偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩

防長計略での活躍と守護任命

防長計略での活躍と守護任命

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厳島の戦いにより、陶晴賢は排除され、陶家・大内家が共にさらに弱体化することとなりました。

そこで、毛利家は大内家の領地・周防と長門(山口県)への進出を図り、大内義長を滅ぼしてこの地も自領に組み込みます。
これが「防長計略」と呼ばれる作戦です。

しかし、大内義長の実兄・大友宗麟が西から攻め寄せ、北からは尼子晴久が攻め込んで来たため、毛利家は2つの大勢力に兵力を分散しなくてはならず、かなり厳しい状況に追い込まれました。

隆元はここで、弟・隆景と共に大友宗麟と対峙し、これを退けることに成功しました。

また、当時の室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)によって、隆元は安芸守護、備中・備後・長門守護、周防守護など多くの守護職に任命され、事実上、毛利家は中国地方のほとんどの統治権を認められたのでした。

そして毛利にとっては幸運なことに、手ごわい尼子晴久が死去したことで、大友宗麟とは和議を結び、一気に尼子への攻勢を強める準備が整ったんです。

誰も予想しなかった突然の死

誰も予想しなかった突然の死

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永禄6(1563)年、尼子攻めへ向かう途中、隆元は備後の国人・和智誠春(わちまさはる)の宴に招待されました。

宴席では楽しくやっていたようですが、その帰り、突然隆元は苦しみ出し、そのまま亡くなってしまったんです。
まだ41歳の若さでした。

特に、息子に先立たれた元就の悲嘆は相当のものだったと言います。

あまりにも突然すぎるその死に、病死よりも暗殺(毒殺)説が疑われたのは仕方のないことでしょう。

もちろん、嫌疑をかけられたのは和智ですが、元就はそれ以前に、何と隆元の腹心・赤川元保に疑いをかけたんですよ。
そして彼を切腹させてしまったんです。

しかし、赤川の切腹後、彼が隆元に対して和智の宴に行くのを断るように進言していたことがわかりました。

すると、元就の矛先は和智に向かい、和智は幽閉された後、誅殺されたのです。

しかし結局、本当に和智が隆元を毒殺したのかどうかはわからずじまいでした。

病死説もあるため、隆元がなぜ死んだのかという理由はいまだ謎に包まれています。

隆元の跡を継いだのは、幼い輝元でした。
元就が後見をつとめ、しばらくはこの体制が続いていくこととなります。

しかし、前の項目でも述べたように、隆元がいなくなって初めてその存在の重みを毛利家内では実感したようでした。
そのため、2人の弟はあらためて毛利本家を支えていくという思いを新たにし、吉川・小早川の「両川(りょうせん)」体制が確立され、毛利本家をバックアップしていくことになったのです。

愛妻家は毛利の血?

隆元の正室となった女性は尾崎局(おざきのつぼね)と言いますが、彼女は大内義隆の養女であり、実父は大内家重臣・内藤興盛でした。

いわば、主筋の娘を娶るという栄誉を授かった隆元。

もちろん政略結婚ですが、彼と妻の仲はきわめて良好だったそうですよ。

輝元の他に娘をもうけますが、隆元は尾崎局以外の妻を持とうとはしなかったんです。

いいですよね、正室一筋って…!

よほどラブラブだったらしく、彼女に宛てた、「特に用事はないが、そちらに行く用事がある者がいたので、手紙を書いて持たせた」という何ともとりとめなく、でも愛情あふれる手紙が残っているんですよ。

この正室一筋というのはちょっとした毛利の血筋みたいなものだったようです。

父・元就も、正室であり三兄弟の母でもある妙玖を愛し、彼女が早くに亡くなるまでは側室を持ちませんでした。
また、弟である吉川元春、小早川隆景もまた、正室のみを愛したんですよ。

ならば、嫁ぐなら毛利家に!と思いますが…。

息子・輝元は、側室もりだくさんでした。
残念ですね。







稀に見るネガティヴ思考も、毛利の行く末を案じればこそ

隆元の一生を見てくると、雅な大内家の家風に触れたことで、気持ちの優しい若者に成長したことがわかります。
しかしその一方で、剛毅な毛利の血も持ち合わせていたことは、時に見せる勇猛果敢な判断からもうかがえますよね。
しかし、あまりにも偉大すぎる父と、武勇や知謀を受け継ぎ戦上手で名を馳せた弟たちの存在は、隆元にとっては引け目を感じる部分になってしまったのでしょう。
やはり戦国の世ですから、内政よりも武勇が重んじられてしまいがちでしたからね。
しかし、隆元のような財務能力や交渉術を持った存在こそが、戦での勝利に裏方でいちばん貢献していたんですから、それを彼はもっと誇りに思ってもいいと思うんです。
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