落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!

本願寺の力は国を支配するまでに

本願寺の力は国を支配するまでに

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しかし、政親は本願寺勢力の力を実感すると共に、徐々に危惧を抱くようになっていったんです。
信徒は信仰のもとに蓮如の下に結集しており、その絆はとても固いものでした。

それが自身に牙を向くことを危ぶんだ政親は、何とか本願寺も信徒も自分の下で統率しようとしますが、そううまくはいかず、やがて両者の間に軋轢が生じたんです。

そんな中、蓮如の吉崎における右腕だった下間蓮崇(しもつまれんそう)が、蓮如の命令と偽って一揆を扇動し、これによって政親からの圧力が強まってしまいました。
そのため、京都にいた順如が自ら乗り込んできて、蓮如や家族を連れて吉崎を退去するという事態になってしまったんです。
これが文明7(1475)年のことでした。

蓮如は北陸を去りましたが、本願寺勢力は依然として大きな力を持ち続けます。
やがて、信徒となった土着の豪族たちと本願寺派は結び付き、加賀一向一揆という世紀の大一揆が起きることとなりました。
これは100年近く続き、守護は形骸化し、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれるまでになっていくんです。

復興を果たした本願寺

復興を果たした本願寺

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順如に連れられ、京都に戻ってきた蓮如は、山科(やましな)の地に新たな本願寺を建立することにします。
そして文明15(1483)年に完成した山科本願寺は、堀と土塁に囲まれ、寺内町を形成し、ある意味ひとつの城のような様相を呈していました。
このような巨大な寺を構えるに至り、本願寺は復興を果たしたのです。
ただ、この完成を見ることなく順如が死去し、蓮如は深い悲しみを抱えて寺の落成を迎えたのでした。

その後、蓮如は紀伊(和歌山県)にも拠点を置き、この場所が後の本願寺派寺院・鷺森別院(さぎもりべついん)の基礎となります。

晩年になっても精力的な布教活動にいそしんだ蓮如ですが、延徳元(1489)年、75歳の時に五男・実如(じつにょ)に宗主の座を譲って隠居します。

明応5(1496)年には大坂の石山に石山御坊を建立し、後の石山本願寺の前身を築きました。

こうして、往時以上の勢いを取り戻した本願寺を見届け、蓮如は85歳という長寿を全うしたのです。

その後の本願寺

その後の本願寺

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蓮如が復興させた本願寺は、その後も勢力を拡大しつづけ、11世宗主・顕如(けんにょ)の時代には蓮如時代を上回る全盛期を迎えます。
武装勢力としても大きな力を持ち、各地で起こる反権力の一向一揆の元締めとして戦国大名とも対等に渡り合い、あの織田信長を手こずらせるまでになりました。

しかし、信長に降伏後はその勢いも徐々に衰えていきます。
「石山本願寺城」とまで呼ばれた石山本願寺は焼失し、信長の死後はその地盤を引き継いだ豊臣秀吉の監視下に置かれるようになりました。

そして、12世宗主・准如(じゅんにょ)の時に本願寺は西と東に分裂することになったんです。

対信長強硬派だった順如の兄・教如(きょうにょ)と准如との間で対立が起こり、教如は「東本願寺」を設立し、准如の本願寺は「(西)本願寺」として現在にまで続くこととなったんですよ。







本願寺中興の祖・蓮如の偉業

落ちぶれた貧乏寺となっていた本願寺を、たった一代で復興に導いた蓮如の手腕は、ただのお坊さんではなく立派な政治家と言ってもいいほど見事なものでした。
布教方法の改革は、他の誰もが思いもよらなかったことであり、彼の革新的な考えが新たな信徒獲得に大いに貢献したんですね。
浄土真宗自体は現在とてもポピュラーなものですが、もし本願寺派でなくても、その影にこのような人物がいたことを心に留めておいていただけたらと思います。
まさに本願寺中興の祖と称えるにふさわしい偉業を、蓮如は成し遂げたのでした。
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