石田三成に過ぎたるものといわれた「佐和山城」ってどんなところ?

佐和山城は、現在の彦根市にあります。昔から東国と朝廷や大阪のある畿内を結ぶ要所と知られていて、軍事的にも重要な場所にありました。

鎌倉時代の「佐々木氏」、「六角氏」、戦国時代の「浅井氏」、豊臣政権になって「石田三成(いしだみつなり)」、関ヶ原以降の「井伊直政(いいなおまさ)」に至るまで、有名な武将達がこの城をめぐっての歴史を作っていきました。

その歴史を追いながら、この城がどれだけ重要な場所だったかを見ていきましょう。

佐和山城のはじまり

佐和山城のはじまり

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鎌倉時代に、近江守護職で、名前の由来になった「佐々木荘」の地頭だった「佐々木定綱(ささきさだつな)」の六男の「佐保時綱(さほときつな)」が砦を作ったのが始まりだと公文書に残っています。
名字というものは公卿や武士などの階級に許されたものですが、たいがいは天皇家から臣下に下った人がほとんどで、住んでいた場所を名字としていました。
この佐々木一族は「鎌倉幕府」や「室町幕府」に深く関わっています。

佐々木氏の支配の時の佐和山城はひとつの砦の城という位置ですが、歴史の表舞台に出てくる織田信長の時代までのあらましを知ることによって、なぜ重要な城へとなったのかがわからないと思いますので、おつきあいください。

佐々木一族とは

佐々木一族とは

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佐々木一族は「宇多天皇(うだてんのう)」の第8皇子「敦実親王(あつざねしんのう)」を祖とする「宇多源氏」ですが、もう独立して「近江源氏」「佐々木源氏」と呼ばれるほど有名な一族です。

佐々木氏始祖「佐々木秀義(ささきひでよし)」は、1156年の「保元の乱(ほげんのらん)」で「源義朝(みなもとのよしとも)」の軍に味方して勝利。
しかし1159年の「平治の乱(へいじのらん)」で「平清盛(たいらのきよもり)」軍に敗れて奥州に逃れる途中、相模国の「渋谷重国(しぶやしげくに)」にかくまわれました。
そこで伊豆に流されていた「源頼朝(みなもとのよりとも)」を討つという話を聞き、長男の「定綱(さだつな)」に知らせに行きます。
その後、頼朝の挙兵の時には、定綱を筆頭に「経高」「盛綱」「高綱」4兄弟がはせ参じて、壇ノ浦まで大活躍をし、元の土地である近江をはじめ長門・石見・隠岐の守護を任じられます。

佐々木定綱の災難

佐々木定綱の災難

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1191年、佐々木荘で比叡山延暦寺の千僧供料の貢納を巡っていさかいが起きます。
当時の比叡山は「僧兵(そうへい)」という武装したお坊さん達がたくさんいました。
その僧兵達が乱入してきます。
その時に次男の「定重」が「神鏡(手向かいができないように、僧兵達は鏡を持って攻めてきます)」を壊してしまいました。
怒った比叡山は神仏の権威を元に、朝廷や幕府を巻き込んで後に「建久二年の強訴(けんきゅうにねんのごうそ)」と呼ばれる強訴を行いました。
なにせ朝廷にも神輿を御所に置いていき「天皇自ら比叡山に持ってこい」というくらいの強いところですので、朝廷も幕府も力を尽くしてくれましたが、佐々木定綱はいうとおりにしなくてはならなくなりました。

神鏡を壊した次男の定重は比叡山の衆徒によって斬首されて、長男の広綱は隠岐国、三男の定高は土佐国、定綱は薩摩国へと流罪となってしまいます。
しかし「吾妻鏡(鎌倉幕府の記録)」によると、2年後の1193年3月に鎌倉に召還されて、10月28日に鎌倉に帰ることができました。
頼朝はとても喜んで、定綱は本領の近江守護に戻ることができ、隠岐、長門、石見の守護り守護にも戻ることができたのでした。

武家政権の産みの苦しみに巻き込まれる

武家政権の産みの苦しみに巻き込まれる

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1221年、幕府が政治をするのが面白くない「後鳥羽上皇」と幕府の間で「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が起こります。
この戦いは武家政権が確実になる戦いで、頼朝が亡くなった後でしたので幕府内でも揺らぐ人達がいました。
そこへ頼朝の奥さんである「北条政子(ほうじょうまさこ)」が「再び朝廷の犬になるのか!頼朝の恩を忘れたか!」と檄を飛ばして、武士達の多くは幕府にとどまります。

しかし、近江は京に近く「検非違使(けびいし)」という今でいう警察のような仕事と山城守だった、定綱の嫡子の「佐々木広綱(ささきひろつな)」を始め一族ほとんどは上皇に味方してしまいました。
反対に鎌倉で執権の「北条義時(ほうじょうよしとき)」の婿となっていた弟の「佐々木信綱(ささきのぶつな)」は幕府につきました。
戦いは幕府の勝利でおわりました。
上皇についていた広綱は、信綱に斬首されて信綱が総領となりました。

大河ドラマ「平清盛」でもありましたが、こういう時は親兄弟に処刑させることがあるのですね。
他人に殺させるくらいならばという説明がありましたが、悲しい話です。







六角氏と京極氏

六角氏と京極氏

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信綱が亡くなると、近江は4人の息子に分けて継がれます。
三男の「佐々木泰綱(ささきやすつな)が始祖となる「佐々木六角氏=後の六角氏」の祖。
四男の「佐々木氏信(ささきうじのぶ)」が「佐々木京極氏=後の京極氏」の祖となりました。

鎌倉政権では、嫡流の六角氏が近江守護を世襲していきます。
京では六波羅を中心に活動します。
庶流の京極氏は鎌倉を拠点として幕府要職を務めて、執権の「北条得宗(本家)」の直々の被官に近い活動をしていきました。
そのため嫡流より庶流の京極氏の方が力が上になっていきます。
「婆娑羅大名(ばさらだいみょう)」で有名な京極氏の「佐々木道誉(ささきどうよ)」は、「足利高氏(足利尊氏・あしかがたかうじ)」の鎌倉幕府討伐に早くから加わって、「室町幕府」をたてた「足利政権」の有力者となりました。
一時期は佐々木道誉が近江守護になりましたが、後に六角氏に戻しています。
そして六角氏は南近江・京極氏は北近江で戦国武将となっていったのでした。

戦国時代の佐和山周辺

戦国時代の佐和山周辺

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日本中を巻き込んだ「畠山氏」「斯波氏」の跡継ぎ騒動から始まって、「細川勝元(ほそかわかつもと)」と「山名宗全(やまなそうぜん)」の権力争いに、室町幕府8代将軍「足利義政(あしかがよしまさ)」の跡継ぎ騒動までというとんでもない内乱が11年も続いた「応仁の乱(おうにんのらん)」の後、六角氏家臣の「小川左近大夫」と「小川伯耆守」が佐和山城の城主になりました。
ようやく歴史の表舞台に出てきたのです。

織田信長との戦い

織田信長との戦い

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戦国時代の後期になっていくと「織田信長」の妹「市(いち)」を奥さんとした「浅井長政(あさいながまさ)」で有名な「浅井氏」が台頭してきました。

浅井氏は跡継ぎ問題で疲弊していた京極氏を取り込んで、京極氏を傀儡にして勢力を伸ばしていきます。
しかし「浅井久政(あさいひさまさ)」の代になると、京極氏の盛り返しや、美濃の守護の「斎藤道三(さいとうどうさん)」との戦いで北近江は戦場になりました。

斎藤道三の死とともに斉藤氏の脅威は消えたものの、今度は六角氏が攻めてきます。
浅井氏は京極氏と六角氏を徐々に取り込んでいき、戦国大名へと変貌していったのでした。
浅井氏が近江を支配したことから、浅井氏家臣「磯野員吉」が城主となりました。

1570年、「磯野員昌(いそのかずまさ)」が、浅井・朝倉連合軍を討伐するためにやってきた「織田信長」軍と8ヶ月という長い時をかけて大戦闘を繰り広げます。
1571年2月に降伏。
織田氏家臣の「丹羽長秀(にわながひで)」が入城しました。

これによって浅井氏・朝倉氏が支配していた北近江六郡と若狭国のを支配し、佐和山城はその拠点となったのでした。

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