冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期

埋蔵金伝説と早百合伝説

冬の山越えはやはり成政たちにとっては厳しいものでした。
そのため、彼らが行軍に邪魔な重いものを雪の中に埋めて去って行ったという話があるんですよ。
そして、その中には大量の軍用金があったとも…。
そのため、この場所には埋蔵金伝説があるんですって。

また、こんな伝説も関連づけてご紹介しましょう。

さらさら越えの直前、成政の愛妾・早百合が懐妊しました。
喜んだ成政でしたが、家康のところから帰ってくると、「早百合は成政の家来と密通しており、実は腹の子は成政の子ではない」という噂が立っていたんです。

これは、早百合に嫉妬した成政の他の側室たちが流したデマだったんですが、成政はこれを信じ込んでしまい激怒。
早百合を神通川のほとりに引き出して殺してしまったんです。
しかも、早百合の一族まで…。

死ぬ間際、早百合は「我が恨みは鬼となり、お前の子孫を殺し尽くして家を断絶させてやる!」と叫びました。
そして以後、神通川には女の首と鬼火が出たのだと言います。

ただ、この伝説は、後に越中を治めた前田氏のために、成政が不当に貶められて創作された根も葉もないものだと言われていますね。
確かに、領民に祀られるほどの成政が、こんな非道な仕打ちをするのかな…とも思います。

秀吉に降伏…しかし肥後一国の主に返り咲く

秀吉に降伏…しかし肥後一国の主に返り咲く

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家康の説得が空振りに終わった成政を、秀吉が放っておくはずもありませんでした。

小牧・長久手の戦いの翌年、秀吉は10万の大軍を率いて成政を包囲します。
さすがにどうすることもできず、成政は降伏しました。

命だけは助けられましたが、所領はすべて没収され、大坂へ移住し、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう/話し相手や相談役)として仕えることとなったのです。

そして、天下人への階段を登り続ける秀吉は、天正15(1587)年に九州征伐に乗り出します。
この時、成政は秀吉の弟・秀長に従って出陣し、功績を挙げたとも言われています。

そのおかげか、九州征伐完了後、秀吉は成政に肥後(熊本県)一国を与え、統治を命じたのでした。

越中一国の主から国無しになり、再び国持ち大名に返り咲いた成政。

今度こそ!という意気込みを持っていたはずですが、思いもかけない抵抗が彼を待っていたのでした。

肥後国人一揆を鎮められず…

肥後国人一揆を鎮められず…

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肥後を与えられた成政は、早々に現地に赴任。
そして、検地を開始しました。

しかし、九州は元々国人(その土地の有力者・豪族)の力が強い土地。
加えて、成政は九州とは縁もゆかりもないいわばよそ者だったわけですから、そういう人物が上に立つのは国人にとっては面白くなかったんですね。

また。
検地によって自分の土地の石高を再び定められ、年貢を要請されたわけですから、不満がないわけがなかったんです。

新たな土地での再出発を図った成政が張り切ったせいなのか、検地は性急でした。
それもまた国人の不満を増幅させたんです。

そのため、国人たちはついに一揆を起こし、成政に反旗を翻しました。

この「肥後国人一揆」は3万5千にも膨れ上がり、成政は城を包囲され、家臣や親族を討ち取られるなど、防戦一方。
一揆軍はもはや成政の手に負える状態ではなくなっていたんです。
そこで彼は秀吉に援軍を求め、その力でやっと一揆を鎮圧できたのでした。

しかし、この事実は、成政が領主として支配能力がないということを示してしまったわけです。

翌年、成政は秀吉の元に謝罪しに行きます。
しかし面会することはできず、挙句に成政は尼崎の寺に幽閉され、ついには切腹を申し付けられたのでした。
享年53と伝わっています。







決死のさらさら越えの失敗が、すべてを決めた?

家康を説得すべく、決死の思いでさらさら越えを敢行した成政。
しかし家康は動かず、結果的にさらさら越えは失敗に終わりました。
ここで、成政の運命は決したのかなとも思います。
時の流れを見れば、やがては秀吉の下に入るしかありませんでしたし、その下で果たして元織田方であり柴田方だった彼がうまくやっていけたのか…。
そう思うと、彼のさらさら越えに何ともいえない空しさを感じてしまいます。
また、歴史とはいつ流れが変わるかわからないものだと、成政の生涯を見てきて実感させられました。
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