真面目すぎたから嫌われた?不器用な男「石田三成」の不器用な生涯

ちょっと前までは、石田三成と言えば「嫌なヤツ、悪役」のイメージでした。しかし、大河ドラマ「真田丸」や映画「関ヶ原」などで三成にスポットが当てられたことで、彼の印象はだいぶ変わってきたのではないでしょうか。さて、いったいどちらの三成が本当の三成なんでしょう?彼の性格が垣間見える逸話を交えつつ、その生涯を追ってみたいと思います。いつの時代にも、なんだかやたらと嫌われちゃう人って、いたんですよね…。

時代が動き始めたその時、三成誕生

時代が動き始めたその時、三成誕生

image by PIXTA / 23809011

三成が生まれたのは永禄3(1560)年のこと。
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った年ですね。
近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に、この地の土豪・石田正継(まさつぐ)の二男として誕生しました。
ちなみに、石田という名字はここの地名から来ているとも言われていますよ。

幼名は佐吉(さきち)。
ドラマや映画で、けっこう三成は「佐吉!」と呼ばれているシーンがあります。
昔から彼を知っている豊臣秀吉や加藤清正などがよく呼んでいますよ。

そして、三成は10代半ばで運命的な出会いをするのです。

「三献の茶」で秀吉をもてなし、小姓に採用される

「三献の茶」で秀吉をもてなし、小姓に採用される

image by PIXTA / 12797209

天正2~5(1574~1577)年頃から、三成は羽柴秀吉(当時はまだ豊臣姓ではない)に仕えるようになっています。
父や兄も一緒でした。

三成が秀吉に仕えるようになったいきさつについて、逸話ではありますが有名な話があります。

鷹狩りの帰り道、喉が渇いた秀吉がある寺に立ち寄り、茶を所望しました。

その時ここで寺の小姓をしていた三成は、まず一杯目に大きめの茶碗にぬるめの茶を持ってきます。
秀吉は一気に飲み干し、二杯目を所望しました。
すると三成は、次は少し小さめの碗に、やはり少し熱めの茶を運んできたのです。
三杯目を、と言った秀吉に、最後に三成が持ってきたのは、小ぶりの茶碗に舌が焼けるほどの熱い茶でした。

秀吉がひどく喉が渇いているのをよく見ていた三成は、秀吉が何を欲しているかを察する力があったんです。
彼の観察力と機転の利きようを気に入った秀吉は、即、彼を城へ連れ帰り小姓に採用したのでした。
この逸話は「三献(さんこん・さんけん)の茶」として語り伝えられてきたものなんです。

これにちなんだ三成と秀吉の像が、JR長浜駅前にありますよ。
機会があればぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

賤ヶ岳の戦いで大手柄!

賤ヶ岳の戦いで大手柄!

image by PIXTA / 16758459

三成が秀吉に仕え始めて数年後、天正10(1582)年に大事件が起きます。
秀吉の主・織田信長が明智光秀に本能寺で討たれて戦死してしまったのでした(本能寺の変)。

しかしこれで政権の中枢で力を持つようになった秀吉は、筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)と徐々に対立するようになっていきます。
そして両者はついに対決の時を迎えたのでした。
これが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いです。

結果としては、秀吉が勝利をおさめて権力を握り、勝家は自害して果てたわけですが、この時に三成は一番槍をあげるという輝かしい戦功を挙げたんですよ。

一番槍とは、合戦の最初に敵と槍を交え、勝ちを挙げることです。
これ自体が勇猛であることの証明ですから、その功績たるや、素晴らしいものだったんですよね。

しかし、後でご紹介しますが、実は三成、戦は苦手だったという話も伝わっているんですよ。
もしやこれはまぐれだったのでしょうか?いやいや、若武者だった三成にもこんなところがあったんだなあとお思い下さいね。

戦はもっぱら裏方。だが、それが最も重要

戦はもっぱら裏方。だが、それが最も重要

image by PIXTA / 33182862

天正13(1585)年、秀吉が朝廷から関白に任命され天下人となると、三成もまた官位を得て、従五位下治部少輔(じゅごいのげじぶしょうゆう)となります。
とはいっても朝廷に仕える人間ではないので、肩書きだけみたいなものですね。

また、これ以降、三成は「治部」と呼ばれることが多くなりますが、これもまたこの官位から来ているんですよ。

豊臣秀吉と言えば、天下統一までに数多くの戦いをこなしてきた歴戦の猛者です。
大きなものなら九州の島津征伐、小田原の北条征伐、そして朝鮮出兵などですね。

では三成はと言うと、武将として戦った回数はほんの少し。
彼はもっぱら、裏方に徹していたんです。

戦の裏方って、とても大事なんですよ。
兵一人に対し必要な兵糧や弾薬の量を細かく計算して、運ばせるのが三成の役目だったんですね。

戦うこと自体も大切です。
しかしそれを支える食料や武器の補給がなくては、戦い続けることはできません。
補給の役割というのは、ある意味、戦うこと以上に重要だったわけです。

そのことを、さすが天下人、秀吉はわかっていたんですね。
天正19(1591)年、彼は三成に近江佐和山19万石の領地を与えました。
後に「三成に過ぎたるもの」のひとつとして挙げられる佐和山城は、畿内と東国の交通の要衝でした。
三成の評価が高かったことがわかりますよね。

とにかく仕事はきっちり!でなきゃ奉行は務まらぬ

とにかく仕事はきっちり!でなきゃ奉行は務まらぬ

image by PIXTA / 19640566

戦では裏方を務める一方、平時には三成は奉行職にありました。
奉行は政務を執り行う役職であり、今で言うなら官僚ですね。
親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)や増田長盛(ましたながもり)らと共に、三成は日々政務に励んだのです。

また、秀吉が行った検地の奉行も務めました。
検地とは田畑の面積と収穫量を正確に調べ、どれだけ課税できるか(年貢を納められるか)を台帳に記録することです。
これがわかっていれば、年貢だけでなく、大名や家臣へほうびとしての土地を与えるのにずいぶんと役立ったんですよ。

ただ、全国の土地は膨大ですから、これはとても大変な作業でした。

しかし三成ら奉行はそれをしっかりやり遂げたんです。
確かに、今の官僚に求められるような、正確な仕事ぶりが発揮されていたんですね。

でもやっぱり戦は苦手かも…

でもやっぱり戦は苦手かも…

image by PIXTA / 33182861

三成が戦下手だという評価が後世にまで伝わることになってしまったエピソードがあります。

小田原の北条氏を攻めた際、三成は相手勢力が立て籠もる忍城(おしじょう/埼玉県行田市)攻めを任されました。

しかしこの城が落ちません。
というか落とせません。

三成が採った策は水攻めでした。
石田堤という堤防をつくり川の水を引き込んだりしましたが、やっぱり落ちません。

時間ばかりが過ぎて行く中、援軍として来てくれたのがあの戦上手・真田昌幸(さなだまさゆき)だったんです。
結局、先に小田原城が落ちたので忍城が開城という結果になったんですけれどね。

しかし三成、ちゃんと自分の欠点は自覚していました。

自分の戦下手を補うべく迎えた部下が、島左近(しまさこん)だったんです。

三成に過ぎたるもの・島左近

島左近は歴戦の勇将として天下に名を馳せていましたが、その当時は主なき浪人でした。

それを知った三成は、左近にぜひ自分に仕えてほしいと頼み込みます。
何度も断られますが、何度も頼み込むということの繰り返しでした。

中国の「三国志」で、劉備(りゅうび)が天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)を迎える際も、何度も足を運び頼み込んだ「三顧の礼(さんこのれい)」という故事がありますが、三成と左近もまさにそうだったみたいですね。

しかも三成は、当時の自分の禄高(給料と同等)4万石のうち、2万石を左近に与えるという破格の条件を提示したんです。
これには左近も驚きましたが、三成の真剣さと誠実さに感じ入り、ついに仕えることを決めたんですよ。

この話を聞いた秀吉も、「主と臣下の禄が同じなんて聞いたことないわ!」とびっくりしたそうです。

そして、「治部少(三成)に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と巷ではうたわれることになったんですって。

左近の三成への忠誠は固く、関ヶ原での勝ち目のない戦いでも彼は三成に付き従い、壮絶に散ったとされています(生存説もあり)。

xiao

Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

大自然に抱かれて!標高700mの温泉地・箱根「強羅温泉」の歴史と魅力
松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりやい放題の伝説まとめ
札幌観光ならここ!見どころをざっくりご紹介
戦国時代の名武将・武田信玄を右腕として支えた弟「武田信繁」とは?
幕府相手に強烈な皮肉を食らわせた「反骨の浮世絵師」歌川国芳とは?
【プーケット観光で行きたい!】タイの楽園リゾートで見られる歴史的スポット10選
”日本三大美肌の湯”嬉野温泉でゆったりほっこり歴史散歩
日本を変えた天皇が愛した離宮・大覚寺
桜に囲まれた格式高い「仁和寺」の天皇をめぐる歴史ロマン
悲しみの淵で描かれた枕草子の物語
江戸時代は醤油で大儲け?2ヶ所に建てられた「龍野城」の歴史
ウィーン観光ならここ!ウィーン近郊にある自然と歴史が溶け合った観光スポット