「今川氏真」ってどんなひと?桶狭間で全てが暗転、滅亡後は流浪のアーティスト

皆さんは今川氏真という人を知っておられますか?現在やってる大河ドラマ「おんな城主直虎」で尾上松也さんが演じているので、知ってる人は多いのではないでしょうか。蹴鞠をしている所が印象的ですね。では、その氏真はどういう人生を送ったのか?氏真の父・今川義元はどんな人?桶狭間の戦いは氏真にどんな影響を与えた?今川家が滅亡するまでの経緯は?また滅亡後の氏真はどのように生きた?などについて見ていきたいと思います。

氏真の父・今川義元、そして今川氏とは?

氏真の父・今川義元、そして今川氏とは?

image by PIXTA / 34625581

まずは今川氏真の父・今川義元から説明していきます。
氏真はまだしばらく出てきませんが、義元と桶狭間の戦いのことを説明しておくことで、氏真の背景をよく説明できると思いますので、少しご辛抱をお願いします。

今川義元はかつては愚将だという意見が多く、お歯黒を付けた軟弱者で、輿(こし)で戦場に出る肥満体、桶狭間で織田信長に敗れたのは義元の油断が原因だ、と。
しかし、これらは後世に作られた俗説で、敗者だから押し付けられた汚名なのです。
「油断して負けたから義元は軟弱」と結果で決めつけられた感じですね。

今川氏は室町幕府を率いる足利将軍家の支族。
将軍職を継げる立場にある名門中の名門で、義元は11代目。
父親で9代目の氏親(うじちか)は遠江(とおとうみ、静岡県西部)を平定した人物。
5男の義元は永正16年(1519年)に生まれ、4歳で仏門に入り、15歳で京都五山の一つ、建仁寺に学び深い教養を身に付けました。

17歳のとき、6つ上の長男で10代目の氏輝と、次男の彦五郎が同日に急死。
同日にたまたま死ぬことってあるのでしょうか?義元もしくは他の誰かが暗殺したということも考えられますよね。
ともかく義元は還俗(げんぞく、僧から一般の人に戻ること)し、3男の玄広恵深(げんこうえたん)を血みどろの家督争いで敗死させた末、11代目の座をもぎ取りました。
その後は領国を駿河(静岡県中央部)と三河(愛知県東部)にまで広げ、「海道一の弓取り」とあだ名されます。

氏真の運命を変えた桶狭間の戦いとは?

勝って当然の、簡単な戦のはずだった?

勝って当然の、簡単な戦のはずだった?

image by PIXTA / 15310937

一方の織田信長は満26歳になろうとするところで、前年に尾張統一を果たし、信長は織田家の後継者争いのスキを突いて今川家が服属させた尾張の鳴海城と大高城を、近くに築いた砦を足場に奪い返そうとしていました。

41歳の義元は、生意気な動きを見せる信長をとひねり潰すことに。
今川は2万5千で、織田軍はわずか3千。
永禄3年(1560年)5月12日、大軍を率いた義元は尾張に侵攻。
造作もない戦になるはずでした。

「直虎」でも直虎の父らが今川家に呼ばれて出陣し、「簡単な戦だから大丈夫だ」と出陣していくのでしたね。

また義元は直前の永禄元年(1558年)ごろに子の氏真に家督を譲り、国元の政治を氏真に任せたようです。

5月19日未明、今川傘下にあった尾張の沓掛城(くつかけじょう、愛知県豊明市)から今川軍先鋒が出陣、大高城(名古屋市緑区)を脅かす丸根砦と鷲津砦(わしづとりで、どちらも名古屋市緑区)を撃破。
丸根砦を破ったのは、7歳で今川の人質となった、満17歳の松平元康で、後の徳川家康です。

夜が明けると今川本隊も沓掛城を出立、大高城に向かいました。
義元が塗輿(ぬりこし)に乗ったのは、足利将軍家から与えられた特権を戦場でも顕示しし、敵を威圧するため。
「我は将軍家の血を引くものぞ!」と言うことで、敵が恐れおののくことを狙ったのですね。

大敗は油断と不運の豪雨、奇襲によるもの?

大敗は油断と不運の豪雨、奇襲によるもの?

image by PIXTA / 15310938

沓掛城と大高城の中間点に桶狭間山という小高い山があり、山頂には木を伐り、柵を作るなどして今川の陣所が設営されており、義元はここで昼食を取る予定で、さらに義元はこの場所で茶会を開き、酒も出たといい、緒戦の勝利が今川軍の緊張を柔らげていました。
「油断し過ぎじゃない?」と思う人もいるかもしれませんが、戦とはいえずっと緊張しているわけにもいきませんよね。
それにそれほど余裕な戦だったと思われていたということ。
ただ、飲酒はやり過ぎかもしれません。

すると午後1時過ぎ、急な豪雨が今川軍を襲い、一行はそれぞれ木陰に宿るなどしてしのいだのではないかと言われています。
そして、その雨が上がったとき、信長が奇襲をかけてきたのです。
まさか、この大軍の本隊に信長が奇襲をかけてくるなど、思いもしなかったのではないでしょうか。

織田軍が、やや離れた善照寺砦(名古屋市緑区)にいることは確認済み。
それがまさか桶狭間山の麓にまで急進しているとは思いもよらず、最初は失火かケンカか、反逆か、と思われましたが、敵襲と気付いたときには迎撃態勢を整える機会を逃していました。

義元が討ち取られ、今川家は滅亡の道へ

義元が討ち取られ、今川家は滅亡の道へ

image by PIXTA / 22837453

今川家は戦のセオリーとして、とりあえず安全な城まで退却しようと考えました。
この時「今来た沓掛城に戻ろうとするグループ」と「これから行こうとする大高城に逃げ込もうとするグループ」の2つに分かれてしまったといい、これにより今川軍は混乱し1人また1人と討ち取られ、ついには義元も首を取られることに。
後は総崩れとなり、桶狭間の戦いは「戦国史上、もっとも華々しい逆転劇」と語り伝えられるのです。

元康は義元の息子・氏真に弔い合戦を勧めますが氏真は拒否。
「今川家もここまでか…今が別れ時!」と家康は思い、今川家を見限り織田と結びました。
「直虎」で元康が出身地の岡崎城に「入れてしまったのう!」と言うシーンが思い浮かびます。
一方、直虎の父・井伊直盛など国人や今川家の重臣も多く討ち死に。

そして、今川家はここから急激に衰退し、氏真の運命も暗転。
滅亡への道を辿っていくのです。

桶狭間の後の氏真は?

武田と徳川に攻められ、今川氏は滅亡

武田と徳川に攻められ、今川氏は滅亡

image by PIXTA / 34625542

義元の嫡男・氏真は天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘で信玄の妹)との間に嫡子として生まれ、天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚したことにより、甲相駿三国同盟が成立しました。

弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場しています。
言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録しています。
大河ドラマでも演じられているように、政治や戦争よりも芸術の人、いわばアーティストだったのですね。
氏真は永禄元年(1558年)ごろに義元から家督を譲られたとされ、桶狭間で討ち取られたとき、義元はすでに隠居の身だったのですね。
国元を氏真に任せて自身は京へ攻め上がるつもりだったのでしょう。

桶狭間の戦いで井伊直盛などの国人が討ち死にしたことで、三河・遠江の国人の中には今川家の統治への不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れ、三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかったのです。
氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことに。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

湯河原温泉の歴史とお薦めスポット3選!万葉集にも詠まれた古湯です
世界遺産「カトマンズ」の魅力と歴史。ヒマラヤに抱かれし栄光の都
「平将門」の歴史。天皇になろうとして失敗するも、後世に残した影響とは?
小早川隆景ってどんな人?毛利家内でいちばんの切れ者
京都観光前に知りたい「東寺」の基礎知識。外せないおすすめポイントは?
サンフランシスコの観光で行きたい!「歴史的」観光スポット11選
西南戦争ってどんな戦争だったの?九州南部全域を巻き込んだ、近代最後で最大の内乱
京都観光前に知りたい「三十三間堂」の基礎知識。外せないおすすめポイントは?
世に聞こえたる「鬼玄蕃」佐久間盛政、無敵の若武者の潔い最期
「後三年の役」ってどんな戦い?東北地方の覇者によるお家騒動
明石城観光前に知りたい!日本100名城「明石城」ってどんなところ?
足利義輝の生涯を追う。室町幕府末期に鮮烈に散った剣豪将軍