【伊達輝宗の歴史】伊達家を建て直し壮絶な最期を遂げた伊達政宗の父・伊達輝宗とは?

日本の戦国時代から江戸時代にかけて活躍、日本の歴史を代表する武将の1人である伊達政宗。政宗はNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」にも取り上げられ現代も人気の戦国武将として知られていますが、その伊達政宗を育て上げたのが彼の父・伊達輝宗です。今回はその政宗の父・輝宗について見ていきましょう。

生まれたときから争い

生まれたときから争い

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1544年(天文13年)に陸奥国の戦国大名・伊達晴宗の息子として誕生した伊達輝宗。
輝宗自身は次男でしたが兄・親隆(ちかたか)は母方の祖父・岩城家に養子として入っていたため、次男である輝宗が伊達家の世継ぎに決定。
輝宗の「輝」の一字は時の将軍・足利義輝から受けたものですが、父・晴宗も室町幕府第12代将軍・足利義晴から一字、祖父・稙宗(たねむね)も将軍家から一字を受けており、伊達家は代々一字を受け続けてきました。

しかしその伊達家では輝宗が生まれたときから争いが発生しており、父・晴宗と祖父・稙宗は政策上の不和から対立した状態。
近隣諸大名を巻き込んだ「天文の乱」という内紛の最中でした。
輝宗は生まれたときから「とんでもない」状況に身を置くことになったのです。
この争いは将軍・義輝の仲裁によって稙宗が隠居する形で決着することになりますが、この乱の事後処理は伊達家の課題として残っていくことに。
いきなり先行きが怪しい雰囲気になってしまいました。

こうした争いを幼少期に経験した輝宗ですが、20歳になった頃に父・晴宗が隠居すると家督を継承。
1564年(永禄7年)には出羽国の戦国大名・最上義守(もがみよしもり)の娘で最上義光の妹・義姫を妻として迎えることに。
ごたごた劇の後、完全終息していない中で家督を継ぐのは大変そうです。

家督の継承・政宗の誕生

家督の継承・政宗の誕生

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内部抗争後の事後処理が終わらない中で家督を継いだ輝宗でしたが、自身の思うように行動することはできません。
輝宗が家督を継いだ頃は隠居した父・晴宗の影響力が続いており、これに加えて「天文の乱」の際に家中最大の実力者となった重臣・中野宗時(なかのむねとき)や牧野久仲(まきのひさなか)父子に実権を握られていたためです。
さらに1565年(永禄8年)に祖父・稙宗が亡くなると「天文の乱」で稙宗方の主力を担った相馬氏が稙宗隠居領の領有権を主張、稙宗の居城であった「丸森城」を接収してしまうことに。
これではとても自分の力を発揮できる環境ではありませんね。

こうした難しい状況の続いた輝宗でしたが、その間の1567年(永禄10年)8月3日には嫡男の梵天丸(後の伊達政宗(だてまさむね)である)が誕生。
息子が誕生した輝宗は1572年(元亀3年)に甲斐国(かいのくに。
現在の山梨県)から臨済宗の僧・快川紹喜(かいせんしょうき)の弟子である虎哉宗乙(こさいそういつ)を迎えたり、有望な若手家臣を選んで政宗に仕えさせたりと教育に熱心。
厳しい状況でも「後のことは考えておかなければ」という思いがあったのでしょうね。

家中統制を狙って策略・有能な人材登用

家中統制を狙って策略・有能な人材登用

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家督を継いだあとも実権を握られている輝宗ですが、ここで黙っていては本当の「世継ぎ」にはなれません。
家中の統制を図ろうとした輝宗は中野宗時、その子に対し謀反(むほん。
臣下が君主に背くこと)の疑いをかけると、牧野久仲の居城・小松城を攻め落として中野父子を追放することに成功。
さらには輝宗に「非協力的」であったとして側近・小梁川盛宗らを処罰。
また同じ年に義姫の実家・最上家で義守・義光父子の抗争が始まると義守に味方して義光を攻めましたが、義姫が輝宗に撤兵を促したため兵を引くことに。

こうして家の実権を奪い取った輝宗はようやく自身の組閣に取り組むこととなり、鬼庭良直(おににわよしなお)を評定役(ひょうじょうやく。
司法裁判を司る仙台藩の職名)に、宗時の家臣であった遠藤基信(えんどうもとのぶ)を側近に任命して外交を担当させることに。
良直は軍事において、基信は1575年(天正3年)に織田信長へ鷹を贈るなど徳川・北条など有力大名との外交を担当。
こうしたところには輝宗の人材登用術の高さが見えてきますね。

7年にわたる「新発田の乱」

7年にわたる「新発田の乱」

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ようやく強固な政権を築いた輝宗でしたが、そこに大きな事件が発生します。
1578年(天正6年)に越後・上杉謙信が亡くなり養子の上杉景勝、上杉景虎が家督をめぐって対立した「御館の乱」でした。
乱が勃発すると輝宗は対相馬戦(輝宗に追われた中野宗時と牧野久仲が亡命)を叔父・亘理元宗(わたりもとむね)に任せ、北条との同盟に基づき蘆名盛氏(あしなもりうじ)と共に景虎方について参戦。
しかし戦いは新発田長敦(しばたながあつ)・重家(しげいえ)兄弟の奮闘もあり景勝方の勝利。

しかし戦いがここで終わることはありません。
戦いにおける「論功行賞」において新発田勢の功績が軽んじられると、ここで仲裁を図った安田顕元(やすだあきもと)が自害。
こうした事態によって1581年(天正9年)に重家が景勝に反逆すると輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆(あしなもりたか)と共に重家を支援。
ここに柴田勝家とも連携して越後への介入を決意すると、こうして始まった「新発田の乱」は7年にわたる長期戦に発展。
名誉挽回のチャンスは巡ってきましたね。

ようやく終わる「天文の乱」の事後処理

ようやく終わる「天文の乱」の事後処理

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自身が「新発田の乱」に関わる一方で叔父・亘理元宗に任せていた相馬氏との戦いは相馬盛胤(そうまもりたね)・義胤(よしたね)父子に苦しめられる状況が続きます。
こうした状況を迎えた輝宗でしたが、1579年(天正7年)に田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えると相馬方の切り崩しに取り掛かります。

切り崩しにかかった輝宗が行ったことは、相馬家の家臣・佐藤好信(さとうよしのぶ)の次男で小斎城主・佐藤為信(さとうためのぶ)を味方につけることでした。
好信は自身を妬んだ桑折左馬助という人物の讒言(ざんげん。
人を貶めるためにありもしないことを目上の者に告げること)によって軍奉行の役職、所領を奪われ失意のうちに亡くなっており、為信は「父の無念をこの機会に晴らしてやる」ということで相馬氏から離れる決意をしたのです。

こうした策による事態の好転を図った輝宗は1583年(天正11年)5月17日に祖父・稙宗の居城であった丸森城の奪還、翌年1月11日に金山城も攻略すると伊具郡(いぐぐん)全域の回復に成功。
状況を一気に変えた輝宗は停戦を決めると5月に祖父・稙宗の持つ隠居領のうち伊具郡を伊達領、宇多郡(うだぐん)を相馬領とすることで合意。
これによって伊達家は稙宗時代の勢力圏をほぼ回復、南奥羽全域に大きな影響力を及ぼす存在に。
こうして輝宗は幼少期から続いた、乱の事後処理を見事にやってのけました。

隠居・しかし大きな危機

隠居・しかし大きな危機

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こうして伊達家の地位回復を果たした輝宗ですが、ここからも波乱の多い日々が続きます。
1584年(天正12年)10月6日、蘆名盛氏の後継・蘆名盛隆(あしなもりたか)が殺されてしまい、盛隆の子・亀王丸が生後1ヶ月で当主に就くと輝宗が後見に。
後見に就いた輝宗は次男・政宗に伊達家の家督を継がせ、自身は修築した舘山城に移動。
移動した輝宗は越後介入に専念する予定でした。

しかしここで輝宗の予定は大きく狂います。
息子・政宗は輝宗と争った上杉景勝と講和を結ぶと、伊達・蘆名・最上氏共同での越後介入策を放棄。
これが蘆名家中で伊達家に対する不信感を持たせることに。
蘆名氏としては「介入やめるなんて、話が違うじゃないか」と思うでしょうし、越後介入策に専念するつもりの輝宗は「自分は何のために隠居したんだい」となるでしょう。

一方の政宗は翌年春になると岳父(がくふ。
妻の父)・田村清顕(たむらきよあき)の求めに応じて田村氏から独立した小浜城主・大内定綱に「田村氏の傘下に戻れ」と命令しますが定綱は命令を拒否。
これに対して政宗は大内氏に対する討伐を命令。
定綱は盛隆の未亡人・彦姫に仲裁を求めますが、政宗は5月に突然蘆名領に侵攻。
これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継(はたけやまよしつぐ)へも攻撃。
政宗は「俺に反対するならどんどん撃ってやる。
俺の恐ろしさを見せてやる」と考えていたかもしれませんが、これが輝宗の運命を大きく変えることになってしまうのです。

畠山義継の降伏・人質に

畠山義継の降伏・人質に

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政宗が畠山義継を攻撃していた1585年(天正13年)10月、義継は政宗に対して降伏を申し入れることに。
しかしこの降伏に対して政宗が出した要求は厳しく、義継に対して大名としての地位を維持できないほど多くの領地を取り上げることを決定。
しかし義継としては「地位が維持できないほどの没収は勘弁してください」と考えたのでしょう、すぐには受け入れず。
政宗は「早く処分を受け入れろ」という思いでしょうが、こうした状況を見た輝宗が話に入ったことによって処分は軽減されることに。
政宗の強硬策に輝宗も「ちょっとやりすぎ、そこまでしなくても」と思ったのかもしれません。

こうした調停に謝意を表そうとした義継は宮森城にいる輝宗を訪れますが、ここで事件は起きます。
面会が終わり去ろうとする義継を見送ろうとした輝宗は突然義継と家臣に刀を突きつけられ、人質としてさらわれることになりました。
こうした人質劇には「義継の家臣が帰ろうとした義継に耳打ちをして起こった」といううわさもあるようですが、この耳打ちは「この野郎(政宗)恥かかせやがって。
この代償は大きいぞ」という思いに火をつけてしまったのかもしれません。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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