冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期

本能寺の変の後、徳川家康が伊賀の山を越えて三河に戻った「神君伊賀越え」は有名ですが、それ以上の山越えをしたのが佐々成政(さっさなりまさ)。なんと極寒の北アルプスを越えたと言われているんですよ。そんな危険を冒してまで、なぜ彼が冬の山越えを決行したのでしょうか?織田家の重臣として活躍するも、時代の流れに巻き込まれ、無念の最期を遂げた彼の人生に迫ってみたいと思います。


信長配下のエリート集団・黒母衣衆となる

信長配下のエリート集団・黒母衣衆となる

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佐々成政が生まれた年には諸説あり、天文5(1536)年・天文8(1539)年・永正13(1516)年とも言われています。
尾張(愛知県)の土豪。
佐々一族に生まれました。

成政は三男でしたが、2人の兄は相次いで戦死してしまい、永禄3(1560)年、彼に家督の座が回って来ます。

ちょうどこの年、桶狭間の戦いが起き、織田信長が今川義元を破って天下にその名を知らしめることとなりました。

そんな信長に、成政は仕えることとなります。
信長の馬廻(うままわり/主の馬の回りで主を守る役目)から出世した彼は、黒母衣衆(くろほろしゅう)のメンバーとなり、信長の将来的な重臣となるキャリアを約束された形となりました。

母衣衆と母衣について

成政が選ばれた黒母衣衆、ひいては母衣衆についてご説明しましょう。

まずは母衣(ほろ)について。

母衣とは、古くは鎧の上を覆う布であり、防寒対策や矢などを防ぐものでした。
しかし戦国時代になると、兜や鎧の背に竹などで作った骨組みを付けて、布をかぶせた仕様となります。
こうして、戦場で敵味方双方に自分の存在を示すものとなり、本陣と前線を行き来する使い「母衣武者(ほろむしゃ)」が登場することとなりました。
母衣武者となることは名誉でもあり、その集団「母衣衆」はまさにエリートとも呼べる存在だったんですね。

また、母衣には赤や黄、黒などが使われたため、「赤母衣衆」や「黒母衣衆」などと呼ばれるようになりました。

信長の母衣衆には、黒母衣衆と赤母衣衆がいましたが、黒母衣衆の方がより格上だったとも言われています。

信長の下でキャリアを積む

信長の下でキャリアを積む

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黒母衣衆の一員となった後、成政は数々の戦に参戦します。
信長が浅井・朝倉連合軍と戦うことになる姉川の戦いの直前に撤退戦をしなければならない状況になると、成政はそこで殿軍(しんがり)を務めることとなりました。
殿軍は危険であると同時に、命がけで主を守る名誉でもありましたが、彼はこの時、鉄砲隊を用いて見事に信長を逃がし、自らも生還するという大きな功績を挙げたのです。

また、天正3(1575)年の長篠の戦いでも鉄砲隊を率いて活躍しており、鉄砲の扱いに慣れていたのかとも思われます。
ただ、皮肉にも長男を流れ弾で失っています…。

当時、信長は各地の一向一揆に手を焼いていました。
浄土真宗本願寺派の信徒による一揆で、越前や加賀(福井県)、長島(三重県)の一揆はかなり大規模で、信長は各地に兵を割かなければならない状況でした。

しかし、信長の重臣・柴田勝家らによって越前一向一揆が鎮圧されると、勝家を中心とした北陸方面軍が結成され、成政は勝家の与力(よりき/司令官役の武将に力を貸す武将)となりました。
同じく勝家の与力となった前田利家や不破光治(ふわみつはる)らと共に、成政は「府中三人衆」と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、府中とは「国の都、国府」という意味であり、ここでは越前国の府中を指しています。

ただ、越前の府中三人衆のひとりとはいっても、成政はかなり忙しく動き回っていたようです。
越前に常駐していたわけではなく、石山本願寺との石山合戦や播磨(はりま/兵庫県)の平定、信長に反抗した荒木村重を攻めるなどしており、信長の家臣の中でも頭角を現していたことがわかります。

越中一国を任される

越中一国を任される

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一方で、成政は勝家に従って越中一向一揆を平定しました。
やがて、功績のあった彼は越中(富山県)一国を任されることとなります。
越中は越後(新潟県)の上杉氏の領地と接しており、かなり用心しなければならない場所でもありましたので、成政が信長の信頼を受けていたことは確かでしょうね。

成政はここで、内政面でも力を発揮しました。

天正8(1580)年、この地を流れる常願寺川(じょうがんじがわ)に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築き、治水工事を行っています。
この場所では、立山の雪解け水による水害が度々起きており、この佐々堤は水害の軽減に大いに役立ちました。

領民は成政を慕い、後の世まで遺徳を偲ぶため、彼を祭神として祀っています。
神となった彼は、地元の人々には「じょうしょう(成正)さま」と呼ばれました。
なぜ成政でなく成正なのかというと、後にここを治めた前田家を憚り、一字を改めたんだそうですよ。

また、成政はこの地で「気前の良い殿様」として評判だったようです。
新たに彼に仕えようとする者が希望の禄高を申告すると、それを上回る禄高を与えたため、成政の元には多くの仕官志願者が訪れたとか。
成政自身も、彼らの武功話に興味深く聞き入り、実力のある者を召し抱えたようですね。

信長の死後の動向

信長の死後の動向

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信長配下の家臣として着々と足場を固めていた成政ですが、天正10(1582)年に本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれてしまうと、その立場は途端に揺らぎ始めました。

柴田勝家が指揮し、成政も含まれていた北陸軍が上杉攻めで動くことができずにいた間に、豊臣秀吉(当時は羽柴)に明智光秀を討たれてしまい、手柄を取られてしまったんです。

その後、信長の後継者を決定する清洲会議(きよすかいぎ)でも勝家と秀吉の意見は対立し、両者の溝は急速に深まっていきました。

そして、天正11(1583)年に勝家と秀吉の間で賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが起きたのです。

成政自身は、上杉方への備えのため、勝家軍には援軍を出すにとどまりました。

戦況は、前田利家が秀吉側に寝返ったために勝家が敗北し自害することとなり、勝家側に兵を提供した成政もまた、その咎を受ける身となってしまったんです。

そこで、成政は剃髪し、秀吉に降伏しました。
娘を人質に出し、恭順の姿勢を見せたため、何とかここでは越中一国を保証されたのです。
直接参戦しなかったことが、結果的には彼の立場を救うことになりました。
とはいえ、ずっと従ってきた勝家が死に追いやられ、秀吉が織田家を牛耳る形となったことは、成政にとっては快いものではなかったはずです。

それが、彼を北アルプス・立山連峰越えへと駆り立てることとなったのでした。

「さらさら越え」決行!

「さらさら越え」決行!

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天正12(1584)年、ほぼ実権を握った秀吉は、今度は徳川家康と対立します。
家康は信長の二男・信雄(のぶかつ)と連合しており、この両陣営の対立が小牧・長久手の戦いへと発展しました。

この時、成政は家康側に付きます。
おそらく彼の心中には主家乗っ取りのような形となった秀吉への敵意があったと思われます。

そして彼は秀吉側の前田利家の所領である加賀・能登を分断するために攻め入りますが、同時に上杉方との戦線も維持していかなければならなかったため、攻めきれずに苦戦を強いられることとなってしまいました。

そうこうしているうちに、秀吉と家康は講和を結びます。

しかし、成政はこれに納得ができず、その年の冬、厳寒の北アルプス・立山を越えて家康の元へと向かったのでした。

これが「さらさら越え」と呼ばれる成政の山越えです。

成政が越えたと言われる佐良峠(ざらとうげ)と成政の名字を合わせ、「佐々の佐良越え→佐々佐良越え→さらさら越え」と呼び方が訛っていったようですよ。

なぜ危険を冒して冬の山越えをしたのか?

なぜ危険を冒して冬の山越えをしたのか?

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それにしても、現代だって冬山登山は厳しいもの。
しかも登って降りて、まだ戻っていったわけですから、とんでもないことですよね。
下手すれば死んでいたわけですから。

それを敢行してでも、成政は家康に講和を翻すように説得しに行きたかったんですよ。

勝家を破り、織田家の後継ぎに幼い三法師(信長の孫・後の秀信)を据え、支えると見せかけてほぼ乗っ取った秀吉。
それを許すわけにはいかん!という思いがあったのかもしれません。

けれど、家康はあっさりと成政の頼みを断り、成政は何の収穫もないまま再び越中へと帰って行ったのでした。

ちなみに、当時の成政が50歳ほどだったということで、本当にそんなことができたのかという声も上がっています。
また、ルートが違い、実は上杉方の助力を得ていたのではないかという説もあるんですって。
実際、成政と越後での書状のやり取りがあったからなんだそうです。

しかし、いずれにせよ、冬のあの辺を行軍するのは大変でしたよね…。

Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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