吉川元春の歴史|毛利家の中国地方制覇・発展に大きく貢献した人物

日本の戦国時代に安芸国(現在の広島県)の戦国大名として活躍した「毛利元就(もうりもとなり)」。安芸の小大名の家に生まれた元就は謀略を用いて名を上げ、中国地方を代表する戦国大名に登り詰めましたが、そこには彼の優秀な息子も貢献していました。今回はその毛利元就の中国地方統一に大きく貢献した息子・吉川元春(きっかわもとはる)について見ていきましょう。

父の反対を押し切り10歳で初陣

父の反対を押し切り10歳で初陣

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吉川元春は1530年(享禄3年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の次男として誕生。
初陣は非常に若く1540年(天文9年)、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた「吉田郡山城の戦い」において。
このときの元春は元服を迎える前でしたが父の反対を押し切って出陣、わずか3000の兵で3万いる尼子勢に挑むと見事に勝利。
激しい戦乱の時代に弱冠10歳の少年が「自分から戦に出る」とは勇敢ですが、元就としては「これは遊びではない、わかっているのか」と言ってしまいたくなるでしょう。
将来性を見込んでいたとしても、許可を出すのはためらうことでしょうからね。

こうして10歳の少年ながら初陣を飾った元春は1543年(天文12年)8月、兄・毛利隆元より「元」の字を譲り受けて「元春」と改名。
1547年(天文16年)7月、母方の従兄・吉川興経(きっかわよりつね)の養子になりますが、これは大内氏と尼子氏と鞍替えしたり、新参の家臣を重用したりした興経と仲の悪かった叔父・経世(つねよ)をはじめとする吉川家臣団の勧めによって興経がやむなく承服したもの。
ここでの条件は興経の命を保証すること、興経の子・千法師を元春の養子として成長後に家督を相続させることでした。

しかし1550年(天文19年)、興経に不穏な噂が流れると父・元就は興経の粛清を決定。
興経を強制隠居させると元春が家督を受け継いで吉川氏当主に就任。
その後の元就は熊谷信直らに命じて興経、千法師共に殺害。
これによって毛利家は格上であった吉川家を奪うこととなり、元春は吉田郡山城から吉川領内へ出向くことに。
これ以後「日野山城」に拠点を移動すると弟・小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当。
元就にとっては「息子2人が優秀であれば、こちらもやりたいことができる」と誇らしく思っていたかもしれませんね。

厳島の戦いで活躍・毛利輝元の補佐役に

厳島の戦いで活躍・毛利輝元の補佐役に

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こうして山陰地方の政治・軍事を担当し始めた元春は、少しずつ大きな戦いに加わります。
1555年(弘治元年)に勃発した「厳島の戦い」は父・元就が陶晴賢(すえはるかた)と戦った合戦ですが、ここでの元春は吉川軍を率いて小早川軍と協力、義理の兄弟であった晴賢率いる大内軍を撃破。
この戦いに勝利して1557年(弘治3年)に父・元就が隠居すると、隆景と共に「両川」体制を敷いて毛利家を実質的に支える立場に昇格。
1565年(永禄8年)の「第二次月山富田城の戦い」では主力として挑み1566年(永禄9年)に尼子義久を降伏させ、毛利家は中国地方8ヶ国を支配する大名に成長。
元春と隆景の連携はバッチリですね。

しかしこれで戦いが終わるわけではありません。
1569年(永禄12年)からは尼子氏の再興を願う尼子家の旧臣・山中幸盛(やまなかゆきもり)ら率いる再興軍と戦うことになり「布部山の戦い」で尼子再興軍を撃破しますが、同じ年には毛利家と敵対する大友宗麟(おおともそうりん)の庇護を受けた大内輝弘が周防国に侵攻。
これに対し元春は大友家の援軍が十分揃わないうちに輝弘を攻め、大内輝弘を自害へ追い込むことに。
これは元春の見事な作戦勝ちですね。

これで勢いをつけた元春は1571年(元亀2年)に謀略を用いて尼子勝久のいる末石城を攻撃。
これによって毛利家は中国10ヶ国120万石を支配する位置に登り詰め、元春は1571年(元亀2年)に父・元就が死去すると弟・隆景と共に後を継いだ甥・毛利輝元(もうりてるもと)を補佐する役職に就任。
これだけの息子であれば、死にゆく元就も「彼に任せれば毛利家は安泰だ。
心配ない」と思ったことでしょうね。

尼子氏を消滅・秀吉と「背水の陣」の戦い

尼子氏を消滅・秀吉と「背水の陣」の戦い

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幼い輝元を補佐する役割に就いた元春ですが、この後も強敵はやってきます。
元春に敗れた尼子勝久らは織田信長を頼り抵抗してくると、1576年(天正4年)には信長に追放された最後の室町幕府将軍・足利義昭が毛利氏を頼ってくることに。
元春はこれを迎え撃って尼子勝久、山中幸盛がこもる上月城(こうづきじょう)を攻撃すると尼子勝久らは降伏して自刃、山中幸盛も処刑されることに、こうして尼子再興軍は勢いを失っていきます。

こうして尼子氏を滅ぼした元春は「鳥取城の戦い」へ挑むことに。
鳥取城主・山名豊国が羽柴秀吉に城を攻められ逃げ出すと、山名家の重臣たちが元春に救援依頼。
依頼を受けた元春は吉川経家を城主に任命すると、吉川軍の部隊が到着するまで「篭城作戦」を取ります。
しかしこの作戦では秀吉が鳥取城を取り囲み、約4ヶ月続いたのち経家自身が「切腹と引き換えに城兵の助命」を要請して降伏。
これに対して元春は秀吉と対決するために出陣、退路となる川の橋を全て壊す「背水の陣」で臨んだ元春は6000の兵を率いて2万を引き連れた秀吉軍へ挑むことに。
自身の逃げ場を壊せば引き返すことはできませんから、元春は「負けるなら死んだほうがマシ」という強い執念を持っていたのでしょうね。

その後も続いた秀吉と毛利家の戦いは1582年(天正10年)の「備中高松城の戦い」に発展。
ここでは秀吉が仕掛けた水攻めによって毛利家は不利な状況に置かれ、秀吉とは「備中高松城主・清水宗治の切腹で城兵の命は助ける」という条件で和睦が成立。
この後の元春は秀吉の追撃を主張しますが、小早川隆景の説得で追撃を断念することに。
元春としては「やられているのにやり返せない」という「モヤモヤ」した思いがあったことでしょうね。

羽柴家へ臣従・隠居から晩年へ

羽柴家へ臣従・隠居から晩年へ

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こうして秀吉と和睦した毛利家は1582年(天正10年)から実質羽柴家に臣従する形に。
織田家で「清洲会議」が行われ秀吉が織田家の実権を握った年末、元春は家督を嫡男・元長に譲って隠居。
これは「秀吉に仕えることを嫌って」のことであるとされており、元春にとって「ささやかな反抗」であったのでしょうか。
その後毛利氏からは三男・吉川広家が「毛利家安泰」の為に秀吉の人質として大阪城へ向かうと、毛利家は秀吉の天下取りに協力することとなります。

こうして隠居した元春は自身の「隠居館」建設を開始。
この館は後に「吉川元春館」と呼ばれ元春の存命中には完成しませんでしたが、元春はここに住んで生活。
1586年(天正14年)には秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により隠居の身でありながら九州平定に参加。
秀吉も「かつて自分を苦しめた相手だ、味方にすれば大きな力になる」と能力を認めていたのでしょうかね。

しかしこの頃の元春はすでに病気を患っているところで、1586年(天正14年)11月15日、出征先の豊前小倉城で57年の生涯を終えることに。
死因については親友・黒田官兵衛から贈られた「鮭」を食べたためと言われ、自身の体に悪いとわかっていながら「せっかく贈ってくれたから」と言って食べたとのこと。
これが事実であれば、最期は義理を守って生涯を終えたことになりますね。







元春を支えた妻・家族

元春を支えた妻・家族

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深い関係を保った妻・新庄局

新庄局(しんじょうのつぼね)は安芸国の国人領主・熊谷信直(くまがいのぶなお)の娘として誕生。
生年は不明と言われていますが、1547年(天文16年)に元春と結婚すると翌年には長男・元長を生み、その後も元氏、広家らを生んでいます。
元春と新庄局は「政略結婚」で結ばれた身ではありましたが、元春は新庄局に深い愛情を持っていたとされ、側室を持つことは生涯ありませんでした。

そんな新庄局は「醜女」と噂され「容姿端麗」な女性ではなかったとされていますが、江戸中期の武士・宣阿(せんあ)が補足した古典文学書『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』には「新庄局との結婚を元春が自ら望んだ」と記述。
周りがどう言おうと元春には「この出会いに運命を感じる、彼女が自分の妻にふさわしい」と見えたのでしょうか。
周囲の声を振り切った元春の意志の強さが感じられますね。

そんな新庄局は1586年(天正14年)に九州へ出陣中の元春、翌年に子の元長が亡くなると、吉川氏の継嗣となった三男・広家に引き取られることに。
その後1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」が終わると広家に従って周防国(現在の山口県東部)岩国に移住、1606年(慶長11年)に亡くなりました。
亡くなった新庄局は岩国の万徳院(まんとくいん)に葬られ、現在は山口県山口市の瑠璃光寺(るりこうじ)と山口県岩国市の洞泉寺(どうせんじ)に墓所が移されています。

元春と「両川体制」を確立した弟・小早川隆景

小早川隆景(こばやかわたかかげ)は1533年(天文2年)に毛利元就の三男として誕生、幼名は徳寿丸と言いました。
幼少には人質として大内氏第31代当主・大内義隆(おおうちよしたか)に出されていましたが、その際に大内義隆のことや家中の様子などを観察、大内家が衰退の様子を見せるとこれを父・毛利元就に報告。
幼少期から見せた観察眼の鋭さは後の活躍を予感させるものと言えますね。

こうして幼少期から才能を見せた徳寿丸は1544年(天文13年)、小早川家の養子となり「小早川隆景」と改名。
1547年(天文16年)に大内が備後神辺城を攻めた際に初陣を迎えるとここでは神辺城の支城・龍王山砦を小早川軍単独で落とす活躍を見せ、大内義隆から賞賛を受けます。
初陣を飾ると1548年(天文17年)には沼田小早川家の当主・小早川繁平(こばやかわしげひら)の妹を妻として迎え、沼田小早川家を「乗っ取る形」で家督を継ぎ高山城主に就任。
城主となった隆景は毛利家一門として強力な小早川水軍を率い、1555年(天文24年)には父・元就にとって重要な合戦「厳島の戦い」で陶晴賢(すえはるかた)率いる大内水軍を破り毛利軍勝利に貢献。
元春の貢献度はもちろん高いですが、隆景も見事な仕事ぶりを見せていますね。

厳島で見事な仕事を果たした隆景は1557年(弘治3年)には大内氏の周防・長門を攻略、大内氏を滅ぼした「防長経略」にも参加。
毛利元就が一時隠居した際には元春と共に毛利家の主力を務め、1563年(永禄6年)に甥・毛利輝元が家督を継ぐと元春と共に幼い輝元を補佐する役割を担当。
秀吉に従属して以降は「中納言」の官位も受け、亡くなってしまったために実現しなかったものの徳川家康らと共に豊臣政権の「5大老」にも名前を挙げられることに。

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