家臣に嫌われ命運も尽きた「宇喜多秀家」とは?「若き貴公子」の暴政でお家騒動も

皆さんは宇喜多秀家という人について知っておられますか?関ヶ原の戦いで西軍の総督にもなった人なのですが、父・直家の賢さの陰に隠れたり、大河ドラマ「真田丸」では少し出ただけ、映画「関ヶ原」では出たのか出てないのか、わからないくらいの存在感でしたね。しかし、この人、周りを結構かき回していて面白いのです。ここでは、宇喜多秀家とはどんな人?宇喜多家で起きたお家騒動とは?関ヶ原の戦いで負けた秀家はその後どうなった?ということに重点を置いて説明していきたいと思います。

秀家の父・宇喜多直家とは?

秀家の父・宇喜多直家とは?

image by PIXTA / 29275661

まずは秀家の父・宇喜多直家について説明していきたいと思います。

直家は自己の権威拡張のためには義理も人情も忘れ、友も肉親も主君も手段を選ばず次々と抹殺して、一介の備前邑久郡(おくぐん)の土豪から、一転して中国地方における押しも押されぬ大大名になった人。
下剋上の模範的実践者といえるでしょうか。

直家は幼名を八郎といい、天文3年(1534年)、島村貫阿弥に襲われ祖父能家(よしいえ)を亡くし、両親と共に鞆(とも)へ逃げた後に備前福岡の市へ。

八郎は幼年期に情け容赦ない戦国の世を生き抜く知恵をつけたと言われています。

八郎は天文12年(1543年)に15歳で主家の浦上家に仕えると、播州合戦で初陣。
翌年には直家を名乗り、乙子城主に。

その後、直家は義父の中山信正と祖父を殺した島村貫阿弥を倒し、竜の口城を落とし、さらに永禄9年(1566年)備中成羽城主三村家親(いえちか)を鉄砲で暗殺。
これは日本初の鉄砲での暗殺と言われています。

翌年家親の子・元親が父の弔い合戦として備前に攻め込んできて、三村軍2万対宇喜多軍5千という劣勢でしたが、外交を利用し三村勢に味方していた毛利勢を引かせることに成功し、三村家を倒し、備中東部を手に入れることになりました(明禅寺崩れ)。

その後も戦いと暗殺を繰り返した直家は岡山城に入城し、本格的な城郭の建築と城下町の造成に着手。
主君であった浦上宗景(むねかげ)を追放しますがここで病に。
体全体から膿が流れ出るのが止まらなかったといいます。

天正7年(1579年)羽柴秀吉の斡旋で織田信長への帰順を誓い、天正9年(1581年)に幼児八郎(秀家)の将来を案じつつ53歳で死去したのでした。

秀家とはどんな人?

秀家は美麗を好むぼっちゃん大名?

秀家は美麗を好むぼっちゃん大名?

image by PIXTA / 34922586

「若き貴公子」と呼ばれる宇喜多秀家の性格をよく物語る逸話があります。
豊臣秀吉が伏見城にいた時、登城していた五大老の刀置き部屋で足を止め、そこに置いてあった5腰の刀を見て、秀吉はそれぞれの刀の所有者を性格に当てたそう。

秀吉は秀家については、「秀家はなにごとにも美麗を好む。
それゆえ、あの黄金をちりばめた刀がそうである」と言ったそうです。

この話は秀吉の人を見る目の確かさを強調したものですが、秀家が苦労知らずの「ぼっちゃん大名」だったことも示しています。

秀家は戦国末の天正元年(1573年)、父直家が念願叶い沼城から石山城に移った年、お福の方から生まれました。
当時直家は備前全土を手中に収め、日の出の勢いで美作へ侵入していた時。

秀家は幼名を「八郎」といい、平和な生活を送っていましたが間も無く父直家が病死したので、天正10年(1582年)にわずか10歳でその跡を継ぎました。
幼少だったため、叔父の宇喜多忠家が後見役に。

その年、羽柴秀吉は毛利征伐のため岡山城に来城。
そのとき忠家は秀吉に八郎の後見を頼み、そして秀吉の中国征伐で、毛利氏の拠点備中高松城攻めに、岡山勢は先人として1万の大軍で奮戦。

秀家は豊臣政権でどのように出世した?

秀家は豊臣政権でどのように出世した?

image by PIXTA / 33841490

この合戦は秀吉と毛利氏との講話で決着がつき、備中と美作の数郡を秀吉から与えられた八郎は、父の遺領と合わせて57万4千石の大守に。

天正13年(1585年)、八郎は元服して秀家(秀吉の「秀」、直家の「家」をもらったそう)と名乗り、晴れて天下人・秀吉の猶子となりました。

「養子になるの?」と思う人もいると思いますが、これは秀吉に子供がいなかったためですよね。
以後秀家は公式に「羽柴秀家」とか「豊臣秀家」と称し、家紋にも豊臣家の「五七桐」を使い、岡山城にもこの瓦が見られます。

その後、宇喜多勢は秀吉配下の有力部隊として、賤ヶ岳など多くの合戦に軍功を立て、そのため秀家は天正15年(1587年)にはわずか15歳で従三位、参議と異例の昇進を遂げ、この年秀家は自ら出陣して島津征伐に初陣を飾りました。

また教養豊かな文化人であり、天正17年(1589年)、秀吉は養女の豪姫(前田利家3女)を秀家の正室に。

さらに秀吉は天正18年(1590年)に秀家の居城・岡山城の城建築策を指示し、完成するには慶長2年までかかり、その間秀家は秀吉の無謀な朝鮮出陣に元帥(現地総司令官)として渡海し、高い評価を得ました。

若いうちから出世して、日本代表みたいな軍の総司令官になったという、いわばエリートみたいな存在だったんですよね。
ただ、トップからヒイキにされていたわけではありますが。







宇喜多家のお家騒動とは?

お家騒動の原因は秀家の乱行と暴政?

お家騒動の原因は秀家の乱行と暴政?

image by PIXTA / 16695309

慶長3年(1598年)に朝鮮出陣より帰国した秀家は、熱中するものがなくなったのか、遊ぶことに夢中になり、鷹狩りや猿楽など金銭を湯水のように使う乱行が始まりました。

当時の宇喜多家は岡山城築城と2回にわたる朝鮮出陣などによる莫大な出費で財政難に苦しんでいて、これに勘定方はやり切れず家老たちが進言すると、秀家は「必要な金は民衆から取れ」と秀吉が行った検地の方法を拡大強化。

領国内に過酷な検地を実施して封土を広げ、さらに家臣の領地を削ったり、寺社領を没収して新しく約20万石を打ち出しました。

また豪姫が病気した時、日蓮宗の僧侶に祈祷を命じましたが全く効果がなく、全土の日蓮宗にキリシタンへの改宗を命じるなど乱暴狼藉な政治を行い、この結果、この民衆に対する無理な政治の賛成派と反対派が対立。
前者を官僚派、後者は武断派と呼ばれています。

官僚派の国老の思想は進歩的で、当時西日本に蔓延していたキリスト教徒になる者が多かったのに対し、武断派は保守的な思想の日蓮信者。

この時代の岡山にもキリシタンになる人が多かったのには意外な思いです。
また民衆に無理を強いたのが進歩的な人なのも、なんとも言えません。

秀家&官僚派と武断派の対立とは?

秀家&官僚派と武断派の対立とは?

image by PIXTA / 25644095

このような対立でもちろん秀家は進歩的官僚派を信任していたので、保守的武断派だった仕置家老戸川達安(みちやす)は解任され、秀家の信頼を得ていた長船紀伊守(おさふねきいのかみ)がこの職に登用されました。

長船紀伊守は豪姫の付き人として前田家から来ていた中村次郎兵衛などと組んで国政を思うままにし、厳重な検地政策を強行し、秀家を中心にキリスト教徒として団結。
旧来の宇喜多家の伝統を無視した革新政治を断行しました。

これに対し宇喜多左京亮(さきょうのすけ)や戸川達安などは人民を苦しめる無理な検地主義に反対。
宗教的には宇喜多家累代の日蓮信者として団結し、ここに骨肉を食らい合うような戦いが起こったのです。

慶長3年(1598年)、保守派国老花房職之(はなぶさもとゆき)が長船紀伊守と衝突し、秀家は職之に閉門切腹を命じましたが、秀吉のとりなしで常陸の佐竹家に預けられることに。

次のページでは『お家騒動の結果、秀家の命運も尽きた?』を掲載!
次のページを読む >>