柴田勝家とは?信長の家臣として活躍し「鬼柴田」と恐れられた戦国武将

日本の15世紀末から16世紀末にかけての時代にあたり、戦乱が頻発したことで知られる「戦国時代」。室町幕府が残りながら中央政府が機能しないこの時代は各地で激しい戦いが繰り広げられ、下克上に裏切りといったものも起こりながら約100年続いてきました。今回はその戦国時代に活躍した人物から「柴田勝家(しばたかついえ)」を見ていきましょう。

信長に重臣として使える

信長に重臣として使える

image by PIXTA / 8778033

柴田勝家は1522年(大永2年)、尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生。
父親は武将・柴田勝義(しばたかつよし)と言われていますが生まれについては謎な点もあり、生まれた年についても1526年(大永6年)、あるいは1527年(大永7年)説が存在しています。
その勝家は若いころから織田信秀の家臣として仕え尾張国愛知郡下社村を領し、1551年(天文20年)に信秀が亡くなると子の織田信行(信勝)に家老として仕えることに。

こうして信行に仕えた勝家は1552年(天文21年)、清洲城主・織田信友との戦いで中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り翌年には清洲城攻めに大将格として出陣、30騎を討ち取る活躍を見せます(萱津の戦い)。
この頃から「勇ましい」男の雰囲気がありますね。
勢いをつけた勝家は信行を信秀の後継者にしようと林秀貞(はやしひでさだ)と共に画策、信秀の嫡男・織田信長の排除を試みましたが、1556年(弘治2年)8月に信長との戦いに敗れると降伏(稲生の戦い)。
このときは厳しい処分を免れ、信長と信行の生母・土田御前の強い願いで赦免されますが、これで信長の前には「歯が立たない」と悟ったのでしょう。

この戦いで敗れた勝家はこれ以降信長の元へ付くようになり、一方の信行は津々木蔵人を重用するようになると勝家と距離を置くように。
1557年(弘治3年)に信行が謀反の計画を企むと勝家は信長に事前密告、信長が「病気を患った」と偽って清州城に信行をおびき出すと家臣に暗殺させてしまいます。
これによって信長の家臣となった勝家は信行に代わって尾張・末盛城主にも抜擢。
この時代にはこうしたしたたかさも大事なのですね。

実績を挙げ「鬼柴田」に・筆頭家老へ昇進

実績を挙げ「鬼柴田」に・筆頭家老へ昇進

image by PIXTA / 31751005

こうして信長の元で家臣になった勝家ですが、早くから信頼を置かれていたわけではありません。
信長にとって重要な戦いである「桶狭間の戦い」や「尾張統一の戦い」、「美濃・斎藤氏攻め」においては重用されていませんでした。
信長からすると家臣にはなったものの「一度は私を貶めようとした人間だから、いつ同じことが起こるかわからない」ということでまだ勝家のことを疑っていたのでしょうか。

しかしその勝家にようやく活躍の機会は巡ってきます。
1568年(永禄11年)の「上洛作戦」に重用されると「畿内平定戦」などでは常に織田軍の4人先鋒の武将として参加。
信長の重臣として大活躍すると、1570年(元亀元年)6月には浅井・朝倉との「姉川の戦い」に従軍。
こうして織田軍への貢献を続けた柴田は激しい戦闘姿勢から「鬼の権六」と恐れられるようになり、その他「鬼柴田」や「かかれ柴田」と呼ばれることも。
これらの名は勝家の実力を知らしめるにはうってつけの名前でしょうね。

その後も1571年(元亀2年)9月の「比叡山焼き討ち」では殺戮戦に加勢、1576年(天正4年)には「北陸方面軍司令官」に任命、前田利家らの与力を付けられ90年間一揆の続いた加賀国(現在の石川県南半部)の平定を任されることに。
1580年(天正8年)3月には一向一揆の司令塔・金沢御堂を攻め滅ぼし一向一揆を制圧すると、1580年(天正8年)11月にはついに加賀平定を実現。
こうして平定を実現した勝家は織田家の家臣・佐久間信盛が失脚すると名実ともに織田家の筆頭家老に昇進。
かつての謀反行為からじっくり戦績を挙げて、ようやく確固たる地位を築くに至ったのです。

本能寺の変・敵討ちはかなわず

本能寺の変・敵討ちはかなわず

image by PIXTA / 31751001

こうして信長のもとで確固たる地位を築いた勝家でしたが、その地位は長くは続きません。
1582年(天正10年)、君主・信長が京都・本能寺にいたところを家臣・明智光秀が謀反を起こし、信長は命を奪われてしまうのです(本能寺の変)。
君主の死という一大事件。
本来であれば君主の敵討ちに出たいところですが、勝家は信長の死を知りません。
死を知らない勝家は越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していたところでしたが、事件を知った6月6日の夜から全軍撤退して北ノ庄城へ。
「一刻も早く信長公に勝ちを捧げたい」ものですよね。

しかしそれから勝家の到着は遅れ、近江に出動したのは出発から12日も経過した18日。
羽柴秀吉の軍が「山崎の戦い」で光秀を討ってから5日も経過したあとでした。
信長から信頼を得てきた勝家にとって「君主の敵討ちができなかった」ことは「重臣として情けない」気持ちもあったでしょうが、その後の勝家にとってはこれが運命を大きく変える出来事となってくるのです。

織田家後継ぎを決める「清須会議」

織田家後継ぎを決める「清須会議」

image by PIXTA / 31751004

信長の敵を討つ機会を逸した勝家は苦しい状況を迎えます。
信長が撃たれた「本能寺の変」後に行われた「清洲会議」では信長の跡を継ぐ織田氏の後継者問題について話し合いが行われ、勝家は信長の三男・織田信孝を推薦。
信孝は信長の側近として活動、朝廷との交渉に顔を出すなどの実績を挙げていた人物で、勝家としては「信孝であれば実力もありそうだし、秀吉に対抗する意味でも絶対に推しておきたい」と考えていたことでしょう。

しかしそのような勝家の推薦が通ることはありませんでした。
織田氏の後継者に選ばれたのは秀吉が推薦した信長の嫡孫で3歳の三法師(織田秀信)であったのです。
秀吉は光秀を討伐したことで挙げた実績、発言力の大きさがあったのでしょう。
こうして後継者が決まった織田氏では遺領配分においても秀吉に大きく後れを取り、河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を取得するにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転。
勝家はここにきて「信長公の敵討ちをできなかったのは痛かった」と感じていたことでしょう。

こうして行われた「清洲会議」の結果、三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人として付き、勝家は補佐する体制に。
これでは勝家にとって「明らかに不利」な状況になりますね。







秀吉との闘い・戦いの果てに

秀吉との闘い・戦いの果てに

image by PIXTA / 32776918

後継者を決める「清洲会議」が終わると、勝家と勢いを増した秀吉との争いが激化していきます。
秀吉と対抗する勝家は滝川一益(たきがわいちます)、織田信孝と手を結んで秀吉に挑もうとしますが、秀吉は岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させるなどして対抗。
大きな権力を握って「やり手」ぶりを見せる秀吉を前に、勝家の立場はより厳しさを増してきました。

こうして対立を続ける勝家と秀吉は1583年(天正11年)3月12日、北近江に出兵した勝家と北伊勢から戻った秀吉が「賤ヶ岳(しずがたけ。
滋賀県長浜市にある山)」で対峙、これが「賤ヶ岳の戦い」に。
このとき事前に勝家は毛利に庇護されているかつての第15代将軍・足利義昭に戦況を説明、毛利軍とともに出兵を促す書状を出しますが、毛利氏が中立を保っていたこと、足利家がすでに影響力を失っていたことからうまくいかず。
援軍を得られない厳しい状況、間違いなく勢いは秀吉に向いてきました。

こうして4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢・滝川一益と結び再挙兵、秀吉が岐阜へ向かうと勝家は賤ヶ岳・大岩山砦へ攻撃を開始。
しかし秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から「美濃大返し」を敢行すると秀吉と対峙することになり、これで柴田全軍は総崩れ。
力尽きた勝家のもとに戦線を離脱していた前田利家が北ノ庄城を取り囲み、4月24日に「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」との辞世の句を残して妻・お市とともに自害。
62年の生涯でした。

最期を共にした妻・お市の方

最期を共にした妻・お市の方

image by PIXTA / 5743193

お市の方(おいちのかた)1547年(天文16年)に戦国大名・織田信長の妹として誕生。
信長とは13歳離れており、通説では1567年(永禄10年)または1568年(永禄11年)頃に近江の戦国大名・浅井長政と結婚、この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結び、お市は長政との間に3人の娘を儲けます。

しかし1570年(元亀元年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)・朝倉義景を攻めたため浅井家と織田家の友好関係は終わりを迎えることに。
長政が「姉川の戦い」で敗北した後の1573年(天正元年)に小谷城が陥落、長政とその父・久政が信長に敗れ自害するとお市は織田家に引き取られ、信長の許しを得るて清洲城で兄・信包の庇護を受けながら過ごすことに。
長政との夫婦仲は政略結婚でありながら良好であったと言われますが、仲が良くても戦況によって関係を引き裂かれるのがこの時代なのですね。

そのお市が勝家のものに嫁ぐのは信長死後の1582年(天正10年)。
勝家と羽柴秀吉が申し合わせを行い「清洲会議」で承諾を得て再婚。
こうして勝家と再婚したお市でしたが、1583年(天正11年)に勝家が「賤ヶ岳の戦い」で敗れると夫と共に越前北ノ庄城内で自害。
37歳の生涯を終えてしまいます。
人生は最後まで戦乱に翻弄されたものとなってしまいました。
お市の死後も生き残った3姉妹のうち末っ子・江は後に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と結婚。
2人の間にはのちの江戸幕府第3代将軍となる徳川家光がいます。

勝家の生誕地・築城した城跡

勝家の生誕地・築城した城跡

image by PIXTA / 33517262

福井城は越前での一向一揆を平定した功績により越前国北ノ庄を与えられた勝家が、1575年(天正3年)に築城を開始した城。
1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」に勝家が敗れ自害すると城完成を見ないまま城の大半が焼失しますが、1601年(慶長6年)から城の跡地に徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)が福井城を築城。
この時に城跡地は破壊されたため柴田氏時代の遺構を見ることは出来ません。

その後1993年(平成5年)から6度の発掘調査が行われ、本丸の推定位置である「柴田神社」地下から石垣跡と思われる石が発見されますが、本丸の正確な位置を特定するには至らず。
現在の柴田神社には勝家の像や「北の庄城」唯一の遺物や鬼瓦、勝家時代に造られた足羽川・九十九橋に使われたとされる石柱などが保存。
現在は「瓶割り柴田」とも呼ばれた勝家にちなんだ「瓦割祈願」、絶世の美女と言われたお市にあやかった「美(モテ)祈願」があるパワースポットとしても紹介されています。
住所:福井県福井市中央1-21-17

勝家の生誕地と言われる下社城(しもやしろじょう)は文明から永正時代(1460年から1500年頃)に築城された城で、柴田家の居城として使用。
1575年(天正3年)に信長が朝倉義景を滅ぼすと、勝家が越後・上杉謙信の押さえとして越前国・北庄城主に任命されたことで廃城に。
現在は跡地が「明徳寺」になっており、跡地には「柴田勝家公誕生地」の碑が建てられています。
住所:愛知県名古屋市名東区陸前町

次のページでは『勝家を弔う菩提寺「西光寺・幡岳寺」』を掲載!
次のページを読む >>
Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方
苦節55年!?日本を代表する近代建築・国会議事堂は誰が建てた?
落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?
秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ
公家趣味が彼を滅亡に追い込んだ?大内義隆を殺したのは、かつての愛人だった…!?