所10里(約40km相当)以内で自由移動すること、キリスト教布教を禁じる」とした一方で「相手国の文化を知るため各国に使節を派遣、徳川家を潰すことはしない」と主張。
主張はしながら「強硬になりすぎない柔軟な考え」も持っていたのですね。

条約の締結・混乱する国内

条約の締結・混乱する国内

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岩倉が天皇に意見書を提出した頃、大きな事件が世間を揺るがします。
1860年(安政5年)6月19日、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は岩倉らが反対していた「日米修好通商条約」について勅許を得ず無断締結。
孝明天皇はこの事実に激怒します。
天皇としては「天皇の許しを得ないまま結ぶとは、喧嘩を売っているのか」ということでしょう。

これに前水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)らが抗議すると彼らは後に謹慎処分。
孝明天皇は水戸藩に対して井伊を糾弾する「戊午(ぼご)の密勅」を下すことに。
するとこれに幕府も黙ってはおらず、尊攘派(天皇を尊び、外国を打ち払う考え)、一橋派(将軍後継ぎ問題で井伊と対立していた)に対する大弾圧「安政の大獄」を実施。
岩倉は「大事な議論のときに国内で混乱が発生してどうするのだよ」と思ったかもしれません。

こうした事態に岩倉は「朝廷と幕府の関係が悪化するのはまずい」と考え、京都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤正縄などと会談、天皇の考えを伝えることで「朝廷と幕府が対立するのはとんでもない」と説明。
岩倉が「議論は穏便にやらないといけないでしょ」ということを考えているように見えますね。

和宮降嫁に関与・天皇へ誓書を

和宮降嫁に関与・天皇へ誓書を

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国内で続いた混乱が一時収まるのは1860年(安政7年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されてから。
すると幕府・朝廷は協調すべきとする「公武合体派」の意見が優勢になり、幕府側から「天皇の妹・和宮(かずのみや)を将軍・徳川家茂(いえもち)へ降嫁いただけないか」という申し出が来ます。
この提案に孝明天皇は「すでに婚約が決まっている」として拒否、和宮自身も「条約を破棄するなら」との返事。
朝廷側としては「散々恥かかせておいて、今さら「ご機嫌取り」か」とでも考えていたかもしれませんね。

こうした話が始まると、そこに入ってきたのが岩倉でした。
話に入った岩倉は「幕府が話を持ってきた理由は、自分たちの力が落ちて人々からの求心力が低下したことを認識したため」と天皇側に伝え意見書を提出。
これを受けた孝明天皇は6月20日に条約破棄、攘夷を条件として「和宮の降嫁を認める」ことに。
天皇の機嫌を損ねずに話をまとめる交渉術はさすがです。

こうして和宮降嫁を実現させた岩倉は1861年(文久元年)10月20日、江戸へ向かう和宮に勅使(ちょくし。
天皇など国の元首が出す使者)として随行。
下級公家出身でありながら老中と対等に議論した岩倉は「誓書を将軍直筆で提出すれば陛下は許してくださる」と主張。
家茂は最終的に誓書を書くことで合意、12月25日に孝明天皇の元へ届くと天皇は大喜び。
岩倉の見事な仕事ぶりでした。

佐幕派と疑われ排除・蟄居へ

佐幕派と疑われ排除・蟄居へ

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将軍からの誓書を天皇に届けた岩倉でしたが、これで問題が解決することはありません。
1861年(文久元年)に入ると長州藩主・毛利慶親が「航海遠略策」を孝明天皇に提出。
これは「一度結んだ条約を破棄するのはまずい。
こちらから海外技術を学び、国力を高める方向へ動くべき」としたもので、天皇はこれを高く評価。
天皇は長州藩に「公武周旋」役を与えると危機感を募らせた薩摩藩・島津久光が「和宮の降嫁、大弾圧によって朝廷はまずい状況に陥っている」として入京。
久光は天皇から京都守護を命じられ「京都所司代」は無実化することに。

こうした国内情勢の中、岩倉は「和宮降嫁に賛成したこと、京都所司代と親しい関係にあること」を理由に尊攘派から「佐幕派(さばくは。
幕府を補佐する)」と疑われ、岩倉を排除しようとする動きが高まることに。
そして正親町・三条実愛から孝明天皇の近習をやめるよう勧告されると7月24日に近習職を辞職。
しかし岩倉排除の動きは止まず、ついに孝明天皇からも親幕派と疑われ蟄居、辞官を迫られることに。
罪については1867年(慶応3年)11月に赦免されるまで続き、役職を追われた岩倉は蟄居生活を送ることに。
この生活は1867年(慶応3年)11月まで5年間続くことになります。

政府に復帰・政権の最重要職に就任

政府に復帰・政権の最重要職に就任

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役職を追われ長い蟄居生活を送った岩倉でしたが、赦免されると再び実力を発揮します。
岩倉は徳川慶喜から実権を奪おうと薩摩の大久保利通らと慶喜へ辞官納地(じかんのうち。
冠位・納地を返還させること)を要求して、1868年(明治元年)に入ってから新政府人事と慶喜の処分を求める「王政復古の大号令」案を奏上(そうじょう。
天皇に意見・事情等を申し上げること)。
自身は大久保利通らとともに「参与」として新政権に関わることに。

しかしこうした流れを慶喜が黙って見ていることはありません。
慶喜は「薩摩征伐」を名目に出兵を開始して「鳥羽・伏見の戦い」に持ち込むと、新政府も慶喜征討の大将軍に仁和寺宮嘉彰親王を任命して対抗。
この戦いで不利な立場となった慶喜は江戸へ逃げ帰ることになり、発言力を強めた岩倉は「勤王の意思がある者だけ残れ」と宣言。
岩倉は「海陸軍事務」と「会計事務」という最重要職に就いて政権で力を発揮することになります。

海外文化を知る「岩倉使節団」の派遣

海外文化を知る「岩倉使節団」の派遣

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こうして実権を握った岩倉は改革に着手することとなり、公家の宿直(御所での24時間勤仕)制度の廃止、人員大幅削減など反発を受けながらも着実に進行。
その後は明治天皇の東京行幸にも随行、京都へ戻った後に病を理由として補相を辞職しますが「廃藩置県」が実施された日には「外務卿(外務省の長官)」に就任。

こうして外務卿になった岩倉は「日米修好通商条約」の条約改正交渉について考えますが、「日本国内の法が整備されなければ、アメリカ側は「改正はまだ早い」と却下してくる」と考えていました。
そこで岩倉は「欧米に使節団を派遣して近代化の様子を視察」する、そして「近代文化を日本に取り入れ、文明開化を果たして交渉を要請する」ことを政府方針とすることに。
岩倉は「交渉は段階を踏まなければ相手の良いようにやられる。
入念な準備の下で挑むべき」と考えたのでしょう。

こうして使節団派遣を決めた岩倉は「特命全権大使」として使節団に参加、1871年(明治4年)11月から約2年かけて欧米諸国を巡ることに。
岩倉はこの旅で特に鉄道に感銘を受け、世界の鉄道を見た岩倉は「日本の繁栄も鉄道にかかっている」と考え、帰国後は「JR東日本」の前身にあたる「日本鉄道」の創立に関与していきます。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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