落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!

浄土真宗にはいくつもの宗派がありますが、戦国時代には本願寺派が大きな力を持ちました。しかし、その本願寺派もかつては落ちぶれていたんです。そんな本願寺派を建て直した中興の祖が、蓮如(れんにょ)。彼なくして、本願寺派が歴史に名を残すことはなかったでしょう。今回は、蓮如が歩んだ本願寺再興の道のりを解説していきたいと思います。






落ちぶれた本願寺に生まれて

落ちぶれた本願寺に生まれて

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蓮如が生まれたのは応永22(1415)年。
時代は室町時代初期、4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の頃になります。
父は浄土真宗本願寺は第7世宗主・存如(ぞんにょ)、母は詳細が伝わっていませんが、おそらくそれほど高い身分ではなかったと考えられています。
蓮如が6歳の時に実母とは生き別れになり、この頃父・存如が本妻の如円尼(にょえんに)を迎えたため、蓮如は長男ながら庶子という存在でした。

この頃の本願寺は、まさに「落ちぶれた」と言ってもいいほど貧しい状態にありました。

本願寺に参詣に来た人が、その落ちぶれぶりに驚き呆れ、別の寺に行ってしまったなんてこともあったみたいです。
蓮如と父にとっては、辛く、悔しい日々が続いたことでしょう。

ただ、そんな中でも、蓮如はひたすら勉学に励みました。
浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の著書を読みふけり、知識を深めていたんです。
表紙が破れるまで読み込んだと言われていますから、ひたすら親鸞の教えに近づくべく励んでいたことがわかりますね。

生涯の師・経覚との出会い

生涯の師・経覚との出会い

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永享3(1431)年、17歳になった蓮如は得度(とくど/出家の儀式)をして正式な僧侶となります。

そして、奈良の興福寺大乗院(こうふくじだいじょういん)の僧・経覚(ぎょうかく)の元で学ぶこととなりました。

経覚自身は浄土真宗の僧ではなく、法相宗(ほっそうしゅう)の僧でしたが、母親が本願寺出身の女性だったという縁から、蓮如を預かってくれたようです。

宗派は違えども、経覚は本願寺に心を寄せていました。
蓮如の父・存如が亡くなった時も、自ら弔問に訪れ、「彼は50年来の知己であり、無双の恩人だった」と言葉を寄せたほどでした。
こうした心の広さと、存如に対する恩義もあって、より本願寺に親切にしてくれたんですね。

そんな経覚と蓮如は、終生良き師弟関係を保ち続けたのでした。

本願寺派8世宗主となる

本願寺派8世宗主となる

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経覚の元で学んだ後、蓮如は父に従い、各地で布教活動を始めます。
関東や東北などの遠国にまで足を運び、落ちぶれた本願寺を回復するため、布教に励んだのでした。

この間に彼は妻帯しており、長男の順如(じゅんにょ)が生まれています。

そして、長禄元(1457)年に父・存如が亡くなると、彼が本願寺派8世宗主の座を継ぐことになったのでした。

ただ、ここで争いも起こっていたようです。
元々、長男とはいえ庶子だった蓮如に対し、父の正妻の如円尼は蓮如の異母弟を擁立しようとしたらしいんですね。
しかし、蓮如派の叔父が強行採決を決行し、蓮如を跡継ぎに据えたという一幕があったんです。

なんだかんだとありましたが、蓮如は8世宗主の座に就くと、早速布教活動に本腰を入れます。
それは、かなり独特で画期的なものでした。

まずは、開祖・親鸞の教えに立ち返り、本尊を統一しました。
そして、自分こそが親鸞の教えを正しく伝える者だとして、親鸞と自分の像をつくり、本尊と一緒に信徒に与えたんです。

また、説教の際は高座に座るのをやめ、門徒と同じ高さとなって対等に話をするようにしました。

こうした布教活動が実を結び、蓮如と本願寺は近江(滋賀県)付近に勢力を拡大していきます。
彼が本拠地とした京都の大谷本願寺には多くの参詣者が集まり、本願寺はようやく息を吹き返したのでした。

延暦寺からの弾圧

延暦寺からの弾圧

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しかし、本願寺の復興を快く思わない仏教勢力もいたんです。

本願寺は当時、天台宗の青蓮院(しょうれんいん)の末寺だったため、天台宗の元締め・延暦寺(えんりゃくじ)からやっかみを受け、弾圧を受けることになってしまったんですよ。
「勝手なことするな」というのが延暦寺の言い分だったようですが…。

これに対して、蓮如は延暦寺への上納金を拒絶し、強気な態度に出たため、両者の溝はいっそう深まることになってしまいました。

そして、寛正6(1465)年、延暦寺は蓮如と本願寺を「仏敵」と認定し、なんと大谷本願寺を破却してしまったんです。
これが寛正の法難と言われる事件で、蓮如は本尊と親鸞の木像を持って近江へ逃れたのでした。

その2年後には、青蓮院の奔走によって延暦寺と和睦しますが、延暦寺側が出した条件は、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡だったんです。
順如はとても有能で、将来の蓮如の後継として最も望ましい青年でした。
しかし蓮如はこれを飲まざるを得なかったんです。
それはすべて、本願寺を守るためでした。

順如は廃嫡されましたが、それ以後も父を助けて布教活動や貴族・戦国武将などとの折衝に尽力し、本願寺復興の原動力となっています。







実にデキた息子・順如

ここで廃嫡されてしまった順如ですが、本当にできた息子だったようですよ。

彼は本願寺の衰退期に誕生しましたが、得度の際につながりができた大僧正が朝廷や幕府とパイプのある人物だったため、これが後に有利に働くことになりました。

寛正の法難の直後、父・蓮如は万が一に備えて順如を後継に指名しますが、前述の通り、延暦寺は和睦の条件として蓮如の隠居と順如の廃嫡を要求してきます。

順如の廃嫡を求めた理由としては、彼とその後ろ盾の大僧正が朝廷・幕府に顔が利くため、その力を利用して本願寺の復興が成されるのではないかと恐れたということがあったんですよ。

ただ、廃嫡されても順如は腐ることなく、父のために尽くしました。
父が北陸へ布教活動に行っている間、彼は京都に残り、門徒の統率と朝廷・幕府との交渉に奔走したんです。
こうして、彼の貢献により本願寺再興計画が軌道に乗りましたが、彼自身はこの頃から病がちとなり、父に先立って亡くなってしまったのでした。

ちなみに、酒席で将軍・足利義政に裸踊りを求められたことがあるようですよ。
順如は困りましたが、本願寺再興のためには将軍にゴマをすっておかなければ…と思い直し、見事な裸踊りを披露したとか。
ただ、それがあまりに見事だと評判になってしまい、あちこちで裸踊りを求められ、困ってしまったということですよ。
ある意味、父以上に体を張って本願寺再興に奔走した人物と言えるでしょう。

新天地・越前での画期的な布教活動

新天地・越前での画期的な布教活動

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延暦寺と和睦した後、蓮如は北陸へ向かいました。
新天地を求めての布教の旅でしたが、そこで彼は越前(福井県)の吉崎(よしざき)に腰を落ち着けることに決めます。

この吉崎という地は、蓮如の師・経覚の所領であり、代官が本願寺の末寺住持だったため、蓮如が譲られたとも言われています。
いずれにせよ、ゆかりのある地だったわけですね。

しかし、この時の吉崎は荒地であり、「虎狼のすみか」とまで呼ばれるほどひどい有様だったようです。

蓮如は諦めることなく、荒地を整備し、吉崎御坊(よしざきごぼう)というお堂を建立し、布教活動の拠点とすることにしました。

そして、より多くの信者を獲得するため、彼はまたも新たな布教方法を打ち出します。

まず、信徒へ宛てた手紙「御文(おふみ)」の中で教えを説き、字の読めない人にも浄土真宗の教えがわかるようにしました。

また、信徒が自宅でも勤行できるようにと、親鸞の著作を木版刷りにして配布したんです。
加えて、読経の回数を1日6回から朝・夕の2回に減らし、信徒がより身近に仏の教えを感じられるようにしたんですよ。
これって本当に画期的ですよね。
これなら自分でもできる、と思った人々が、浄土真宗に帰依する大きなきっかけづくりとなったわけです。

こうして、斬新な布教方法が功を奏し、蓮如は越前の地で非常に多くの信徒を得ることになったのでした。

加賀守護・富樫家の内紛に介入

加賀守護・富樫家の内紛に介入

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徐々に力をつけてきた蓮如と本願寺派が、後に一向一揆の中心として武装することとなる姿を伺わせる出来事が、文明6(1474)年に起きました。

加賀(石川県西部)の守護・富樫政親(とがしまさちか)は、応仁の乱の際に細川勝元(ほそかわかつもと)側の東軍に属しましたが、弟・幸千代(こうちよ)は山名宗全側の西軍に属したため、兄弟で争うこととなり、政親は文明5(1473)年に敗れて加賀を追われていました。

政親が蓮如と本願寺派の力を頼りにしてきたこと、敵となった富樫幸千代側に本願寺とは対立関係にある浄土真宗高田派が力を貸していたこともあり、蓮如は政親を支援することに決め、幸千代を加賀から追い出し政親を再び当主の座に就けることに成功しました。

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世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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