【井伊直孝の歴史】猛将の血を受け継いだ井伊直孝、実はひこにゃんとのご縁も深い!?

徳川家康の四天王のひとり・井伊直政の二男が井伊直孝です。猛将であり「井伊の赤鬼」と恐れられた父の血を色濃く受け継ぎ、勇猛果敢な性格として知られた直孝は、やがて江戸幕府の中枢でなくてはならない存在となっていくのでした。そんな直孝の人生を、彼の成長を見守るようにご紹介したいと思います。そうそう、あのゆるキャラ・ひこにゃんとの関係についてもたっぷり触れていきますね。

異母兄と同年生まれ!?正室の怒りを買う

異母兄と同年生まれ!?正室の怒りを買う

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直孝は天正18年(1590)年、井伊直政の二男として誕生しました。
この年は、ちょうど豊臣秀吉が天下を取った年でもあります。

彼の母親は、正室の唐梅院(とうばいいん)ではなくその侍女の印具氏(いんぐし)だったとされています。

実は直政は恐妻家で、唐梅院(しかも彼女、直政の主君・徳川家康の養女です)には頭が上がらなかったそうなんですよ。
しかも唐梅院、印具氏がみごもったと知るや、すぐさま実家に帰してしまったんです。

まあ、唐梅院の気持ちもわからないではありません。
この時、彼女もまた妊娠していたんです。
そのため、長男の直勝と直孝は、兄弟でありながら同じ年に生まれているんですよ。
そりゃあ、正室とすれば複雑な思いもありますよ。
側室がいるのは当たり前の時代とはいえ、女性の立場からすれば気分の良いものではありませんよね。

恐妻家の父、直孝に会うのを12年はばかる

恐妻家の父、直孝に会うのを12年はばかる

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そんな唐梅院のお怒りぶりに気を遣ったか、直政は直孝が生まれてからも会おうとはしませんでした。

そんな大人の事情を直孝が知っていたかどうかはわかりませんが、彼は井伊家の領地である上野(こうずけ)国(群馬県)安中にある北野寺で育ちました。

幼少期を寺で過ごした点は、父直政と似ています。
直政の幼少時は井伊家存亡の危機でもあり、命を狙われた彼は寺に隠れ育てられたんですよ。

そしてようやく、親子としての正式な対面の時が来ました。
直孝はすでに12歳となっていました。

この時、直政が使っていた采配を直孝は授かりましたが、その翌年、慶長7(1602)年に直政は関ヶ原の戦いの時に受けた傷がもとで亡くなってしまいました。
親子としての時間は、ごく短いものだったんです。

徳川秀忠の側仕えとなり、出世の道へ踏み出す

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父の死後、井伊家は異母兄の直勝が継ぎました。
一方、直孝はというと、次期江戸幕府将軍となる徳川秀忠の近習(きんじゅ/主君のそば近くに仕える者)となったため、江戸で過ごすこととなります。

そして慶長10(1605)年、将軍職を家康から譲られた秀忠が2代将軍となると、直孝も取り立てられ、上野白井藩(こうずけしろいはん/群馬県渋川市)1万石を与えられ、大名の仲間入りを果たしたのでした。
その後も役職を重ね、大番頭(おおばんとう)にもなっています。
大番頭とは旗本によって編成される部隊のトップであり、江戸城や大坂城、二条城の警備をつとめる非常に格式の高い役職だったんですよ。

何だかむしろ、井伊家を継ぐよりもこちらの方が良かったような気がしませんか?将軍の側近になれたわけですものね。
結果的に、これが後に彼が井伊家当主となった要因のひとつとも考えられるんです。

しかし、家康が豊臣家を滅ぼす決断をした慶長19(1614)年、大坂冬の陣の際、直孝と井伊家に大きな転機が訪れることになります。

兄を差し置き、井伊家の大将に!

兄を差し置き、井伊家の大将に!

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大坂冬の陣にもちろん井伊家も参加するわけですが、この時、なんと家康が直々に直孝を大将に指名しました。

いったい何が起こったのでしょう?井伊家には当主で異母兄の直勝がいるんですが…。

というのも、直勝は病弱で戦に出るのが難しかったとも言われていたからなんです。

他にも、家臣団とうまくいかず、まとめ切れなかったという点が家康の危惧となったようなんですね。
確かに、そんな有様では部隊として成り立つわけがありません。

そこで白羽の矢が立ったのが、直孝だったというわけなんです。

13歳にして盗人を自ら追いかけて捕まえた、などという勇壮なエピソードを持つ直孝ですし、秀忠のそばにずっと仕えていたからこそ、父直政の気性を受け継いだ彼の資質を、家康も秀忠もわかっていたのかもしれませんね。

そして、直孝に「井伊の赤備え」が預けられたのです。

旧武田氏の遺臣たちが直政によって組織され、無類の強さを誇った赤い軍装の軍団。

まさか彼らを指揮することになるとは、直孝自身は考えていたのでしょうか。

彼の力も試される時が来たのです。

井伊の赤備えVS真田の赤備え!結果は…

井伊の赤備えVS真田の赤備え!結果は…

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4000の兵を率いて直孝が対峙した相手は、真田丸を築いてそこにこもった真田信繁(さなだのぶしげ/幸村)。
奇しくも、両軍共に赤備えの軍装でした。

稀代の名将と称される信繁の挑発戦法の前に、直孝隊はつい乗ってしまいます。

相手が密かに仕掛けていた柵にはまって身動きが取れなくなってしまい、そこに信繁と木村重成(きむらしげなり)隊から一斉射撃を受け、500人の兵を失うという大損害を出してしまったのです。

常勝軍団として名を馳せてきた井伊の赤備えの、ほぼ初めての大失態でした。

この無謀で勝手な突撃は、軍令違反だと秀忠にひどく叱責されました。
咎を受けるところでしたが、そこを取り成したのが、家康だったのです。

家康は、「この突撃が味方を奮い立たせ士気を挙げたのだし、若い者は少々失敗があっても仕方ない」と直孝を庇ったのでした。

若い直孝の猪突猛進ぶりに、家康は昔の直政を見ていたのかもしれません。
そして、経験豊かな武将であるからこそ、失敗を許す度量の広さがあったんですね。

この後、直孝は正式に家督を継ぐこととなり、彦根藩15万石の主となりました。
一方、兄の直勝は上野安中3万石へと移っています。

雪辱を晴らすのは今!大坂夏の陣

雪辱を晴らすのは今!大坂夏の陣

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さて、冬の陣の翌年、大坂夏の陣が起こります。
豊臣家を滅ぼしにかかる家康でしたが、直孝もまた汚名返上に燃えていました。

藤堂高虎(とうどうたかとら)と先鋒を任された直孝は、八尾(やお)・若江(わかえ)の戦いで豊臣方と激突します。
藤堂は八尾の地で長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と、そして直孝は若江にて木村重成隊と交戦することになりました。

木村重成といえば、冬の陣で直孝が苦杯をなめた相手。
豊臣方の中でも期待の若武者です。

彼を相手にした直孝は、いっそう燃えたことでしょう。
赤備えの攻撃はすさまじく、木村隊を打ち破り、その後も進撃を続け、豊臣方を大坂城へと追いつめたのです。

その勢いのまま、直孝隊は、豊臣秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ山里郭(やまざとくるわ)を包囲、鉄砲を撃ち込みました。
秀頼と淀殿はもはやこれまで、と自ら命を絶ち、豊臣家は滅亡することとなったのでした。

こうして大坂の陣終結の立役者となった直孝の功績は、他の武将と比べてもずば抜けたものでした。
戦後、彼は5万石を加増され、その名を轟かせたのです。
いつしか、彼はその猛将ぶりから「井伊の赤牛」、もしくは彼の役職名の掃部頭(かもんのかみ)から「夜叉掃部」と呼ばれるようになったんですよ。

戦後も幕府の中枢で重きを成す

戦後も幕府の中枢で重きを成す

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大坂の陣から8年後の元和9(1623)年に、将軍職を家光に譲っていた秀忠は、寛永9(1632)年に亡くなりました。
その臨終の床に直孝は呼ばれ、若き家光の後見を頼まれます。
近習としてそばに仕え続けた彼は、秀忠から絶大な信頼を得ていたんですね。

秀忠の没後、直孝は「大政参与(たいせいさんよ)」という役職に就きます。
これは、国政に関与し、老中らと話し合いの上すべてを決める権利を持つ、後の大老のはじまりとされた役職なんですよ。
幕末になると、直孝の子孫・直弼(なおすけ)もこの地位に就いています。

家光からも信頼を寄せられた直孝は、石高は家康以来仕えている譜代大名の中でもトップの30万石を与えられていました。
本来、譜代大名には力をつけさせすぎないように多くの石高を与えないようになっていましたが、彦根藩30万石というのは異例です。
直孝の信頼感は揺るがなかったんですね。

xiao

Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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歴史

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