奈良時代から現存する「東大寺法華堂」ってどんなところ?

東大寺は「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」ともいい、法華堂は「三月堂」とも呼ばれています。

東大寺は、1106年に東大寺が衰退した時に再興を願って編纂されたという『東大寺要録(とうだいじようろく)』には、8世紀はじめに「聖武天皇(しょうむてんのう)」と「光明皇后(こうみょうこうごう)」が亡くなった息子の菩提を弔うために作った「金鐘寺(こんしゅじ)」がはじまりだと書かれています。法華堂はその時にはすでにできていて、大仏殿より古いそうです。

その長い歴史の中で、法華堂はなにを見てきたのでしょうか? そして奈良時代の寺院建築ってどんなものなのでしょうか?

ちょっと調べてみましょう。







まずは東大寺ってどんなお寺なんでしょうか?

まずは東大寺ってどんなお寺なんでしょうか?

image by PIXTA / 13042061

正史といわれる『続日本紀』に、728年に45代天皇の聖武天皇と光明皇后が、1歳にもならず亡くなった皇子の菩提を弔うために、若草山麓に房(お寺)を建てて9人の僧を住まわせたという記述があります。
これが東大寺の元となった金鐘寺のはじまりで、この頃には「羂索(けんさく)堂」「千手堂」というお堂があったとされて、これが法華堂だといわれています。

741年、仏教で国家安泰・国家鎮護のために全国各地に「国分寺」という国が経営のお寺のチェーンを建立するようにと、聖武天皇から命令が降り、名前が「金光明寺」となります。
その後、大仏建立がはじまり名前が「東大寺」と書かれるようになりました。

なぜ大仏を作ったのでしょう?

聖武天皇は、740年に「河内国(大阪)」の「知識寺」にある「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」を拝みます。
盧舎那仏というのは「世界を照らす仏」「光り輝く仏」という意味で、お釈迦様が悟りを開いた時の姿だといわれています。
お寺の住職から「この寺も仏様も、仏教を信心している人達が力を合わせて作りました」と聞いた天皇は「私もしたい!」と発願したのでした。

世界各地に色々な寺院・建造物がありますが、これらのほとんどは国が作り、労働力として民衆がかり出されるというのが普通ですが、聖武天皇は「自分は天皇だから寺を作るのは簡単だ。
しかしこれは仏教を信じる人々が、一枝・一握りの土でも持ち寄って建てることに意義がある」という、画期的な言葉を詔として残しています。
みんなで力をあわせて仏様を作り、国を守っていただこう!ということですね。

そして民衆達も、教科書などに書かれているのとは違い、強制労働ではなく賃金や米を支給されていることが現在ではわかっています。
天皇が「これのために民衆を苦しめてはいけない」と命令していたからだといわれています。

東大寺になるまでの道

賃金を払ってもらえるとはいえ、ほぼボランティアに近い話なので、なかなか協力してもらえるのは大変だったようです。
そこで民衆からの支持を得るため起用されたのが「行基(ぎょうき)」というお坊さんでした。

この人は、朝廷が決めたこと以外の布教活動を禁止する「僧尼令」を無視して布教活動をし、貧民救済のための「不施所」を9カ所作ります。
これは豪族や民衆など身分を問わずに利用できるようにしました。
他に寺院49院・溜池15窪・溝や堀9筋・架橋6所などの社会事業をしますが、なにせ法律違反したため弾圧されたといわれています。

しかしこの社会事業で国を潤していったという現実を朝廷が認めることによって弾圧はなくなり、聖武天皇みずから大仏殿の勧進(寄付を募る仕事)を依頼したそうですね。
この功績で仏教では最高位の「大僧正」を贈り(お坊さんの位は天皇しか与えられなかった)、東大寺の「四聖」のひとりといわれるようになったのでした。

聖武天皇は「遷都(首都を変える)」を何度も繰り返しています。
まず「平城京」→「難波宮(大阪)」→大仏を造ると宣言したのは「恭仁京(京都府木津川市)」→最初に造り始めたのは「紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)」→そして「平城京」と戻ります。
平城京に戻って改めて造り直しました。
首都を変えたのは災いから逃れるためといわれていますが、官民からの反発が強すぎて戻ってきたそうです。

752年4月9日、鋳造が終わった盧舎那仏の開眼供養が行われました。
その時にお寺の名前が「東大寺」になったといわれています。
しかしまだ大仏は完成していなくて仕上がったのは755年正月と記録に残っています。
翌年5月2日、聖武天皇は亡くなってます。
まさに命をかけた大事業だったのですね。

東大寺の災難と復興

近年まで仏教は「宗派」という所属する団体というものがありませんでした。
当時の「南都六宗(華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗)」と呼ばれたものは「学問の派閥」のようなものでした。
その中心となったのが東大寺で「六宗兼学の寺」とよばれています。
平安時代に入ると「空海」が「真言院」をつくり「真言宗」と「最澄」の「天台宗」をも加わわって「八宗兼学の寺」となっていきました。

さて、平安時代に京都に都が遷都されます。
「桓武天皇」は京都の寺を主とするために「南都仏教抑圧策」をはじめます。
その後に失火・落雷・暴風雨などによって講堂や門などが被害にあいます。

しかし、一番の事件が平安時代の最後に東大寺を襲いました。
1181年1月15日「平清盛」の息子の「平重衡(たいらのしげひら)」による「南都焼き討ち」です。
これによってたくさんの堂宇が焼き尽くされることになりました。
しかし法華堂は難を逃れることができたのでした。
「源平合戦」の後にできた「鎌倉幕府」によって平重衡は捕まり、幕府ではなく度重なる訴えによって東大寺の信徒達によって処刑されました。
鎌倉幕府の将軍「源頼朝」は、東大寺に多額の寄付をして、再建された東大寺の落慶法要に参列しています。

戦国時代の1567年11月10日、「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれる「三好・松永の戦い」で、またもや大仏殿をはじめとした主要堂塔が焼けてしまいました。
後に仮のお堂などができましたが、正式には徳川幕府の五代将軍「徳川綱吉(とくがわつなよし)」によって1709年に完成します。
これが現在に残っている3代目のお堂です。
しかし全部は復興することはできなかったようで、現在は建物跡だったところの基礎の石などが残っています。







法華堂はどういうところ?

法華堂はどういうところ?

image by PIXTA / 25639673

このお堂は、旧暦の3月に「法華会」が行われていたので法華堂、もしくは三月堂と呼ばれたといわれています。

法華会というのは、「聖徳太子」が岡本宮で法華経の講義をしたのが始まりといわれています。
これは問答形式の検定試験みたいなもので、764年に東大寺で行われて以来、1680年まで「勅会(ちょくえ)=天皇の命令で行われていた会」として毎年行われていたといいます。
しかし一時期は講堂で行われていたこともありました。
現在は行われていないそうですね。
現在でも行われているので有名なのは「比叡山延暦寺」の「四季講堂」での同じ形式での問答です。
昔は問答に負けた僧侶は山を下りなければならなかったといわれています。

法華堂の建物

法華堂の建物

image by PIXTA / 19529316

場所は東大寺大仏殿の東方の丘陵地にあり、当時は「上院」と呼ばれていたといわれています。

南を正面として5間・奥行8間の広さがあります。
奥行8間の後方の4間が仏様達を安置する「正堂(しょうどう)」、手前の2間が「礼堂(らいどう)」、残りは2つをつなぐ「造り合い」と呼ばれています。
礼堂は鎌倉時代に焼き討ちから復興する指揮をした「重源(ちょうげん)」が作ったといわれています。
それまでも礼堂はあったという記録はあるそうですが、現存しているのはこの建物です。

正堂は「寄棟造・平入り」。
礼堂は「入母屋造・妻入り」。
本瓦葺き。
大仏殿から歩いて行くと西側面が見えてきます。
そのちょうど左右半分ずつが奈良時代と鎌倉時代に分かれています。

1897年12月28日「古社寺保存法」当時の「国宝(今でいう「重要文化財」)に指定。
日本最初の国宝指定といわれています。
他にも東大寺の南大門・鐘楼も同時に指定。
1951年6月9日に、新しい「文化財保護法」によって国宝に指定されました。

今まで無事だったのは、神様たちの守護のおかげ?

今まで無事だったのは、神様たちの守護のおかげ?

image by PIXTA / 12217985

法華堂の中にはたくさんの菩薩様や神様たちがおられます。
仏像も奈良時代につくられた方達は今の形式美のようなお姿ではなく、とてもエネルギッシュなお姿となっています。
そのパワーが厄災をはねのけていったのでしょうか?

近年までは18体の神様達が安置されていましたが、2011年に東大寺ミュージアムが開館されてから移動された神様たちもいます。

Writer:

3度のご飯より歴史が好きです。歴女というのが今メジャーなようですが、どちらかというと私は歴史ヲタクという泥臭い感じがします。

この記事のカテゴリ

国内
奈良県
建築
歴史
絶景

関連記事を見る

国内の記事を見る

長崎のお土産ランキング!全部食べて決めた、美味しい&センス抜群&定番のお土産TOP25
長崎市の観光スポット21選!実際に行って決めた編集部厳選スポットはここ
飛騨高山の観光スポット18選 ホテル支配人に聞いたおすすめスポットはここ!
草津観光ならここ!温泉だけじゃない草津満喫の観光スポット10選
飛騨高山のお土産ランキングTOP19 地元民に聞いた伝統グルメ&雑貨はこれ!
武勇と外交に長けた「鬼義重」こと佐竹義重、常陸統一から出羽転封までを語り尽くす
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
四国の雄・長宗我部氏の転落劇の主人公・長宗我部盛親の数奇な人生!
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
実は史跡や文化財の宝庫!日本を代表するホテル「椿山荘」の歴史とは