絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?

再度の謀反、ついに独立大名となる

再度の謀反、ついに独立大名となる

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何を思ったか、浦上宗景が命を奪わないでいてくれたおかげで、直家は再びチャンスに巡り合いました。
ほら、やっぱり…と突っ込んでももう遅し。

直家は、宗景の兄の孫に目を付け、彼を擁して挙兵したんです。
本来ならこちらが主筋でしたので、格好の口実ではあったわけですね。

また、今回、直家は念入りに策を練っていました。

備前国内などの宗景配下の者たちに調略を巡らせ、離反を招いたんです。
その中には重臣クラスの者もおり、宗景の力を削ぎました。
また、宗景とは仲の悪い毛利家と結び、いざとなれば毛利の大軍がやってくるという有利な立場に立ったんですよ。

こうして、直家は宗景を播磨に追いやることに成功しました。
そして、彼の領土は備前・備中の一部や美作(みまさか/岡山県東北部)にまで広がることとなったんです。

とはいえ、浦上家の者すべてが直家に従ったわけではなく、旧浦上家臣と彼らに担がれた宗景らによる反撃にも遭いました。
一時はかなり手ひどくやられましたが、数ヶ月かけた攻防戦の末、ようやく旧浦上勢力を領土内から追い出すことに成功したんです。

そして、やっと直家は宗景から独立した戦国大名としての地位を確立することとなりました。

祖父・能家の無念から約30年余り、ついに直家は宇喜多家の再興に成功したんです。

信長への臣従と最後の謀略

信長への臣従と最後の謀略

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しかしこの頃、織田信長が配下の羽柴秀吉(後の豊臣)に命じ、中国地方の平定に乗り出しました。

最初のうちは、直家は信長に抵抗する姿勢を見せます。
この時、信長に通じたという娘婿・後藤勝基(ごとうかつもと)を滅ぼしており、やはり直家の容赦なさの健在ぶりを見せつけました。
娘のことは考えないのか、直家…!

しかも、それからほどなくして、直家は信長有利と見るや、再び態度を転換。
毛利家と手を切り、信長に従ったんですよ。
いったい何のために後藤勝基は死んだのか…!?

そして一転、今度は敵となった毛利家と幾度も交戦します。

しかしこの時、直家の身体は病に蝕まれていました。

それでも、死の直前の天正9(1581)年4月、直家は妹婿の伊賀久隆を毒殺します。
久隆は、松田家の排除後、宇喜多家内で一大勢力となっていたため、自分の死後のことを考えた直家が手を下したと言われています。
まだこの時、直家の後継ぎとなる秀家は9歳でしたから、さすがの直家も息子の行く末を案じたのでしょう。
それにしても、毒殺とは最後まで直家らしさ全開ですが…。

そして、毛利との戦を続けている最中の同年年末、直家は岡山城にて亡くなりました。

病は「尻はす」という、尻にできる悪性腫瘍だったといいます。
戒名は「涼雲星友」と、謀殺・暗殺・毒殺三昧だった彼にしてはやけに爽やかな戒名です。

宇喜多家を支えた家臣たちや弟

宇喜多家を支えた家臣たちや弟

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幼い秀家が宇喜多家を継ぐと、宇喜多三老と呼ばれる古参の重臣たちと、直家の弟・忠家(ただいえ)らが彼をよく補佐しました。

敵に対しては恐ろしい策を講じた直家ですが、このように家臣たちが後々まで尽くすということは、家臣たちにはいい主であったと言えるでしょう。
信頼関係は篤く、時に家臣にその言をバッサリと切られても、直家は素直に受け入れたそうです。

病が重くなり、死期を悟った直家は、家臣に「誰が自分に殉死してくれるだろうか」と問いかけますが、その家臣は「自分たちは、戦はできますが殉死はできませんし、死んでも地獄に落ちるしかありませんから、死出の旅の供に連れて行くなら僧侶でも連れて行ったらいかがか」とキッパリ断ります。

こんなことをずけずけ言われたら怒りそうなものですが、直家ははっとしたように「そうだった、すまん」と答えたそうですよ。
死の間際にこんな会話ができるとは、面白くもあり、直家と家臣との間に気安い部分があったことも感じられますよね。

ただ、弟・忠家は兄からの信頼とは裏腹に兄を恐れていたらしく、兄に会う時は着物の下に必ず鎖かたびらを身に付けていたそうです…。







宇喜多家のその後

秀家は、後に豊臣秀吉にかわいがられ、猶子となりました。
秀吉は彼を将来の関白候補にまで考えていたようです。
しかし秀吉の没後、関ヶ原の戦いで西軍についた秀家は敗軍の将となり、追われる身となってしまいます。
そして八丈島に流刑となり、そこで一生を終えたのでした。

宇喜多家は「浮田」姓を名乗るようになり、今でも八丈島には浮田さんが多く住んでいるそうですよ。

しかし、直家が謀略によって再興し大名の地位を得た宇喜多家は、次の代で再びその地位を失うことになってしまったわけです。
そこに、戦国時代のはかなさや残酷さがあると思います。
また、秀家が父に似ず謀略の人でなかったことも、宇喜多家の運命を左右したのではないでしょうか。

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