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平成の世で明るみに出た遺骨の声

これらには刀傷があり、中には女性のものまであったんです。
平成20(2008)年になってようやく、彼らがどうしてこのような状態になったのか判明しました。
彼らは、天正19(1591)年に豊臣方に開城した際の皆殺しの犠牲者だったのです。
九戸城主・九戸政実は、彼らがこうして殺されたことを知らなかったかもしれません。
というのも、彼は開城後に宮城県に送られ、そこで斬首されていたからです。
もしかすると、自分の命と引き換えに、彼らを守れたと安堵していたかもしれないんですよ。
そうだとしたら、何という悲しい事実でしょうか…。
自分の首を差し出して民衆を守ろうとした九戸政実、これだけでもヒーロー的要素のある人物だとお判りになるかと思いますが、なぜこんな悲劇的な結末に至ったのか、これから解説していきますね。
九戸氏と南部氏

九戸氏はそのうちのひとつであり、主を同族で主流の南部氏と仰いでいました。
南部氏は、元々は、平安時代末期の東北の戦乱を収めるためにやってきた源氏の末裔だったようです。
つまり、九戸氏も源氏の末流に連なると考えられてもいます(諸説あり)。
九戸政実は、天文5(1536)年に九戸城主・九戸信仲(のぶなか)の嫡男として誕生しました。
主と仰ぐ南部宗家当主・南部晴政(なんぶはるまさ)を助けて勢力拡大に大きな貢献を果たし、その武勇は南部氏にとってはなくてはならない存在でした。
また、政実自身も南部宗家に尽くす心は揺るぎないものだったんです。
しかし、南部氏を宗家としていても、血族である他家は、自分たちと宗家は同列であると考えていましたし、そうした連合政権が当然となっていたようなんですね。
それが壊れたからこそ、九戸政実が挙兵するにいたったわけなんです。
その経緯については、これからご紹介していくうちに判明しますので、少しお待ちください。
南部家のお家騒動の始まり

その一方、晴政の二女は政実の弟・実親の妻となり、政実は宗家との関係を強めました。
ところが、この5年後、晴政は54歳にして初の男子に恵まれました。
晴継(はるつぐ)と名付けたこの息子を、晴政は溺愛します。
しかも、折悪しく信直の妻となった晴政の長女が病死。
信直の存在は宙に浮いた感じになってしまいました。
それをわかっていた信直もまた、養嗣子を辞退して城を出て行ったんです。
しかし、晴政はこうした信直の動きに不信感を抱きました。
もしや自分に刃向うのでは…と思ったようですね。
確かに、こうした関係って一度揺らぐとなかなか元に戻りにくいもの。
加えて、信直に近しい家臣たちは彼を自分の館に迎え入れたりもしていたんですね。
こうして、徐々に家臣たちも分裂し、晴政VS信直の構図が否応なしにでき上がっていったんです。
もちろん、政実は晴政との結び付きにより、信直とは距離を置くようになっていました。
次期当主を巡る争い

そして、火に油を注ぐような出来事が発生しました。
晴政の跡を継ぐはずだった13歳の晴継が、父の葬儀後に暗殺されてしまったんです(病死説もあり)。
となれば、嫌疑はもちろん信直に向けられます。
晴継がいなくなれば、当主の座は信直に回る可能性は高いですよね。
政実はこの時、信直を主の息子の命を奪った仇とさえみなしていたかもしれません。
しかしとにかく後継者を決めなくては…と、家臣団が会議を開きました。
候補に挙がったは、信直と政実の弟・実親の2人。
実親は晴政の娘婿に当たりますから、当然、後継者と目されてしかるべきだったんですね。
もちろん政実は弟を推します。
政治的にも感情的にも当たり前ですね。
しかし、信直派の参謀・北信愛(きたのぶちか)は、抜け目のない人物でした。
彼の事前の根回しによって、南部一族の重鎮・八戸政栄(はちのへまさよし)を味方に引き入れていたんです。
八戸の影響力はかなりのもので、これで、南部宗家の後継者は信直と決定してしまったのでした。
いつの時代も、裏工作って政治には必要なんでしょうかね。
不本意ですが、それを認めざるを得ない出来事でした。
南部宗家からの離反と秀吉の「奥州仕置」

弟・実親が当主になれなかったことはもちろんですが、信直が晴継に手を下したのではないかと思っていたようで、彼の胸の内では、信直への不満と不信がどんどん大きくなっていったのでした。
そして、彼は自分の領地へ戻ると、天正14(1586)年には、何と「自分こそが南部当主である」と自称するようになったんです。
政実と信直の亀裂が決定的になったのは、天正18(1590)年に豊臣秀吉が行った奥州仕置き(おうしゅうしおき)の直後でした。
小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は天下統一をほぼ成し遂げます。
そして、小田原攻めに参加した東北諸将とそうでない者たちの領地について、検地を実施し、再分配を行ったんですよ。
これが奥州仕置なんです。
この時、信直は兵を率いて秀吉の元に馳せ参じており、秀吉から正式に南部宗家の当主として認められていました。
これはつまり、当主ひとりだけが大名として認められるため、南部宗家以外の同族は一介の家臣となることが義務付けられたのと同然となってしまったんですよ。
これは、今まで同列の立場から政権を運営してきた一族の者にとっては、すべてを今までとはガラリと変えられてしまった、不満の残る処置だったと言えます。
不満を持つ一派の筆頭が政実だったというわけですね。
そして、政実は翌年の正月参賀をボイコットします。
本来、家臣は主のところへ正月にうかがうのがならわし。
それを破ったということは、明確な敵意があると示したのと同じことでした。
政実、挙兵す

武勇の将であった彼に率いられた九戸勢は、猛者揃いで非常に強く、次々と南部側の城へと攻め込んでいきました。
その勢いは、もはや南部宗家の当主・信直でもどうにかできるものではなくなっていたんです。
政実を勢いづけた要因はもうひとつ。
それが、秀吉の行った奥州仕置に対する一揆でした。
秀吉のやり方への不満という点で、彼らは一致していたんですね。
信直はとてもすべてに対抗しきれないと悟ると、すぐに秀吉に援軍要請をします。
その後、自らも秀吉に謁見し、東北の混沌とした状況を報告したんです。
これを聞いた秀吉は激怒。
天下人たる自分のやり方に、公然と反抗するとは何事か!と、討伐軍を編成して東北へと差し向けました。
政実だけでなく、東北各地で続発する一揆勢もこの際鎮圧しようと、それはすさまじい数の軍勢となりました。
総勢は6万とも言われています。
総大将は、秀吉の養子で世継ぎと目されていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)。
そして、会津の名将・蒲生氏郷(がもううじさと)や秀吉側近の浅野長政(あさのながまさ)、徳川勢からは大河ドラマでおなじみの猛将・井伊直政(いいなおまさ)までもが派遣されるという、名前を見ただけで逃げ出したくなるような面々がずらりと顔を並べたんです。
こんな軍勢が、京都からやって来た(途中合流も含む)わけですから、いかに秀吉がこの鎮圧に力を入れていたかがわかりますよね。
思いもよらぬ講和の申し出に、政実は…

10倍以上の兵力を前にしても、政実とその兵たちは臆することなく戦ったといいます。
しかし、やはり多勢に無勢。
川に囲まれた天然の要害・九戸城といえども、落城は時間の問題でした。
そこで、豊臣方・浅野長政が、九戸氏の菩提寺・長興寺(ちょうこうじ)の薩天和尚を使者として、政実に講和を持ちかけてきたんです。
その言い分は、「開城するならば、女子供や城兵の命は助ける」というものでした。
浅野長政は、秀吉の奥州仕置に際しての実行役を務めていました。
検地も彼が行っていましたし、東北の人々がこのやり方に不満を持っているのもわかっていたんですよ。
だからこそ、政実の気持ちも理解していたのではないかと思います。
それに加えて使者が薩天和尚とあっては、政実も無下にはできなかったことでしょう。
そして何より、政実は自分についてきてくれた人々の命を救うことを優先したんです。
これは豊臣方の謀略だという家臣もいましたが、政実はそれを退けると、講和を受け入れたのでした。