負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様

政実の最期と九戸城の悲劇

政実の最期と九戸城の悲劇

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おそらく、自分の首は差し出さねばならないだろう。

そこまで考えた政実は、弟・実親に後のことを託し、白い死に装束に身を包んで出頭して行きました。

彼の身柄は三ノ迫(さんのはざま/宮城県栗原市)に陣を敷いていた総大将・豊臣秀次の元に送られると、斬首となったのです。
56歳でした。

一方、政実が去り開城した九戸城では、惨劇が起きていました。

開城するなり豊臣軍がなだれ込み、すべての城兵や女性、老人、子供たちを二ノ丸に押し込めて皆殺しにしたんです。

やはり、講和の申し出は謀略でした。

しかし、いったい誰が皆殺しを命じたのかははっきりしていません。
もしかすると、秀吉は最初から九戸勢を皆殺しにせよと討伐軍に命じていたのかもしれない…と勘ぐってしまいます。

人々が皆殺しにされた九戸城には火が放たれました。

夜空を赤く染め上げた炎は、三日三晩にわたって燃え続けたと言われています。

そして、殺された人々の骨は、約400年後、平成の世になってからこの世に再び現れ、当時の惨劇を私たちに伝えることとなったのでした。

遠く宮城の地で死を迎えた瞬間、政実は、九戸城に残った人々の運命がどうなったか知っていたのでしょうか。

いずれにせよ、悲劇的な結末にしかならなかったことは言うまでもありません。

九戸政実の乱以降、秀吉に対する大規模な反乱は影をひそめました。

言い換えるなら、政実こそ最後まで秀吉という巨大な権力に立ち向かい、理不尽なシステムに抵抗した最後の東北武士ということになるでしょう。
これこそが、政実のプライドでした。

その後の九戸氏

その後の九戸氏

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斬首された政実の首は、生き残った家臣が密かに九戸に持ち帰って埋めたと言われており、政実の首塚が今も残されています。
その側には九戸氏を祀る九戸神社があり、後に政実を祭神とした政実神社も境内に建立されました。

また、落城した九戸城は改修され、後に南部氏の居城となり「福岡城」と改称されます。
しかし、人々は政実への思いを胸に、「九戸城」と呼び続けました。
そして現在に至るのです。

ところで、実は、九戸氏の血は政実で絶えたわけではありませんでした。

政実の実弟・中野康真(なかのやすざね)は、複雑な経緯を経て何と南部信直の下で仕えるようになっており、政実の乱の際にも信直方だったんです。
しかも、九戸城攻めの案内役を豊臣方から仰せつかったというのですから、何とも皮肉なことですよね。

そして、九戸氏の血を引く中野氏として、八戸氏・北氏と共に南部家老御三家として続いていったんです。

敵とみなした家の中で自分の血脈が保たれていくとは、政実は考えもしなかったのではないでしょうか。

兵どもが夢の跡

九戸政実の乱は、日本史における戦国時代・安土桃山時代において、規模としてはとても小さな、単なる辺境の乱にすぎません。
しかし、強大な権力に真っ向からモノ申した存在として、当時としてはかなり鮮烈な印象を残したはずです。
旧体制から新体制への移行を拒んだだけと言われるかもしれませんが、政実が守ろうとした九戸氏のプライドと、彼を慕う多くの地元の人々の存在があったことを、ぜひ今回の記事を通して知っていただけたらと思います。






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